幕間:シュミル1(20)
ハネナガさんは少し考え込むように目を伏せ、ややあって何かに気づいたのか顔をあげました。
「……ひょっとしたら、地上の神族信仰に巻き込まれたのかもしれません」
「しんぞくしんこう?」
初めて聞く言葉を、私は頭を傾げながら繰り返しました。
『しんぞく』は『神族』でしょう。ですが、『しんこう』は何を指しているのか分かりません。『侵攻』?『親交』?『進行』?
言葉を頭の中で反芻しながら、意味を探りますが、どれを当てはめても、この状況に結びつきません。
「人族は元々地上に降りてきた神族がおこりとされているんですが、その一部に神族への回帰を目指すというのを聞いたことがあります」
「回帰? 神族に?」
説明を聞いても腑に落ちず、聞き間違えではないかと言葉を繰り返しました。
そもそも種族が違うのですから、後天的になれるものではないはずです。
「要は神族に戻りたいということですね」
ハネナガさんが言い換えてくれましたが、その言葉は事態をより不可解にしました。
私に自分の記憶はないとはいえ、土に塗れる人族が不浄な存在であることを疑う余地はありません。
そんな存在が神族に戻ろうとするなら、その不浄という本質的な違いをどうにかしなければならないはずです。
「それがこれとどう関係……あ……」
言葉の途中で、恐ろしい可能性に思い至り、私は声を詰まらせました。
記憶を失い、神族としての力も十分に使えない今の私を狙い、自らの不浄を濯ぐ── 。
脳裏をいくつかの恐ろしい考えが掠めます。私は反射的に頭を振り、その想像を振り払おうとしました。ですが、不安は根を張り、心の奥に沈殿していくのです。
ハネナガさんは言葉を選ぶように、一拍置いてから静かに続けました。
「……ちょっと口に出すのは憚られますので言いませんが……要はシュミル様が狙い目だと判断された可能性ですね」
彼は微かな躊躇とともに視線をちらりとこちらに向けました。
その一瞬の仕草が、かえって私の想像したことに真実味を与えることになり、目の前が真っ暗になります。
──そんな理由で、私は狙われているの……?
思考の先に広がる恐怖と嫌悪感、鼻腔を突く焦げ臭い匂いが入り混じり、吐き気が込み上げてきて、私は耐えきれずに口元を押さえました。
「フィルダ様もじきに……」
勢いよく扉が開く音が部屋に響き渡り、ハネナガさんの言葉が途切れました。
「シュミル、大丈夫か?」
力強い声が部屋に響き、私は弾かれたように入り口を見ました。
薄暗い部屋の中、月光を背にした影に、私の視線が釘付けになります。その姿には見覚えがありました。
「フィルダさんっ」
思わず声が上ずりました。喉から絞り出すように名前を呼んでいました。
助けが来た──そう思った瞬間、胸が少しだけ軽くなりました。
「悪い、くるのが遅れた。急いでここを出よう」
フィルダさんの言葉は短く切れ切れでした。彼は扉の枠を掴み、体を少し前に傾げています。その体勢は何かに備えるように緊張感に満ちていました。
息を乱しているのか、それとも言葉を急いでいるのか。ですが、その声には焦りが混じっているように感じられました。
その違和感に、私は一瞬だけ戸惑いました。
ですが、フィルダさんが焦るほど事態は切迫しているのかもしれないと思い直しまし、私は小さく息を吐きました。頭を振って違和感を払いのけ、助かるかもしれないという希望に縋ります。
「ううん、大丈夫……」
私がその言葉を返し終わらぬうちに、ハネナガさんが動きました。
彼は足を踏み出し、私とフィルダさんの間で両腕を広げて立ちはだかります。
「近寄るな、偽物め」
ハネナガさんの声は、今までに聞いたことのないような低い響きを帯びていました。その言葉には怒りと警戒が混ざり合い、部屋の空気が緊迫したものになりました。
「え?」
私は状況が飲み込めず、口が半開きになったまま固まりました。視線が入り口に立つフィルダさんと、目の前で私を庇うように立つハネナガさんの間で彷徨います。
ハネナガさんは少しだけ顔を傾け、私に視線を送り低い声で告げました。
「あれは見た目だけフィルダ様に似せた偽物です」
「おいおい、何を言ってるんだ?」
入り口に立つフィルダさん── いえ、彼の姿をした何者かが、苛立ちを隠さない声で応じました。
その口調に、胸の奥で何かが引っかかります。
それは違和感。今まで感じていたそれが、はっきりとした形を取り始めました。
投げやりな口調、「おいおい」という言葉遣い、そして「何を言ってるんだ」という突き放すような言い方。
確かに、目の前の存在はフィルダさんの顔をしています。── けれど、その言葉の端々に、彼らしさが欠けているのです。
もちろん、フィルダさんとハネナガさんは主と従者という関係ですから、従者であるハネナガさんから偽物扱いされればフィルダさんが気を悪くする。これはおそらく普通のことです。
でも、フィルダさんと護仕さん達のこれまでの関係を見ていると、そんなことは絶対にないように思えるのです。
