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せいじゃものがたり  作者: 瀬山みのり
幕間:シュミル1
61/103

幕間:シュミル1(15)

 それから一週間はあっという間に過ぎました。

 私には語るべき過去の思い出がありません。フィルダさんとの会話の中で「私も……」と続けられない時は、少し寂しい気持ちになります。でも、彼の話に耳を傾けるのは、とても楽しい時間でした。

 特に、彼のお姉さんの話を聞く時間が好きでした。お姉さんの話題になると、フィルダさんの目元に優しい笑みが浮かび、声が一層温かみを帯びるのが分かります。

 ふと浮かんだ疑問を口にしてみました。


「ひょっとしたら私にもそういう大事な相手がいたのでしょうか?」

 フィルダさんの手の動きが止まり、少し考え込むように目を細めました。


「いるかもしれないね。こう、なにか不安みたいなものはない?」

「いえ、ぜんぜんありません」

 私は迷いもなく首を横に振り、両手を広げて見せます。


「……」

 フィルダさんの肩がゆっくりと下がり、ため息とも違う小さな音が漏れます。私の答えは予想外だったのでしょうか。

 確かに、記憶を失うという事態を考えれば、もっと深刻に受け止めているのが自然なのかもしれません。

 誰かを思い出せないことへの苦悩や、失われた絆を求める切なさ―。そういった感情が私にあるべきなのかもしれません。

 でも、じっと目を閉じて心の中を丁寧に探っても、暗い影一つ見当たりませんでした。


「そういうのがあるものなんですか?」

 私は少し考え込むように首を傾げながら問いかけました。

 フィルダさんは一瞬動きを止め、視線を板戸の向こうへと逸らします。

 指先でテーブルを軽くトントンと叩きながら、言葉を選ぶように間を置いて答えました。


「それはわからないな。そういう漠然とした不安みたいなものがあったりしないかと思っただけで」

 その声には、どこか言い淀むような調子が混ざり、普段の確かな口調とは違っていました。

 それを聞いて、私は自分なりの推測を巡らせました。

 フィルダさんには、自身の経験から何か言えることがあるのかもしれません。


「反対に聞きますけど」

 私は体を少し前に傾け、フィルダさんの様子を窺います。

「フィルダさんはお姉さんと離れて不安みたいなものはあるんですか?」

 フィルダさんの表情が一瞬緩み、肩の力が抜けていきます。

「とくにないかな」

 その何の迷いもない声での答えに、今度は私が肩透かしを食らいました。

 眉が自然と上がり、何度か瞬きをしながらフィルダさんの顔を見つめ直します。

 なにか経験があるから聞いたと思ったのに、ただの想像とはさすがに思いませんでした。


「フィルダさんにはそういう感情がないのに、なんで私にはあると思ったんですか?」

 素直な疑問として、私はフィルダさんに尋ねました。

 フィルダさんの指がテーブルの縁を軽く撫で、体の動きが一瞬止まりました。一瞬、唇を引き結び、それから少し力のない声で答えます。

「……一般論としてそういうこともあるかと思っただけだよ」

「フィルダさん自身が該当していないのに、どうしてその一般論が適用できると思ったんですか?」

 その問いかけに、フィルダさんの瞳が大きく開かれ、動きが止まりました。

 フィルダさんは目を伏せ、いつもの穏やかな表情から深い物思いに沈んだような様子に変わっていきます。

 両手を膝の上で静かに重ね、視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を紡ぎ出しました。


「僕と姉さんは『誓約』しているわけじゃなくて、僕が一方的に慕っているだけ。それは一般論の範疇には含まれないからだよ」

『誓約』という言葉が、妙に鮮明に響きました。その音が私の意識を捉えて離しません。

『誓約』という言葉に、思わず耳が引き寄せられました。その響きが妙に鮮明に耳に残ります。

「『誓約』ってなんですか?」

 思わず声が半音高くなり、椅子の端に身を乗り出します。両手が自然と前に伸び、息を詰めたまま答えを待ちました。

「あれ? その知識は記憶にないのか……それじゃほんとに縁がなかったのかな」

 フィルダさんは目を丸くし、少し考え込むように椅子に深く腰を落としました。


「どういうことですか?」

 フィルダさんの言葉にさらに興味を惹かれ、思わず上体を前に傾けていました。

 フィルダさんは一瞬考え込むような表情を見せ、それからゆっくりと言葉を選ぶように口を開きました。

「『誓約』自体はどんなことにでも使えるんだけど、僕が今いったのは番の『誓約』だね」

「番の『誓約』、ですか? どういうものなんでしょうか?」

 私としては率直に聞いただけだったのですが、フィルダさんから返ってきたのは半音上ずった声でした。


「う……なんか面と向かって説明するのは照れるな」

 さっきまでの落ち着いた様子が、まるで借り物だったかのように崩れ、指先で髪の端を弄び始めました。

