幕間:シュミル1(14)
フィルダさんの家に戻ってから、彼は私の様子を窺うように近寄ってきました。両手を胸の前で軽く握り、眉間に薄くしわを寄せる表情から、心配と期待が交錯しているのが伝わってきました。
「どうだった、村は? 馴染めそう?」
私は疲れた体を寝台に沈めながら、ゆっくりと息を吐きました。視線を床に落とし、両手を膝の上できつく組みます。
「村はもういいです」
私の声は意図せず沈み、言葉が喉につかえるような感覚になりました。
フィルダさんが「私が村に馴染める」と思っていたことが確定してしまったのです。あんな場所での生活に、私が適応できるなどと、です。
記憶を失う前の私はひょっとしたらああいう生活に馴染める性格だったのかもしれません。
けれど、今の私は絶対無理です。
「え?」
フィルダさんは困惑したような声を上げました。
私はどう説明したらいいかを考えます。
共同便所は耐えられない、とか、水汲みが大変そう、などという理由では、いくら温厚なフィルダさんでも目を見開いて怒りそうです。
元はといえば記憶を取り戻すことが目的なのですから、それに結びつけてしまえばよいのではないでしょうか。
できるだけ落ち着いた声を心がけて言いました。
「一通り見ても何も思い出せませんでしたから」
フィルダさんは私の俯いた顔に目線を落として身を乗り出します。
「でも暮らしているうちに思い出すことも……」
私は胸の奥で渦巻く深いため息を押し殺しました。
組んでいた手を解き、寝台の布地を無意識に撫でながら、視線を少し逸らします。
フィルダさんは本当に親切なのですが、肝心なところで配慮というか観察が足りません。私は一度だって
「記憶をなんとしてでも取り戻したい」と言ったことはないのです。
つまりフィルダさんが私の記憶を取り戻すように行動するのは、辛辣な言い方をすれば独善でしかないのです。
もちろんそんなことを指摘するわけにはいきませんが。
私はできるだけ穏やかな口調を保とうと努めました。
「フィルダさんが色々してくれるのはわかってます。でも、村はもういいんです」
「なにかあった?」
フィルダさんは少し首を傾げながら私の顔を覗き込んできました。
なにか。
今、なにかと言いましたよ、フィルダさんは。
私は目を何度か瞬かせ、唇を固く結びました。
ツチノコはいったん許容できるとしましょう。洗った後で、皮も剥いてあって、元が土に埋まっていたと考えなければ、つまり純粋に味だけを考えればどうにかなります。
最初にその事実を言わずに私に差し出しだまし討ちしたも同然のフィルダさんに一言言いたい気持ちはなくはないですが、それも飲み込みましょう。
ですが、フィルダさんの中ではツチノコを植えるために土まみれになるのも共同便所も水汲みも大した問題ではないと。
フィルダさんの中で私はどういう認識なのでしょうか。
冷静に考えて天界の神族があのような生活に耐えられるわけがありません。
現にフィルダさんだって、地上では生活していますが、村で生活しているわけではないのです。
地上での生活経験もない私がいきなり村に馴染むと考える方がおかしいです。
ですが、私にも分別はあります。ここで「フィルダさんの考えはおかしいです」と直截に指摘するのがよくないことぐらいは分かっています。
ここで大事なことはもっともらしい理由、それでいてフィルダさんが否定できない理由をつけることです。
私は一度深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してから顔を上げました。フィルダさんの肩あたりに目線を留めます。
「……村を出る最後にいやな感じがしました」
村での出来事を思い出し、その中からフィルダさんを説得するのに向いていることを口にしました。
とはいえ、これはこじつけというわけではありません。
人族と違う神族であるせいか、私に向けられる視線から、纏わりつくような不快感を感じたのはたしかです。
漠然とした感覚なので説明するのは難しいのですが。
「いやな感じ? 去りがたいとかじゃなく?」
フィルダさんは戸惑ったような声を上げ、眉をひそめました。
「去りがたいかどうかなんて間違いません! あれは嫌な感じです!」
フィルダさんの見当違いな反応への憤りに、私は寝台から立ち上がりました。
あの感覚は、共同便所での不快感とはまったく別の種類のもの、ましてや懐かしさや未練とは違うものです。
ただそれをうまく言葉にできないのが歯がゆいです。
「ああ、ごめんごめん、そういう感じを僕は受けなかったから」
フィルダさんは、申し訳なさそうに右手で髪を掻きながら頭を下げました。
こういうところです。
親切だけど無神経。でも、傲慢ではなくてすぐに謝る。私に向き合ってくれる。
そういう態度をとられると、私の胸のうちが温かくなってしまうのです。
フィルダさんには私を保護する義務などないのに、ここまで手を尽くしてくれているのです。その行動が私の心情にそぐわないものだとしても、怒るべきではありません。
私は先ほどの強い口調を恥じ、静かに寝台に座り直すと、穏やかな口調を心がけて提案しました。
「無理にきっかけを作らなくても記憶は自然に思い出すときがくると思うんです」
フィルダさんは顔を上げ、椅子の上で姿勢を正しました。私を助けたいのに方法が見つからないからでしょうか、その表情には深い思案の色が浮かんでいるようで、申し訳ない気持ちが湧いてきます。
でも、フィルダさんに迷惑がかかっても、あの村で生活するのは嫌でした。
「せめて少しでも記憶が戻るまでは、ここにいたいんです」
声が震えそうなのを抑えながら言葉を紡ぎました。
思えば「共同便所が嫌」などと言わなくて本当によかったです。
もし、それを言ってしまっていたら、フィルダさんのことです。「なら、今日から共同便所に慣れよう」と言い出しかねません。
フィルダさんと並んで?
想像しただけで羞恥で身悶えしそうです。
そんな私の心情をフィルダさんは察することなく、一瞬目を伏せ、小さく息を吐きました。
「わかった。あと一週間は様子をみようか」
「うー、記憶が戻るまでがいいです……」
不満気に唇を尖らせながら床を見つめて呟きました。
一週間後の私が共同便所に慣れる、馴染んでいる、そんな状況になっている可能性は万に一つも考えられません。
いえ、記憶が戻ったら馴染めるのかと言えば、それも怪しそうですが、それは記憶が戻った時に考えればよいことです。
ひとまず無期限でお願いしたいです。
「だーめ、それじゃいつまでもたっても進展しないでしょ?」
フィルダさんが優しく頭を振る仕草に、私の中でもっと甘えてみたいという気持ちが疼きます。
これは誰しもが陥る普遍の真理というものでしょう。
「フィルダさんがずっと一緒にいてくれればいいんです」
私は顔をあげ、気持ちのまま甘えるように言いました。
口にしてから、自分がすごいことを言ったことに気づきますが、これはフィルダさんの言葉の応酬の結果だと開き直ることにしました。
「こーら」
フィルダさんの声が響きます。叱るような言葉なのに、その調子は柔らかで、思わず笑みがこぼれました。指摘されているのに、どこか嬉しさが込み上げてくるような不思議な感覚でした。
以前の私がどんなことをしていたのか―それは確かに気になります。フィルダさんに寄り掛かるように生きているこの状態も、健全とは言えないのでしょう。
でも、記憶がないからこそ感じられる、今この時だからこその幸せもあるのではないでしょうか。




