幕間:シュミル1(24)
そこまで考えて、不意に閃くものがありました。ゆっくりと顔を上げ、フィルダさんの横顔を見つめます。
「今、気づいたんですけど」
「ん? なに?」
フィルダさんは私の方へ体を向け、怪訝そうな表情を見せました。
「最初に『浮遊』を教えてくれていれば、こんなことにならなかったのではないでしょうか?」
それは単純な疑問でしたが、言葉を発した瞬間、フィルダさんの表情がわずかに硬くなり、部屋に重たい沈黙が落ちました。
人族がどの程度『浮遊』が使えるかはわかりません。地面で這うように作業する都合上、『浮遊』しなかっただけかもしれません。
でも、もし私が『浮遊』できると分かっていれば、神族信仰の人々はあんな真似はしなかった可能性があります。仮に放火しても空中へ逃げられてしまうのですから。
もちろん、小屋が崩れる時に『浮遊』が使えるかなど、細かい問題はあるでしょう。それでも、この能力があれば、ここまでの危険は避けられたのではないでしょうか。
「……ああ……まあ……そうだね……」
フィルダさんのためらうような返事に、新たな疑問が湧き上がります。
もしかするとフィルダさんは私を神族信仰に差し出そうとしていたのでしょうか。村へ連れて行くまでの強引な態度を考えると、これを完全に否定はできません。
でも、それが目的なら、私の意識がない間に村に連れていけばよかったはずです。
また、後から気が変わったにしても、襲われた時に助けなければいいだけです。まして護衛役として従者であるハネナガさんをつけることもないでしょう。
そう考えると、私の疑いは的外れかもしれません。ただ、『浮遊』を教えなかった理由は、まだ気になっています。
「どうしてなんですか?」
身を乗り出し、フィルダさんの表情を窺うように尋ねました。
フィルダさんは一瞬まぶたを閉じ、肩が沈むように深いため息を漏らします。
「……いくつか理由はあるんだけど……」
フィルダさんの口から出たのは普段より低く沈んだ声で、途切れがちの言葉でした。
「では全て言ってください」
私はフィルダさんの方に半歩近づきました。
「……長い話になるんだけど……」
フィルダさんは一瞬私を見やり、すぐに目を逸らします。いつもは伸びた背筋が、僅かに丸みを帯びていました。
「時間はたくさんありますから」
フィルダさんは、覚悟を決めたかのように深く息を吸い、ゆっくりと吐き出しました。
「……わかったよ……」
一呼吸置いて、私の目を真っすぐ見返してきます。
「まず、『浮遊』がどの程度で習得できるかわからなかった」
「? 今できるようになりましたよね?」
私は首を傾げ、手に少し力を入れます。
「一歩踏み出すところはね」
フィルダさんは私たちの足元——見えない足場を見下ろし、慎重に言葉を選んでいるようでした。
「でも、ずっと連続して歩くというのはまた別だし、高さに対する慣れも必要。それがいつできるかわからなかった」
フィルダさんの声には、言い訳めいた響きが混ざっています。
「だから教えなかった、と?」
身を乗り出し、私は早口で畳みかけました。
「でも、それこそやってみて様子を見ればよかったんじゃないでしょうか?」
「……結果から見ればそうだね」
フィルダさんの声が弱まり、肩が僅かに落ちました。
「いえ、結果を見ないでもそうだと思います」
その言葉に、フィルダさんの手が小さく震えました。
静寂が私達の間を通り抜けていきます。
「……二つ目」
小さく咳払いをして、フィルダさんは続けました。
「村で馴染めるようにと考えた」
「神族信仰がいるのに?」
思わず声が鋭くなりました。
「それは本当にごめん」
フィルダさんは真摯な眼差しで私を見つめ返します。
「そこまで深刻に考えていなかったんだ」
私は大きく息を吐き、考えを整理しました。
確かに、フィルダさんにとって人族など脅威にはならないでしょう。創造と破壊の力を持つ神族に、敢えて襲い掛かってくる者などいないはず。来たとしても容易く退けられるはずです。
