幕間:シュミル1(17)
「と、とにかく、番の『誓約』はそういうもので、要は相手を裏切らないってことを誓うんだよ」
お仕置きは十分したと考えたのか、フィルダさんが声を引き締めて話を切り上げようとしました。
先ほどまでの愛らしい仕草が、凜々しさの下に隠されてしまいました。
もう少し照れたフィルダさんを見ていたかったのに……。
私は胸の中で小さく溜め息をつきました。
あの照れくさそうな表情が、またいつか見られる日が来るのでしょうか。
今は、頬にわずかに残った痛みだけが、先ほどの親密な瞬間の証として残されています。
頬の感触を大切に感じながらも、もう一度フィルダさんの優しさに触れたくて、甘えるような柔らかな声で話しかけました。
「ううう……頬が痛いです」
大げさに頬を押さえ、わざとらしく唇を尖らせてみせました。
「今のはからかうシュミルが悪いでしょ」
フィルダさんは腕を組み、反省を促すように指摘しました。
ですが、私の心には後悔の欠片も見当たりません。
むしろ、フィルダさんをからかえたことも、頬をつねられたことも、全てが愉しい思い出として、私の中に沁み込んでいくのを感じます。
「こんな頬ではお外に出れません。フィルダさんに責任とってもらわないと」
頬に手を当てたまま、少し顔を傾けて、フィルダさんの反応を窺いました。
「あー、もう、悪かったって」
フィルダさんは両手を上げ、手首をだらりと下げて降参の仕草を見せました。
勝負あり。こんなにあっさり降参してしまうなんて、フィルダさんは押しに弱すぎです。自分で仕掛けておきながらこんなことを言うのも変ですが、フィルダさんの先行きが心配になってしまいます。
守ってあげたい、この優しさを。でも同時に、もっとからかって、もっとたくさんの表情を見たい……。
相反するはずの二つの気持ちが、不思議と私の中で自然に溶け合っているのです。
「では、私の痛いところを撫でてください。痛いのでやさしく」
声を落として囁くように言いながら、私はゆっくりとフィルダさんに近づきます。
こんな機会は二度と訪れないかもしれない——その思いが私の背中を押していました。
「……はぁ……シュミルは自分がからかったって自覚ある?」
フィルダさんは眉根を寄せ、長い息を吐きました。その声には諦めと優しさが混ざり合っているようで、それがさらに私の心をくすぐります。
フィルダさんも私の悪戯心に気付いている。それなのに叱りきれない——その事実に、私の心はさらに弾みました。
「えへへ……ありますけど、それとこれは別の話です」
私は両手を後ろで組み、おどけた笑顔で、じゃれつくように言いました。
完全な開き直りですが、私は少しも後悔していません。
もし、悪いとしたら、それは私に負けてしまったフィルダさんの方です。
そっと差し出された手が頬に触れ、頭がふわりと軽くなるのを感じます。
この優しさに付け込むのは良くないと分かっていながら、私の唇は自然と緩んでいきました。
「まったく……」
二つ目の溜め息がフィルダさんから漏れます。その声に含まれる優しい諦めに、胸の中で小さな喜びが膨らむのを感じました。
でも、その後の言葉で、会話の空気が一変します。
「それで、話を元に戻すと、シュミルがすでに番の『誓約』を誰かとしているなら、記憶喪失というのは、その『誓約』を破った扱いになるのか、はたまた破ってない扱いになるのかがわからないんだ」
負けた腹いせというわけではないでしょうが、私の頬から手を離すと、フィルダさんはまた真面目な話を始めました。
もちろん私のことを考えてくれているのはわかるのですが、ああいう雰囲気なら、もっとこう甘やかすのが筋のように思います。せっかく築き上げた甘い雰囲気なのに。
思わず口を尖らせましたが、フィルダさんの真剣な表情に、反論の言葉は飲み込むしかありませんでした。
「記憶の問題であって精神としては誓いを破っていないと考えるなら問題なくて、誓いを破っている扱いになったら罰が下るということですか?」
「そう。それでもし罰が下る状態なのに、このまま記憶が戻らなかったら、自分も過去に誓った相手も不幸だよね?」
私は目を伏せ、言葉を探すように少し間を置きました。
もし私に『誓約』を交わした相手がいたとしたら、どんな思いでしょうか。
大切な約束を交わした相手に忘れられるというのは、とても辛いことだと、理屈ではわかります。
でも不思議なことに、そんな仮定をしても、私の心は特に動揺を覚えなかったのです。
「それは……そうですね……」
手元に視線を落とし、指先で机の縁を軽く撫でながら、思いつきを言葉にしました。
「誓っているかどうかっていうのを判断する方法ってないんでしょうか?」
問題は私の記憶がないことです。
でも、他者を巻き込む問題なら、第三者の誰かが見定められてもいいように思います。
「『誓約』は破った時に重い罰を受けるけど、破る前までは警告とかはないんだよ。破ってみればわかるけど、破った時は手遅れみたいな」
フィルダさんは声に感情を抑えて、決まり事を述べるように説明しました。
掟破りと罰のような話になっていますが、だとすればさっきのフィルダさんの雰囲気破壊も罰があってもいい気がしてきました。
もちろんその償いはさっきの雰囲気で頬を撫でることで。
とはいえ、今の話題でそんなことを口に出せるわけもなく、私は上辺だけの感想を述べました。
「不便ですね」
こんな厳格な掟は、本当に誰のためになるのでしょうか。
警告もなく、いきなり罰を与えるだけの制度。それは単なる懲罰でしかないように思えます。




