幕間:シュミル1(22)
神族信仰の襲撃を受けた場所から、少し歩いたところでフィルダさんがが足を止めました。辺りを見渡し、何かを確かめるような様子でした。
月明かりに照らされた木々の影が、私たちの周りで静かに揺れています。
「時間も遅いし、今日はこのあたりにしておこうか」
フィルダさんの声が、夜の静寂に柔らかく溶け込みます。
「このあたり?」
私は眉をひそめ、辺りを見回しました。
目の前には幹の太い木々が立ち並び、枝葉が生い茂って月光を遮っています。せいぜい雨露をわずかにしのげる程度としか思えません。
「うん、今日は少し休みたいでしょ?」
フィルダさんは私の肩に手を添えて、顔を近づけてきました。
「野宿ですか?」
私はためらいがちな声で尋ねました。
フィルダさんの「休みたい」という言葉で疲れを認識したものの、身体を休めるとしたら、どう考えても土で汚れるのは避けられません。
神族信仰に襲われることを考えれば、汚れることなど大したことないと言われればそうなのですが。
いえ、それ以前にこの森の中で夜を凌げるのかという不安があるのです。
「僕一人ならそれでもいいんだけど、シュミルもいるし、ちょっとしたものを用意するよ」
フィルダさんは優しく微笑みかけた後、やや開けた場所に身体を向け一歩踏み出しました。
「ちょっとしたもの?」
私の困惑した声が宙に漂う中、フィルダさんは夜空に向かって静かに言葉を紡ぎ始めました。
「創造の神ヴェイルよ、イザレムの盟約により我が名においてその力を行使せよ。我が望みをこの場に具現せよ」
詠唱の最後の音が消えると同時に、私の目の前に信じられない光景が広がりました。
何もなかったはずの場所に、突如として石造りの家が現れたのです。石が積み上がっていく様子もなく、忽然と姿を現した、そう表現することしかできません。
「え? ええ⁇ ええええっ⁇」
思わず大きな声が漏れました。
突然現れた建物に圧倒され、目を何度もこすり、信じられない思いで首を振りました。
記憶のない私には、これが神族にとって日常的な光景なのか、それとも特別な出来事なのか判断がつきません。
いえ、さっきもそのようなことを思った気がしますが、それも仕方ないことでしょう。
私はただ、月の光を受けて輪郭がくっきりと浮かび上がる石造りの家を、呆然と見上げることしかできませんでした。
「追手がいるかもしれないから、ちょっと静かにね」
フィルダさんが静かにするように合図を送りながら、小声で諭しました。その仕草に我に返り、私は慌てて両手で口を押さえました。
「は、はい、ごめんなさい」
声を押し殺しても、胸の鼓動は収まりそうにありません。
こんな信じられない光景を目の当たりにして、平静を保てと言われても無理な話です。
「それで、その、これはいったい何なのでしょうか?」
私は月光に照らされた石造りの家を指さしました。
どう見ても家ですが、ひょっとしたら野宿が嫌と思っている私の願望で家に見えるだけかもしれません。
「これ? 創造の神との『契約法』でね」
フィルダさんはまるで道案内でもするような気楽さで答えました。
私は家のことを聞きたかったのですが、フィルダさんの返答が「何」ではなく「どうやって」になったのは、家は誰が見ても家だとわかるから、まさかそんなことを問われているとフィルダさんは思わなかったのでしょう。
質問の仕方を間違えてしまったようです。
けれど、フィルダさんの返答は私が聞こうとした家かどうかよりも、もっと重要なことを示唆していて、むしろ確かめるべきは別のことのように思えました。
さっきの詠唱と、目の前に突如として現れた家。そして「創造の神との契約法」という言葉。それらを結びつけると……。
「家を作ったってことですか? 一瞬で?」
言葉にすることで、改めてその途方もなさとともに戸惑いを感じます。
私の狼狽ぶりをよそに、フィルダさんは淡々と答えます。
「ああ、別に家を作る『契約法』じゃないんだ。僕が思ったものを作る『契約法』だね」
この何気ない説明に、私は息を呑みました。家を作るだけでも信じられないのに、思ったものを何でも?