神族信仰が明確な敵意を向けてきたのは、記憶を失った私の存在がきっかけ。そうでなければ、このような対立は起きなかったのかもしれません。
そう考えると、フィルダさんの認識の甘さを責めるのは的外れに思えてきました。
「……神族信仰への認識は置いておくとして」
私は瞳を一度閉じ、ゆっくりと開きながら言葉を紡ぎました。
「それと『浮遊』を教えないことで村に馴染めるように、というのはどう関係するんですか?」
フィルダさんは天井を見上げ、言葉を探すように間を置きます。
「『浮遊』持ちの人族というのはたぶんあまり多くない」
視線を落としながら、フィルダさんは説明を始めます。
「そんな中、『浮遊』持ちのシュミルが村に行けば、その力に期待する者も出てくるだろう」
「……そうかもしれませんね」
私の声は小さく、呟くように消えていきます。
「でも、シュミルに記憶が戻っていなければ、その期待に応えられないことを気に病むのではないかと考えた」
フィルダさんが口にしたのは懸念でした。
「それはつまり、そもそも期待されなければ、気に病まずに済むだろうということですか?」
私は眉をひそめ、言葉を区切りながら確認します。
「そういうことになる」
フィルダさんは静かに頷きました。
「……」
私は沈黙し、開いた板戸の向こうの遠景へと目を向けました。
そもそも人族が期待してきたとしても、そんなものは蹴飛ばせばいいのではないでしょうか?
確かに村で世話になっていたら、その世話に対してなんらかの恩義を感じて、蹴飛ばすのも難しい、そういう可能性は考えられます。
けれど、それは結局のところ、私自身が決めることであり、私が背負うべき重みです。フィルダさんが予め回避しようとするような問題ではないように思います。
「そして、三つ目。二つ目と関連するけど」
フィルダさんは一度大きく息を吸い、前置きしてから、私たちの足元へと目を落とします。
「『浮遊』もちが少ないということは、シュミルに『浮遊』を教えられる人族がいないかもしれないということだ」
「……」
私は一瞬言葉を飲み込み、その意味を考えました。
「つまり、もし中途半端に『浮遊』を教えたとして、村では使いこなせるようにはならないということですか?」
「そう。必然的に、僕のところへ来ることになるだろう」
フィルダさんの声は穏やかでしたが、芯の通った響きがありました 。
私は目を閉じ、その状況を思い描きました。
村の人から見れば、それは確かに面白くはないかもしれません。ろくに手伝いもせず、遊び呆けているように見えるでしょう。
いえ、今、フィルダさんを手伝っているとはとても言えませんが、これはフィルダさんが「手伝わせない」だけなので、この範疇には含まれないとしましょう。
そして、そのような状況になれば、神族信仰がなかろうと、村人が私に悪感情をもつのは避けられない。そのぐらいなら『浮遊』を教えない方がいいだろう——そんな判断に至ったのかもしれません。
「……」
私は俯いて小さくため息をつきました。
フィルダさんの考え、その一つ一つには確かな理由があり、筋が通っています。ここまで考えていたことに、少し驚きさえ覚えます。
でも、とても回りくどいです。
そして、一つだけ、フィルダさんの口から確認しておきたいことがあります。
「では、神族信仰に私を襲わせるために『浮遊』を教えなかったわけではない、で、いいですね?」
その言葉を発した瞬間、胸が締め付けられました。フィルダさんの善意を全否定するような質問。後ろめたさと、それでも確認せずにはいられない気持ちが混ざり合い、喉が乾いていきます。
自分でもひどい質問だと思っています。これまでのフィルダさんの優しい態度をすべて疑うことに等しいのですから。
フィルダさんを信じたい。でも、信じたいからこそ、このことだけは明確にしておきたいのです。