もしそのような状況になったとしたら、フィルダさんは両手をあげて、無抵抗で誤解が解けるまで待つ、そんな気がするのです。
無言の私にハネナガさんが再び警戒を促します。
「シュミルさん、だまされないでください」
「……やれやれ、可愛くねえなぁ……火事にしても外に出てこねえし、大人しくだまされもしねえ」
その言葉と声はフィルダさんのものとは完全に別物でした。
フィルダさんの顔だったもの、その目が細められ、口元が歪みました。見慣れた顔の上に別の人格が上書きされたかのようでした。
そのフィルダさんの偽物から、ハネナガさんが私を守ろうとしてくれています。
ですが、少年のような体つきの彼と、偽物との体格差は歴然としていました。その小さな身体で私を守り切れるかどうか── 。
そんな不安が頭をよぎった、その時。
「風法!」
ハネナガさんが呟きとともに右手を突き出すと、室内に突風が巻き起こりました。その風は一瞬で部屋中を包み込み、煙を払いのけ、偽物に向かって集中的に押し寄せます。風の音が耳を打ち、髪が激しく揺れました。
「ちっ……!」
フィルダさんの顔をした“それ”が舌打ちをします。その仕草が、私の最後の疑いも断ち切りました。── こんな態度を、本物のフィルダさんが取るはずがない。
偽物は腕を顔の前にかざし、耐えるように後ずさりました。
ですが、それ以上に気になったのは ハネナガさんでした。
どう見ても子供にしか見えない彼が、何の躊躇もなく偽物に立ち向かっているのです。それどころか、その腕から放たれた風は、肉体的な不利を完全に無視するほどの力がありました。
彼もまたフィルダさんの従者の一人、フィルダさんから護衛を任されるだけのことはあったのです。ただの子供だと思っていたのは、大きな誤りでした。
偽物もハネナガさんの思わぬ抵抗に焦りを感じているようです。苛立ちからか、その顔がまた醜く歪みました。
「護衛がいたのは予想外……だが、もうじき仲間が……」
そう言いながら、一歩後ずさり、入り口に向かって鋭く視線を投げました。
その瞬間。
「こないよ」
短い言葉とともに金色の光が部屋を走り抜けました。
まばゆい閃光が空間を満たし、私は思わず目を細めました。眩しさで視界が一瞬白く染まり、まぶたの裏に残像が残ります。
「……っ」
偽物は何かを言いかけたまま、その体が僅かに揺れ、首が、胴体から滑るように落ちました。そしてその後を追うように、その身体も崩れ落ちたのです。
その背後には、もう一つの── 本物のフィルダさんの姿がありました。
「ごめん、遅くなった」
フィルダさんは静かな声でそう言いました。その声には本物の温かみがあり、偽物の冷たさとは明らかに違いました。
「……今度はホンモノです」
ハネナガさんがその言葉を小さく告げ、肩の力を少し抜いたようでした。彼の緊張していた表情が和らぎ、安堵のため息が漏れます。
その仕草を見た途端、全身から力が抜けていきました。
「よかった……よかった……」
安堵の言葉を繰り返しているうちに、視界が徐々に滲んでいきます。
「遅くなってごめんね。ハネナガもありがとう」
フィルダさんはゆっくりと歩み寄りながら、ハネナガさんへの感謝の言葉を忘れませんでした。
ああ、やっぱりフィルダさんです。
目の前にいる彼から感じる空気は、さっきの偽物とはまるで違いました。
「いえ、たいしたことはしていませんから」
ハネナガさんは小さく首を振りました。
その声はいつもの落ち着きを取り戻していましたが、どこか照れ臭そうにも聞こえました。
実際、もしハネナガさんがいてくれなかったらどうなっていたか分かりません。
偽物に違和感こそ感じていたものの、火事で慌てている状況で誘導されるままについていってしまった可能性は否定できません。
指先を強く握りしめ、そんな可能性に思いを巡らせました。
彼が守ってくれなければ、私は──。
その思いに胸を締め付けられ、私は再び込み上げる涙をこらえるように、フィルダさんの姿をじっと見つめました。
「ひとまずここを出よう。まず履物を履いて」
フィルダさんの声が、柔らかく響きました。
壁の向こうではまだ火の燃える音が続いているはずなのに。
けれど、優しさが織り込まれたその声を聞いただけで、張り詰めていた心が少しずつほどけていくのを感じたのです。
「……はい」
小さく息を吐きながら答え、私は急いで履物を履き、差し出されたフィルダさんの手を取り、握りしめました。
温かい。
その温もりに安心を見出すように、気づけば私は指を強く絡めていました。
そしてフィルダさんに手を引かれ、小屋の外へと足を踏み出したのです。
ハネナガさんは私達の後ろを守るように周囲を見回しながらついてきているようでした。
足の震えは、微かに残っています。この短い時間で何が起きたのか、私の頭はまだ十分に整理できていないのかもしれません。
でも、目の前のフィルダさんが間違いなく本物だという確信が、私の心を支えています。
小屋から離れるにつれ、新鮮な空気が肺に流れ込み、少しずつ心と体の緊張が解けていくのを感じました。




