幕間:シュミル1(21)
外に出て小屋を振り返ると、夜闇を裂くように建物の両側から炎が這い上がっていました。風にあおられて揺らめく炎は、パチパチと音を立てながら板壁を舐めるように広がっています。
建物の中心部はまだ無事ですが、このまま放っておけば全体に燃え広がるのは時間の問題でした。
「どうしますか?」
ハネナガさんの問いに、フィルダさんは炎に照らされた建物を見上げ、しばらく黙り込みました。
数秒の沈黙の後、ため息をつくように言葉を紡ぎました。
「……きっかけは村の側にあるとはいえ、水だとちょっと被害が出て後始末が大変そうだし、破壊するしかないか」
落ち着いた低い声でそう告げると、フィルダさんは右足を半歩前に出して構えました。
「え? え?」
その言葉の意味が私には理解できず、瞬きを繰り返しながら、フィルダさんの横顔を見つめました。
『水だと後始末が大変』?『破壊する』?
頭の中で次々と疑問が湧き上がります。
「僕の後ろにきて」
フィルダさんは私の方へ顔を向けることなく、左腕を横に伸ばして制止するような仕草を見せました。その声には普段より強い意志が感じられます。
「こ、こうですか?」
炎の熱が頬を刺すように痛い中、緊張で息を詰めながら、フィルダさんの背中を見つめました。胸の内では不安と期待が交錯し、鼓動が早くなっていくのを感じます。
「護仕も巻き添えを食らわないように僕の後ろへ」
フィルダさんは顎を僅かに上げ、背筋を伸ばしたまま、右手で後方を指し示しました。普段の穏やかな声色は消え、低く響くような声音で命じます。
それは彼らが気安いだけの間柄ではないことを感じさせるものでした。
「……しばらくお待ちを……避難しました」
周囲に目を配りながら、フィルダさんは一呼吸置いて言葉を区切りました。
「破壊の神イルテミナよ、ノルドリングの盟約により我が名においてその力を行使せよ。我が眼前の物体を虚無に帰せよ」
フィルダさんの声が終わると同時に、眼前で燃え盛っていた小屋も、周囲の樹々も、元々そこに何もなかったかのように、跡形もなく消え去っていました。地面には何かが存在した痕跡すら残っていません。
「え? ええ⁉」
燃やすものを失った炎は、まるでそこにあったことが場違いであったかのように消えていき、後には、何もなかったかのような空虚な空間だけが残されたのです。
先ほどまで赤く染まっていた木々は夜闇に射し込む月明かりがわずかに照らし、あたりを静けさが包み込んでいます。
信じられない光景に、私は思わず体を震わせました。
記憶のない私には、こんなことが起こり得るのかさえ判断できなかったのです。
「樹は何本かなくなったけど、このぐらいは勘弁ということで」
フィルダさんはまるで日常的な作業を終えたかのような口調で言いました。
周囲を見回すと、護仕さん達には驚いた様子は見えません。当然のこととして受け止めているようです。
「フィルダ様、消火はこれでいいですが、小屋もなくなってしまいましたね」
ハネナガさんは建物があった場所に目を向けながら、実務的な口調で指摘しました。
「懲りずにまたやってこられても困るし、別のところに拠点を移そう。どこかよさそうなところを護仕達で探してもらえないか?」
その声は先ほどの厳かさを失い、普段の柔らかな頼み事をする時のような穏やかな調子に戻っていました。
「承知しました」
護仕さん達が暗がりの中へ消えていくと、フィルダさんは深いため息をついてから、ゆっくりと私の方へ体を向けました。
月明かりに照らされたその表情には、眉間に皺を寄せた申し訳なさが浮かんでいます。
けれど私の方は、まだ両手を胸の前で固く組んだまま、フィルダさんの姿に釘付けになっていました。
目の前で起きた超常的な出来事への驚きと、フィルダさんという存在が秘めていた力への畏怖が、自分の知っていたフィルダさんと乖離していて、どう受け止めればいいのかわからなかったのです。
「怖い思いをさせてごめんね、シュミル」
フィルダさんが近づきながら、優しく語りかけてきました。その声は、夜風に乗って柔らかく私の耳に届きます。
目の前のフィルダさんは、両手を軽く開いて立っていて、柔らかな月明かりに照らされた表情には、いつもの穏やかさが戻っていました。
先ほどまでの非日常が終わりを告げたことを悟った私は、逆に冷静に先ほどまでの出来事を思い出し、恐怖が押し寄せてきたのです。
「……フィルダさん……フィルダさんっ」
気がつけば、私はフィルダさんに縋り付いていました。
両腕で彼にしがみつき、顔を肩に押し付けました。声が震えているのも、足が震えているのも、もう隠すことができません。
フィルダさんの体温を感じられることが、今の私には何より確かな安心できる場所でした。