 青い瞳が泳ぎ、言葉を探すように口元が微かに揺れる。そんな仕草の一つ一つが、私の目に新鮮に映りました。

「恥ずかしいことなんですか?」

 気付けば私は両手を軽く机に着いて椅子の端まで身を乗り出し、その言葉が口から零れ出ました。

 フィルダさんのさらなる反応を見たい――その思いが、私の意識より先に声となって出てしまったのです。


「恥ずかしいというか……僕も聞いた話でしかないから」

 言葉の端々に詰まりながら、フィルダさんの目が部屋の中を彷徨うように動きました。

 普段は泰然としているフィルダさんが、こんなにも言葉に詰まっている。

 その姿を見ているうちに、胸の奥が熱く波打つような感覚が広がっていきました。

 フィルダさんの薄紅色に染まる頬、視線を逸らす仕草、時折途切れる声。それらが私の心を掻き立て、次はどんな表情を見せてくれるのだろうと、期待が膨らんでいきます。

 それは良くないことかもと思いながらも、この高鳴る鼓動から逃れることはできません。


「興味があります。教えてください」

 私は僅かに顎を引き、上目でフィルダさんを見つめました。

 もし、フィルダさんが「どうしてそんなに知りたいの?」と聞いてきたら、私は迷わずこう答えるでしょう。「これは私の記憶の扉が開くかもしれないからです」と。

 この口実があれば、フィルダさんはきっと答えてくれるでしょう。そしてまた新しい困った表情も見せてくれるに違いありません。

 つけ込んでいるようで、後ろめたい気持ちも少しはありますが、この機会を逃したくありません。


「う……シュミルも記憶が戻ればきっと思い出すよ。天界では常識みたいなものだし」

 フィルダさんは言葉の途中で咳払いをし、板戸の向こうを見るように、完全に横を向いてしまいました。

 ああ、だめ、これはだめです。

 フィルダさんが可愛すぎます。

 あどけなさと可愛らしさと艶めかしさが混ざったような表情に、頭の中がふわふわと軽くなり、まともに考えられなくなっていきます。

 これは反則、いえ、もはや罪と言ってもいいでしょう。


「今です!」

 突然の声に、フィルダさんの肩が小さく跳ねました。

「今知りたいです! 今知れば記憶につながるかもしれないです!」

 自分でも驚くほど強引な声が、私の喉から飛び出しました。

 テーブルに乗り出した私を見て、フィルダさんは上体を後ろに反らします。

 そのか細い抵抗にも似た仕草に、胸の鼓動が早くなり、頬が熱くなるのを感じました。

 もはや記憶なんて二の次です。目の前のフィルダさんの一挙手一投足が、私の思考を支配していました。


「はぁ……しょうがない。僕も聞いた話だけど」

 そんな私の勢いに負けたのか、フィルダさんは諦めたように首を左右に振りました。

 その仕草を見て、私の中で更なる悪戯心が膨らんでいきます。

 笑みを浮かべながら、からかうような口調で言葉が零れ落ちました。


「自分のことをさも他者のことのように言うことってありますよね?」

 私の言葉に、フィルダさんの瞳が大きく見開かれます。

 唇が小さく開かれ、一瞬言葉を失ったように見えました。

「なんでそういう記憶はあるの?」

 呆れと驚きの混ざったような声。

 フィルダさんの指摘はもっともですが、それは私にも答えようがありません。

 言葉の使い方や常識的な物事の理解は残っているのに、自分自身のことだけが、まるで霧の向こうに置き去りにされたかのようなのですから。


 ただ、フィルダさんがそう返してくるというのなら。

「やっぱり自分のことなんじゃないですか?」

 私は体を前に傾け、顎を軽く上げて、意識的に真っ直ぐな視線を向けました。

 フィルダさんの反応が見たくて仕方がないのです。困ったように眉を寄せる表情も、頬を染めて目を逸らす仕草も、凛々しく背筋を伸ばす姿も、全部全部。

「違うって」

 フィルダさんはきっぱりとした口調で言い、背筋を伸ばして私を見据えました。普段の柔らかな物腰は消え、眉間に可愛らしい皺を寄せています。

「こら、あまりからかうようだと説明しないよ?」

 唇を引き結び、細い指で机を軽く叩くことで威厳を保とうとする仕草に、思わず微笑みそうになりました。

「はぁい」

 私は慌てて両手を胸の前で合わせ、小さく頭を下げます。膝の上で握っていた手も緩め、申し訳なさそうな表情を作りました。

 いけない、いけない。ちょっとからかいすぎました。

 でも、顔を伏せた陰で、私の口元は自然と緩んでいきます。フィルダさんの姿が視界から消えても、その可愛らしい怒り顔は私の脳裏にくっきりと残っていました。

 フィルダさんはやっぱりわかっていないのです。

 フィルダさんの叱り方は、まるで子リスが威嚇するように愛らしく、そんな叱り方では私が懲りるわけがないことを。それどころか、そんな叱り方は、私にとってご褒美にしかならないということを。

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