幕間:シュミル1(18)
「というより、神族で記憶喪失というのが希少すぎて、想定外だったと思うんだよ」
フィルダさんの言葉に、私は一筋の光明を見出したような気がしました。
「想定外なら咎められないとか?」
一縷の望みを込めて尋ねる私の声には、期待が滲んでいたかもしれません。
でも、フィルダさんは一度深く目を閉じ、何かを諦めるように、ゆっくりと首を横に振りました。
「そういう恣意的な判定はされないよ。破ったか、破らなかったか。判断基準はそれだけしかない」
再び目を開けたフィルダさんはテーブルの上で手を組み、一語一語を区切るように話します。
「そうなんですね……」
力が抜けたように椅子の背もたれに寄りかかり、物思いに沈むように天井を見上げました。
決まりは必要なものかもしれませんが、もう少し寛容であってもいいのではないでしょうか。
「ね、だから記憶を取り戻すのが大事なんだよ」
フィルダさんの結論に、呼吸が一瞬止まり、喉元がぎゅっと引き締まります。理屈では分かっているはずなのに、体が勝手に拒絶反応を示すかのようでした。
「うー、強引にその結論に導かれた気がします……」
不満を露わにする私に、フィルダさんは諭すように言います。
「強引かもしれないけど、それが大事だってことはわかるでしょ?」
言葉の重みを感じながら、顎を引いて目線を落としました。
フィルダさんの言っていることは分かります。
たしかに『誓約』があったら大変です。でも、ないかもしれないのです。
そして、もし『誓約』がなければ、別に記憶を取り戻さなくても何の問題もないかもしれないのです。
いえ、もちろん色々大変どころかフィルダさんには多大な迷惑をかけてしまっているのは間違いありません。ですが、そこに目をつぶれば、そして、私だけの問題だけを見れば、私の心次第で問題はなかったことにできます。
むしろ、この記憶喪失には何か意味があるのではないかという思いが、私の中で、ほんのわずかですが、確実に存在しているのです。
神族で記憶喪失が起こり得ないにも関わらず、今この状態があるのなら、それは偶然の産物ではなく、元の私が望んだ結果なのではないか、そんな気さえするのです。
それに...。
今こうしてフィルダさんと過ごす時間、困った表情も、優しい仕草も、時折見せる愛らしい反応も、全てが私にとって大切なもの。それを記憶のために手放すなんて、考えたくもありません。
「天界に戻れば確認できる見込みはあるんだけど……」
フィルダさんは言葉の最後を引き伸ばし、視線を板戸の隙間から外へと向けました。
「今はそれができないってことですか?」
「そう。だから今は確認しようがない」
フィルダさんは両手の指を絡ませながら、重い口調で答えました。
その言葉に希望を見出した私は、フィルダさんの傍を離れずにすむ方法をします。
「でも、永久に戻れないってわけじゃないですよね? だったら、待っていればいいんじゃないでしょうか?」
私は言葉を急かすように続け、フィルダさんの反応を待ちました。
「……そんなに村には行きたくないの?」
口元に手を当てながら、フィルダさんは思案するように言葉を紡ぎました。
「はい……」
私の素直な返答に、フィルダさんの眉間にかすかな皺が寄り、青い瞳が揺れるのが見えました。
村での違和感はあります。共同便所も水汲みも土いじりも嫌です。けれど、それ以上に、フィルダさんとの距離が遠くなることへの不安があるのです。
「そうか……それじゃ……!ユーカク!オナガ!」
フィルダさんの目つきが険しいものになり、口元が一文字に引き締まりました。声が一転して低く鋭くなり、口調にはそれまでの柔らかさが消えています。
その変化に、私の肩が反射的に跳ね上がりました。
「はい、ここに」
扉が軋む音を立てて開き、ユーカクさんとオナガさんが姿を見せました。
フィルダさんの声が響いてから入室までの間が短すぎます。彼らは外で待機していたのかもしれません。
外からはフィルダさんの表情とかは見えなかったと思いますが、さっきの会話を聞かれていたと思うと少し気恥ずかしいですね。
私は耳の付け根が火照るのを感じました。
「なにか周囲が気になる。ちょっと探ってきて」
フィルダさんの声は、いつもの柔らかさが消え、低く鋭い響きを帯びていました。
こういう格好いいフィルダさんもいいですね。
「承知しました」
「あとハネナガはシュミルの護衛を」
ユーカクさんとオナガさんの後ろにいたハネナガさんへの指示は、より強い緊張感を帯びていました。
「はい」
状況が急変したことに、胸が締め付けられるような不安が押し寄せてきました。
「なにかあったんですか、フィルダさん?」
「いや、なんかいつもと違う感じがしてね。ちょっと見てくるよ」
フィルダさんは板戸の前で一度立ち止まり、外を見つめました。普段の穏やかな声色を作ろうとしていますが、目は外の闇を刺すように鋭く、肩に力が入っているのが分かりました。
「大丈夫ですか?」
フィルダさんを一人で行かせていいのか、胸が締め付けられるような不安に襲われました。
「僕のことは心配いらないよ」
フィルダさんは振り返ることなく部屋を出て行きます。その背中が扉の向こうに消えると同時に、私は椅子に深く腰を落とし、肩から力が抜けていきました。
先ほどまでの温かな空気が冷たく凍りついたように感じられます。
「いったい何があったんでしょう?」
私は扉を見つめたまま、自分の声が聞こえないほど小さく呟きました。
傍らのハネナガさんが無言で首を横に振る様子が、視界の端に映ります。
「わかりません」
その返答に、漠然とした不安が胸の中で形を成していきました。
一体フィルダさんは何を感じ取ったのでしょうか。




