幕間:シュミル1(23)
フィルダさんと護仕さん達の静かな話し声が耳に届き、私は目を覚ましました。柔らかな朝の光が、昨夜フィルダさんが作り出した部屋の中を優しく照らしています。
「じゃ、護仕、引き続き拠点探しを頼むよ」
フィルダさんは開け放たれた板戸の前に立ち、外を見ながら言いました。
「承知しました」
護仕さんたちは扉を開け、外へと歩み出ていきました 。
「拠点探し? ここじゃダメなんですか?」
私は思わず尋ねました。
昨夜、フィルダさんが作ってくれた家は、突然現れたものとは思えないほど居心地が良かったのです。寝台も柔らかく、朝まで安らかに眠ることができました。
昨日の襲撃で不安はありましたが、いつものようにフィルダさんが傍にいてくれたことで、安心して眠れたのだと思います。
「ここはあくまで臨時だね」
フィルダさんは穏やかな口調で続けました。
「急造の建物だから基礎もしっかりしていないし、簡素な造りで雨風をしのぐのが精一杯で長期間住むには向いていない。それに、前の家からさほど離れていないからシュミルも心配でしょ?」
フィルダさんの声は柔らかく、最後の言葉は私に向かって静かに投げかけられました。
「それは……」
言葉を濁しながら、私は床を見つめました。
確かに昨日の記憶が蘇ると、あの村の近くにいることへの不安が胸をよぎります。村から離れていないこの家はあくまで一時的なもの、そう割り切るのがいいのでしょう。
けれど、フィルダさんが作ったこの家が快適だからか、なくなることを想像して、なんとなく惜しい気がしてしまったのです。
私は続ける言葉を選びかねていました。
「あと、少しシュミルにも訓練してもらわないといけない」
聞き慣れない言葉に、首が自然と傾きました。
「訓練?」
「うん。拠点がどこになるかわからないけど、いつもシュミルを背負って移動するのは僕も辛いから、歩いて移動できるように」
言葉の意味が飲み込めず、私は寝台から立ち上がって実際に三歩ほど歩いてみせました。
「歩いて? 当然、歩けますよ?」
フィルダさんの表情が柔らかくなり、目尻に笑みが浮かびます。
「ああ、そういう意味じゃなくて、空中をね」
「空中を?」
私は思わず目を見開きました。
空中を……歩く?
そんな非現実的なことが、本当に可能なのでしょうか。
「そう、『浮遊』があれば、だけど」
フィルダさんはそう言って、何でもない事実を述べるかのように肩をすくめました。
その何気なさが、却って話の非現実さを際立たせます。
昨日の『契約法』に続いて『浮遊』——目の前で当たり前のように語られる不思議な力に、私はただ戸惑うばかりでした。
「それはどうすればいいんですか?」
空を歩くという途方もない話に、まだ心が追いついていませんが、私は思い切って尋ねてみました。
昨日見せてくれたフィルダさんの力を思い返せば、それも夢ではないのかもしれない——。
そんな期待と不安が入り混じる中、私は答えを待ちました。
「感覚的なものだけど、能力に慣れない頃は自分が踏みたい場所に見えない板がある、みたいなイメージでやってたね」
フィルダさんは目を細めて遠くを見やるように話し、その声音には何か懐かしげな響きがありました。
「板?」
ですが、見えないものを踏むという説明が受け入れられない私は困惑を隠せません。
「そう。たとえば、ここに板があるイメージで……」
フィルダさんは膝を軽く曲げ、歩み寄ってきました。私の目の前の空中に手のひらを滑らせ、慎重に四角を描いていきます。その指先は空気を切り取るかのように、一本一本の線をなぞっていきました。
「はい」
フィルダさんの真剣な眼差しに導かれ、私も空中の一点に集中します。フィルダさんの指が描いた軌跡を追ううちに、そこに透明な板が浮かんでいるような不思議な感覚が芽生えてきました。
「僕が書いた四角の場所に板があるつもりで、そこに足を乗せて、力をかけてみて」
フィルダさんの声は柔らかく、背中を優しく押すように響きます。
でも、実体のない空間に足を載せる?
その想像だけで膝が震えそうになります。
神族にとっては当たり前の能力かもしれませんが、記憶のない私には途方もない挑戦に思えました。
「……こう……です……か」
声が震える中、私はゆっくりと右足を上げていきます。膝が小刻みに揺れるのを感じながら、意識をフィルダさんが示した空間に集中させました。
最初は全くの空中に足を置くことへの恐怖感がありましたが、一歩を踏み出すと……。
そこには何か、目には見えないけれど確かな存在感を持つ足場のようなものが感じられました。その感触に少しずつ安心感を覚えながら、私は徐々に体重を移していきます。
「お、やっぱりできるね」
フィルダさんは両手を軽く組み、頷きながら穏やかな声で言いました。
「やっぱり?」
その言葉が引っかかり、私は足場から意識を逸らして顔を上げました。
フィルダさんは私がこれができるとある程度予想していたというのでしょうか。
フィルダさんは静かに説明を始めます。
「うん。シュミルが落ちてきた様子を見たんだけど、天界からそのまま落ちたにしては遅くてね。ひょっとしたら『浮遊』が無意識で機能していたんじゃないかと思ったんだよ」
その説明を聞いて、私は両手を胸の前で合わせ、自分の身体の内側へと意識を向けます。
言われてみると、見えない足場を感じる今の感覚は、どこか懐かしく、体が自然と反応しているような気がしてきます。まるで長い間忘れていた動作を思い出すような、そんな不思議な感触でした。
「そうなんですね……でも、これで私も空を歩けるってことですね?」
期待に胸が膨らみ、声が自然と弾みます。
「まぁ少しずつね。いきなり高所に行って高さに目を回して墜落とかしたら怖いよね?」
フィルダさんは眉を少し上げ、諭すように言います。その冷静な指摘が、私の高揚感を一気に打ち消すように響きました。
「っ!」
その瞬間、自分の立ち位置を意識してしまい、バランスが崩れそうになりました。
高さを意識した途端、足が竦んだのか、それともイメージが弱くなったのか、さっきまでしっかりとあったはずの足元がふわふわと不安定に感じられます。
私は慌ててフィルダさんの腕をつかんでバランスを取り直しました。
目には見えない足場があると信じて歩くには相応の訓練が必要なのかもしれません。
「その時は受け止めてくださいね」
不安で声が震え、思わず甘えるような調子になります。フィルダさんの腕を掴む指に、自然と力が籠もりました。
「受け止める前に、手をつないでおくかな。そうすればシュミルが足を踏み外しても気づけるし」
フィルダさんは手を差し出し、穏やかな目で私を見つめました。
「お願いしますね」
差し出された手を握ると、掌から伝わる確かな温もりが緊張を和らげていきます。少し荒れた指の感触が、不思議と安心感を呼び起こしました。
フィルダさんは外の光に目を細めながら、「ただ、当面は室内での練習からだね」と告げました。
「そうなんですか?」
首を傾げると、髪が頬に触れる感覚がします。
「そう。『浮遊』は浮遊板を足で捉える感触が大事だから、裸足が一番向いているんだ。慣れれば履物を履いていてもできるようになるけど、それは相当慣れてからだね」
フィルダさんは私の手を優しく握りながら、経験者らしい落ち着いた口調で説明します。
「そうなんですね」
視線を落として、私は自分の足ーー裸足を見つめました。
言われてみれば、履物は確かに足を守ってくれますが、それは同時に足下からの繊細な感触も遮っているのかもしれません。
見えないものをあるはずと思って踏むためには、履物というのは邪魔でしかないのかもしれません。