「完全に油断してた。神族信仰のことは知っていたんだけど、まさかこんな強硬な手段をとるとは思わなくて」
フィルダさんは私の背中を優しく撫でながら、後悔の籠もった声で言いました。
「……うう……だから村で嫌な気がしたっていったのに……」
フィルダさんは私をより強く抱きしめ、その腕の中で、私の震える体は少しずつ、でも確実に落ち着きを取り戻していきました。
「そうだね。ごめん」
フィルダさんの声が、耳元で柔らかく響きました。
「村に行ってたら今頃どうなってたか」
想像しただけで、背筋が凍るような恐怖が蘇ってきて、フィルダさんにしがみつく力が強くなってしまいました。
「ほんとにごめん」
フィルダさんの温かな指先が、ゆっくりと円を描くように私の背中を撫でていきます。
でも今の私には、それだけでは心が満たされません。さっきまでの恐怖が完全には消えていないから、もう少しだけ甘えさせてもらってもいいはず。
そんな思いと共に、私は両腕をフィルダさんの背中に回したまま、顔を首筋に埋めるようにさらに身を寄せました。フィルダさんの温かな吐息が私の髪を揺らし、彼の腕の中で私はまだかすかに震えているのを感じていました。
恐怖で冷えきっていた体に、フィルダさんの温もりが服地を通して染み渡ってきます。
「これはもう責任とるしかないです」
首筋に顔を埋めたまま、息が直接肌に触れるように囁きました。
「責任?」
フィルダさんの戸惑いの声が耳元で響き、その言葉を発する度に、喉元の微かな振動が私の頬に伝わってきました。
「そう、責任。私が記憶を取り戻すまでは私とずっと一緒にいる責任」
私の声に含まれる甘えと強がりの混ざった調子に、フィルダさんの体が一瞬こわばるのを感じました。
でも、こんな危険があることがわかった以上、フィルダさんの傍にいることが、私にとって最も安全で確かな選択です。そう、それは単なる口実ではなく、紛れもない事実なのです。
その安全を考えれば、記憶を取り戻すことなど些細なことです。
「……シュミルが僕のことを気にせず自由にするっていうならいいよ」
長い沈黙の後、フィルダさんは深いため息をつきました。その温かな吐息が私の髪を揺らします。
「気にせず自由に?」
「あくまでシュミルの自発的な意思で僕のところにいるだけで、シュミルが嫌になったらいつでも離れていいってこと」
私を束縛することを恐れているような、そんな遠慮がちな響きに、胸の奥が切なく疼きます。
その言葉に込められた優しさが、逆に私の心を乱します。まるで私との距離を保とうとするような、そんな慎重さが心に棘のように刺さって、私は思わずフィルダさんの背中に回した指に力を込めてしまいました。
このままの姿勢では、フィルダさんの表情を窺うことはできません。けれど、彼の心が私の望む方向とは違う場所を見ていることだけは、痛いほど分かります。
「むー」
思わず不満の声が喉の奥から零れ出ました。
フィルダさんの言葉には優しさが溢れていて、私のことを大事に考えてくれているのは分かります。
でも、私が離れていくことを想定しているのが、どうしても気に入りません。
だって私は……記憶が戻ろうと戻るまいと、フィルダさんの傍にいたいと思っているのです。
その気持ちは、今この瞬間、間違いなく私自身の意思なのに、そんな気持ちも知らないで、勝手に「嫌になったら」なんて、私を侮っているとしか思えません。
「な、なに?」
首元で感じる声が少し上ずっていて、どこか戸惑いが感じられました。
私は両腕に力を込めて、さらに強く訴えかけました。
「それじゃ責任とってません」
「責任というか、今回のことの償いだよ」
耳元に届くフィルダさんの声は、幼い子供を諭すような優しさを帯びていて、それが逆に私の心を焦らせます。
「もー、そういう言葉の問題じゃありません」
むくれて思わず首を振った拍子に、私の頬がフィルダさんの首筋にさらに擦れました。
その動きが、まるで甘えるように首筋とこすり合わせるような仕草になってしまったことに、してから気づきましたが、他意はありません。偶然の産物です。
「自分の過去を思い出すまで、迂闊なことをしてはいけないよ。それがあちこちに思わぬ迷惑をかけることもあるんだから」
フィルダさんの声が、微かな震えと共に首筋から私の頬に伝わってきます。その声音に、私の胸を締め付けるような寂しさを感じました。
「はぁい……」
私は形だけの返事を漏らしました。
フィルダさんの言っていることは理屈としては正しいのかもしれません。いえ、正しいのでしょう。
でも、迂闊なこと?
その言葉の意味するものが、私の心を不安げに揺らします。もしも、フィルダさんの元にいることが迂闊だというのなら――。
思わず両腕に力が入りました。
それだけは、絶対に認めるわけにはいきません。