そんな途方もない力が、このフィルダさんにはあるというのです。そして、その事実をこともなげに話す様子が、かえってその力の凄さを際立たせていました。
「そ、それってなんでもありってことなのでは?」
「そんなにすごいものじゃないよ。作ることができるのはあくまで僕が考えることのできるものだしね。だからよくわからないものは作れないんだ」
フィルダさんは肩をすくめ、月明かりに照らされた石壁に手を添えながら答えました。
その仕草は不思議なほど日常的で、この非現実的な状況との落差に戸惑いを覚えます。
彼の言葉の意味を考えました。考えることができるものなら、それが何であれ創り出せる――。
私は言葉も出ないまま、その途方もない事実を受け止めることしかできませんでした。
「立ち話もなんだし、入ろうか」
フィルダさんが石の家の扉に手をかけるのを固唾を呑んで見守ります。
ついさっきまでそこには木々の影しかなかったというのに。
「は、入ろうかって……」
フィルダさんの声はあまりにも自然で、その日常的な様子に私の混乱は更に深まります。彼の説明を聞いた今でさえ、心のどこかで何かの幻を見ているのではないかと疑っているのです。
特別なことをしたように振る舞ってくれた方が、まだ受け入れやすかったでしょう。
フィルダさんが重たげな木の扉を開くと、軋みの音が静寂を破ります。家の中は深い闇に包まれ、わずかな月明かりが差し込んで土間の敷居が黒い線となって浮かび上がっていました。
「おっと、それもそうか」
フィルダさんはそういうと、さっきと同じように詠唱しました。
「創造の神ヴェイルよ、イザレムの盟約により我が名においてその力を行使せよ。我が望みをこの場に具現せよ」
詠唱を終えたフィルダさんは屈み、何かを手に取りました。
彼の右手の差し指に橙色の光が点ったかと思うと、その光が左手に持っていたものへと移り、蝋燭の炎となって闇を照らしました。
その光に照らされた室内には、寝台や椅子、テーブルといった家具が整然と並んでいます。簡素ながらも、確かな存在感を持って。
たった今出現したとは思えないほどの安定感のある佇まいに、私は言葉を失いました。これが幻だとしても、この不思議な安らぎの中にいたいと思ってしまいます。
フィルダさんは蝋燭を掲げながら室内を進み、壁際に置かれた燭台を次々と灯していきました。温かな光が広がる度に、壁の石の質感が浮かび上がり、影が揺らめきます。
部屋の全容が見えてきた今、フィルダさんは私に入口から離れた奥の寝台を勧めました。私がそこに腰を下ろすと、フィルダさんは入口に近い壁際の寝台に座り、向かい合います。
しかし、何を言えばいいのか思考がまとまりません。
ほんの一時間ほど前まで命の危険に晒されていて、どうなるかと思っていただけに、今の状況を理解することを頭が拒否しているようにさえ感じます。
ややあって私の口から出たのは朧気な質問でした。
「……神族ってみんなこういうことができるんですか?」
こういう、というのは、フィルダさんが行った家を一瞬で作ることです。
もしこれが神族共通の力なら……。神族信仰が神族に執着する理由も分からなくはありません。
その考えが浮かんだ途端、この状況下で私にできることの無力さを痛感しました。逃げるしかない、守ってもらうしかない自分。その現実が重くのしかかります。
「あー、まぁ数は少ないかな……みんながみんなってわけじゃない」
フィルダさんは蝋燭の明かりに照らされた手のひらを見つめながら答えました。
「そうですか……私もなにか『契約法』があるんでしょうか?」
期待に胸を膨らませながら尋ねました。
フィルダさんの示してくれた可能性に、心が大きく揺さぶられます。無力な自分から抜け出せるかもしれない。それも、ただ力を得るのではなく、この家のような素晴らしいものを創り出せるかもしれない。
さしあたっては……さしあたっては何がいいでしょう。家を作ったり、消したり。あるいは、もっと素敵なものを。
夢が膨らみ過ぎて、口元が自然と緩んでいきます。
「うーん、なにかしらはあると思うんだけど、『契約法』は名に基づく行使だから、確認のしようがないね」
フィルダさんの落ち着いた声が、私の空想に小さな針を刺しました。期待に膨らんでいた胸の内が、ゆっくりとしぼんでいきます。
「名? シュミルって名じゃダメなんですか?」
私は蝋燭の揺らめく光に照らされた寝台の端を握りしめながら、首を傾げて問いかけました。
フィルダさんは眉をわずかに寄せ、考えるような仕草を見せました。
「それは僕が後からつけたもので、シュミルが本来最初からもつ名は別にあるからね。契約した時の名前でないと行使できないんだよ」
「そうなんですね……」
その説明に、私は肩を落とし、小さな溜め息を漏らしました。指先で寝台の布地をなぞりながら、期待が萎んでいくのを感じます。
私には本来の名前があるというのに、それを思い出せない。その事実が、さっきまでの夢のような想像を一気に現実へと引き戻します。
フィルダさんのような素晴らしい力を持てる可能性はあるのかもしれない。でも、それを確かめる術すら、今の私にはないのです。
「ね? やっぱり記憶がないと不便でしょ?」
ああ、またこの展開です。不便だから記憶を戻そう、だから村に行こう――。いつものフィルダさんの論法に、思わず呆れ声が出ます。
「あー、またそういう結論を出す」
不便だから記憶を取り戻そうという話には、もう十分すぎるほど付き合ってきました。その結果が何だったのかを思い出すと、また体に震えがきます。
「いや、不便だって話であって……」
フィルダさんは言葉を濁し、宥めるように手のひらを上げます。
「フィルダさんがこうして家を作ってくれたから、今は十分です」
これ以上、あの恐怖を思い出すような話はしたくありません。その思いを込めて、穏やかだけれどきっぱりとした口調で告げます。
「自分で行使できるのと、他者が行使するのは別だから」
でも、そんな私の気持ちなどフィルダさんは気づかないのか、いかに記憶を取り戻すのが大事かを訴えようとしてくるのです。
「もう、その話は今はいいです。ゆっくり寝かせてください」
疲れ切った声で告げると、ようやくフィルダさんは諦めてくれたようでした。
「ああ、そうだね、ごめんごめん」
「もう……」
私は寝台に横たわり今日一日の出来事を思い返しました。
神族信仰の襲撃と、フィルダさんが見せた驚くべき力。その両方が同じ現実の中で起きたことだと思うと、まだ頭が混乱します。
でも、その混乱の中から、新たな疑問が浮かび上がってきました。
フィルダさんには、こんな素晴らしい力があるのです。今日は私が襲われたために反撃しましたが、本来なら敵対関係はおろか、崇められていてもいいはずです。
それなのになぜ辺鄙な場所で護仕さん達とひっそりと暮らしているのでしょうか。
確かに、この力があれば、村で共同作業をする必要はないかもしれません。
けれど、フィルダさんがあの場所に住んでいた理由には、もっと深い意味があるのではないでしょうか。
その答えを知りたいという気持ちがありながらも、今の私には尋ねる勇気がありません。もしかしたら、その答えは私にとって、あまりに重いものなのかもしれないからです。
そんな予感がして、私は質問を飲み込んだのでした。




