幕間:シュミル1(19)
不意に感じた焦げ臭い匂いが、私の鼻孔をくすぐりました。最初は微かなものでしたが、じわじわと濃くなり、喉の奥を刺すような刺激が広がってきます。
ハネナガさんは突然足を止め、細い眉をきつく寄せながら、ゆっくりと首を振りました。背筋を伸ばし、鋭い目つきで周囲を見回しています。彼の肩が緊張で固くなるのが見て取れました。
「ひょっとして……」
彼の呟いた声は、いつもの朗らかさを失い、低く沈んでいました。
次の瞬間、彼は部屋の奥へと駆け出しました。そして、壁際にたどり着くと、片手を支えにして耳を壁に押し付けます。
「ハネナガさん?」
私は戸惑いを隠せず、小さな声で問いかけました。
「やられました、火をつけられてる」
彼は壁から顔を離し、素早く体を回転させて私を振り返りました。その声は低く、抑えた怒りに震えているように聞こえます。
「えっ?」
驚きが喉の奥からこぼれました。
息を詰めて耳を澄ますと、確かに壁の向こうから微かなパチパチという音が断続的に響いているのが分かります。
それが意識にのぼると、室温が少しずつ上がっているようにも感じられます。
「本来、神族に火災なんて意味がないんですが……」
ハネナガさんが忌々しそうな表情を露わにして、壁に背を向けました。
「どういうことですか?」
その問いを口にした後、唾を飲み込もうとして、まともに流れていかないほど、口の中が乾いていることに気づきました。
ハネナガさんは息を一度深く吐き、私の方へと歩を進めました。
「神族は『蘇生気』というものがあるので、物理的な現象で肉体が損傷を受けても問題がないんです」
ハネナガさんは私がどこまで記憶があるか分からないからか、私の反応を探るように、間を取っているようでした。
「ただ、記憶がない……つまり精神と肉体の連絡がうまくいってない……かもしれないシュミルさんの場合、回復ができないかもしれないんです」
彼は言い終えると唇を噛みました。
最後の一言が、鋭い刃のように胸に突き刺さりました。
今の私には、普通の神族なら持っているはずの回復能力がない……。
つまり、この火は私にとって本当の意味での危険なのです。
「それじゃ、外に出ないと……」
喉の奥でつかえた声が、震えながら漏れました。
身に迫る脅威を認識した私は立ち上がり、逃げようと一歩を踏み出しました。しかし次の瞬間──膝から力が抜けるように、身体が崩れ落ちました。
「え……?」
床に尻もちをついたまま、私は呆然としました。
両手を床につき、目を大きく見開いて自分の脚を見つめます。自分の身に何が起きたのか理解できませんでした。
ハネナガさんは素早く私の側に屈み込み、肩に手を添えながら心配そうに問いかけてきました。
「大丈夫ですか?」
その言葉でようやく私は自分が大丈夫ではないこと、脚が小刻みに震えていることに気づきました。
「は、はい。ただ、脚が……」
言葉を絞り出しながら、震える膝に視線を落としました。
何度も立ち上がろうと意識するのに、足がまるで別のもののようでした。自分の体であるはずなのに、言うことを聞かない。その無力さが、恐怖よりも深く胸を刺しました。
足が動かない、それだけで私は完全に足手まとい。逃げることさえできないのです。
ですが、ハネナガさんは私を軽蔑した様子もなく、小さく首を振りました。
「それでよかった、というのは違いますが……最悪にはならずに済みました」
「最悪にはならずに済んだ?」
私は困惑を隠せず、眉をひそめて彼を見上げました。
どういうことか理解ができません。このままでは火に巻かれて死んでしまう可能性があるのに。それのどこが「最悪ではない」のでしょうか?
そんな私の疑問に彼は小声で告げました。声は低く、ほとんど囁くように。
「ええ、『神族に対し』本当に殺意があればこんな回りくどいことをしません」
「そう……なの?」
私は半信半疑のまま、言葉を絞り出しました。
命の危険が迫っている状況を回りくどいと言われるとなんとなく釈然としない思いがあります。
それでも彼の声の落ち着きは、混乱する私の精神に僅かな安定をもたらしていました。
「いえ、たしかに今のシュミルさんにとって危険な可能性はあるのですが……」
ハネナガさんは慌てたように手を前に出し、首を横に振りました。
「そもそもシュミルさんが回復できないかどうかは、私も確信があるわけではありません。これはフィルダ様も同様でしょう」
「……どういうこと?」
眉間にしわを寄せて、頭を傾げました。混乱した思考を整理しようとしますが、恐怖と不安のせいか、頭がうまく働きません。
「私達が人族であると──もっと言えば、この程度で死ぬと思って仕掛けたとは考えにくい、ということです」
「人族であると考えたという可能性は?」
そう問いながらも、自分でも少し疑問に思います。けれど、もしかしたらという考えが頭をよぎったのです。
「人族の村に神族であると伝えた後、それも自称ではなく、フィルダ様が同行した後で? ありえませんよ」
ハネナガさんは迷いなく首を横に振り、断言しました。その声には一片の迷いも感じられません。
「それなら……いったい何のために……」
喉の奥で言葉が詰まります。乾いた唇を舌で湿らせようとしますが、口の中も乾いていて潤いません。
死なないと分かっている相手に、わざわざ家に火をつける理由が思いつきません。
「おそらく、外に出たところを誘拐する気でしょう」
その言葉に、私は息を呑みました。
「誘……拐……? 誰を?」
自分でも驚くほど、かすれた声でした。喉が強張り、上手く言葉が出てきません。
そう問いながらも、心の奥では答えを分かっていました。ただ、分かりたくなかったのです。
「状況から考えてシュミルさん以外いませんね」
ハネナガさんは申し訳なさそうに視線を落とし、静かに告げました。
殺されるわけではない──そう考えれば、まだマシなのかもしれません。けれど、それでよかったとは到底思えません。
「どうしてこんなことに……」
私は顔を両手で覆い、視界を閉ざしました。
心当たりがなさすぎます。いえ、ここにくる前の私が何か仕出かしていた可能性がないとは言い切れず、それが余計に不安を掻き立てます。
記憶のない自分の過去が、今この瞬間に影を落としているのかもしれないという恐れが、胸の奥で膨らんでいきました。




