幕間:シュミル1(13)
一通り村の中を見せてもらった後、フィルダさんが問いかけてきました。
「どう? なにか思い出せそう?」
私は躊躇なく、首を左右に振ります。
思い出すどころか、この場所から早く離れたいという気持ちが強まるばかりでした。足元が落ち着かず、つま先が小刻みに動いています。
そもそもフィルダさんは村の、というか、地上での村の生活をある程度は知っていたように思います。この生活に私が馴染んで、記憶を取り戻すと本気で思っていたのか、疑わしく思えてきました。
それかひょっとすると——。
私は目を細め、考え込むように顎に手を当てました。
『私が馴染めずに』衝撃を受けることで、記憶を取り戻すことを期待したとか?
それならまだ納得ができます。
顎から手を離し、軽く頷きました。
もっとも、衝撃は受けましたが、記憶が戻る気配はまったくないので、フィルダさんの思惑がそうであっても外れですが。
私は小さく息を吐き出しました。
あと考えられるのは、フィルダさんの家の快適さとありがたみを実感させるためだったとか。
私を村に行かせようとした理由としてはこれが一番納得できそうです。
というより、そうとでも考えないと、先行きが真っ暗で、暗澹たる気持ちにしかなれません。
視線が地面に落ち、肩が僅かに沈みました。
「お嬢さん。良かったら、うちのロバを使ってください。こちらで送り届けますから」
村の入り口で、茶色い麻布の服を着た村の男性が、両手を前で組み、背中を僅かに屈めながら声をかけてきました。その声は恭しく、目線は私の首元に向けられています。
「ロバ?」
またしても出てきた聞き覚えのない言葉に、私は戸惑いの表情を浮かべ、フィルダさんの方を向きました。
フィルダさんは一瞬だけ眉を寄せた後、私の足下を確認するように視線を落とし、柔らかな表情に戻りました。
「そうだね、帰りは大変だろうし、ありがたく受けさせてもらおうか」
穏やかな声で答えながら、彼は軽く頷きます。
村人たちが五分ほどで連れてきたのは、神馬と同様、四本足の生き物でした。しかし、均整の取れた引き締まった体つきも、すらりと真っ直ぐに伸びた長い首筋も、しなやかに長く伸びた脚もありません。
神馬よりも小柄で、毛並みは艶のない地味な茶色一色。短めの首はほぼ水平に伸び、肩にかけてなだらかな坂道のような筋肉のつきかたをしています。
頭部の両側には二十センチほどの大きな耳が生え、黒い瞳がじっと見つめています。その瞳からは、神馬の凛とした眼差しとは異なる、子どものような無邪気さが感じられます。
村人三人がかりで、藁を束ねたような粗い物をその動物の背中に載せ、その上から擦り切れた麻布を被せて五本の紐で前後左右から固定していきます。
神馬なら決して受け入れないような粗末な装具ですが、この動物は時折鼻を鳴らすだけで、大人しく作業に従っています。
「これは、神馬の……親戚、なのでしょうか?」
私は指先で自分の唇を軽く押さえながら首を傾げました。
「神馬とは直接関係がないんじゃないかな。ロバと呼ばれる地上の暮らしを支える存在なんだ」
フィルダさんの説明に、私は瞳を丸く見開き、そのロバという動物を見つめ直します。
神馬のような凜々しさはないものの、大きな耳が風に揺れるたびに小さく首を振り、時折まばたきをする様子は愛嬌があるように思えます。
「えーと、それでこの動物をどうするのでしょうか?」
私は両手を胸の前で軽く組み、爪先で地面を小さく叩きながら尋ねます。
「ロバの上に乗るんだ」
「? 何が、でしょうか?」
フィルダさんの言っていることがよく理解できず、ロバの背を漠然と見つめました。
「シュミルが」
「えええっ」
『動物に』?『乗る』?
その二つの言葉が頭の中で結びつかず、私はそれ以上何も言えなくなってしまいました。
記憶がないので過去の私に経験があったかどうかはわかりません。
けれど、生き物の背中に乗るという発想が、私の常識をまた一つ揺るがしていきます。
「まあ、気持ちは分かるけど、今日はおとなしく乗ろうか。たぶん今、気づいていないだけで、かなり疲れていると思うし」
右肩に置かれたフィルダさんの手から伝わる温もりは、その言葉以上の優しさを運んでくるようでした。
「……わかりました」
疲れについての自覚はありませんでしたが、こんなにも気遣ってくれるフィルダさんの言葉に従わない理由はありません。
私は少し緊張しながらも、麻布の端を掴んでロバに近づきます。
村人たちがロバの首を優しく撫でながら声をかけると、ロバは大人しく前足を折り、腹を地面に付けるように座りました。その仕草は、まるで人の言葉を理解しているかのようです。
「横向きに座るんです」
別の村人が私の脇に寄り、両手を組んで足場を作ってくれました。その手を踏み台に、恐る恐る横向きにロバの背へと腰を下ろします。裾が乱れないよう気をつけながら、両手で麻布の端を掴んで体を支えました。
やがて、二人の村人に護衛されるように、私たちはゆっくりと帰り道を進んでいきました。
前方の男性が褐色の紐で作られた手綱を両手で握り、もう一人が私の転落を防ぐように、腕を広げて横について歩きます。
フィルダさんは少し離れて後ろから付いてきていました。時折、私が振り返ると、小さく頷いて見せる姿を心強く感じます。
揺れる背に身を任せながら、私は村での出来事を思い返していました。遠くに目を向けたまま、両手で麻布をきつく握りしめます。
あの村での生活は私には到底できないという思いが胸に重くのしかかる一方で、フィルダさんの家に戻れることで少しずつ肩の力が抜けていくのを感じました。
記憶が戻らなかったことは残念でしたが、今はただ、村から遠ざかっていく道のりに確かな安心を覚えていました。




