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せいじゃものがたり  作者: 瀬山みのり
幕間:シュミル1
58/103

幕間:シュミル1(12)

 村の入口に差し掛かると、黒い土を掻き分けていた男性が、私たちの足音に気づいたらしく顔を上げました。背中を丸め、片膝をついた姿勢のまま、徐々に視線が上がってきます。

 その目がフィルダさんの姿を捉えた瞬間、男性は弾かれたように立ち上がりました。土の付いた手を慌てて払い、躓きそうな足取りで村の中へと駆けていきます。

 その行動が理解できず、私は首を傾けてフィルダさんの横顔を窺いました。

 けれどその表情は穏やかなままで、怒りや威圧しているようには思えません。

 しばらくして、先ほどの男性が肩で荒い息を繰り返しながら戻ってきました。

 その背後からやや遅れて白髪の目立つ縮れ髪に、頬から顎にかけて深い皺の刻まれた年配の男性が現れます。私より一頭分ほど低く、茶色の上着の裾が膝下まで垂れています。

 その人物は深く腰を折り、やや掠れた声で「村で責任を持っております者です」と名乗りました。どうやら長の立場のようでした。

 長はフィルダさんの青い髪と瞳に視線を向けた時、肩が小さく震えました。その後、皺の間に笑みを浮かべます。


「ご案内させていただきます」

 その声は喉の奥で引っかかるように震え、時折フィルダさんの様子を斜めから窺うような仕草が見られました。

 一方で私に向けられる言葉は「お疲れではございませんか?」「お気をつけください」と不自然なほど親しげで、その極端な態度の違いに違和感を覚えずにはいられませんでした。


 村の中央へと案内された私たちの前に、大きな円形の広場が開けていきます。広場は直径二十メートルほどあり、足元の土は踏み固められ、所々に平たい石が不規則な間隔で埋め込まれています。

 そこでは何名もの……神族を神々というのなら、人族は人々というのでしょうか、が三々五々集まり、交換を行っているようでした。

 目を凝らすと、もふもふと毛の生えた何かや、赤と白の色が混ざった塊、私がフィルダさんの家で食べたツチノコらしきものを、人々が互いに手渡す様子が見えます。その間を縫うように、小さな子供たちが走り回っていました。


 広場を過ぎ、さらに五十メートルほど進むと、茶色い布で簡素に覆われた、長細い建物が目に入りました。周囲の住居とは明らかに異なる造りです。

 私は思わず足を止めて、目を細めながら建物を見つめました。


「ここはなんでしょう?」

 私の疑問の声を聞き、先導するように歩いていた長が、腰を僅かに折ったまま振り返りました。


「ああ、ここは村の共同便所です」

 聞き慣れない言葉の組み合わせに、私は目を何度か瞬かせながら言葉を探しました。

 便所というのは当然理解できます。

 ですが、共同?


「共同、というのは……みなが同時に使うということですか?」

 声が上ずるのを抑えようと努めながら、気がつけば右手の指先で服の裾を摘んでいました。


「はい」

 長は首を小さく下げ、当然のように短く答えました。

 その言葉に、私の中で理解を拒絶する感覚が広がっていきます。頭がぼんやりとし、耳の中で血の巡る音が聞こえるようでした。

 いえ、言葉の意味そのものは理解できるのです。ですが、それを自分が実際に行う姿を想像するのを、頭が拒否するのです。


「え、ええと……その、個室の便所はまた別にあるのですよね?」

 声が震えるのを隠すように、右手の差し指を唇に当てます。渇きに気づき、喉を小さく鳴らしました。

 そう。ええ、そうに決まってます——。

 ここはあくまで臨時、緊急時に使用するに違いありません。

 胸の内で必死に自分に言い聞かせました。


「いえ、この区画はここだけです」

「!」


 その無情な返答に私の思考は停止し、息が詰まりました。

 無理です。絶対無理です。

 両手が小刻みに震え、思わず一歩後ずさっていました。


「地上では、こういった設備を共同で管理するのが一般的なんだ」

 フィルダさんは私の戸惑いを察したのか、軽く咳払いをして説明を加えてくれました。

 元々フィルダさんから離れたくないと思っていました。その思いは今も変わりません。離れるだけでも受け入れがたいのに、共同の便所という概念は、私の許容範囲を完全に超えていました。

 それだけで、この村での生活を拒む感情が、体の芯から激しく湧き上がってきます。

 知識として知る分には「人族はそういう生活をしているんだ」と理解することはできます。けれど、それと自分が実際に体験することは、天と地ほどの違いがあるのです。

 私は両腕で体を抱きしめ、小さく身を縮めていました。


 強い拒否感を抱えながら次に長に案内されたのが、直径二メートルほどの円形の石組みでした。石は苔むしており、長年の使用で上部が磨り減っているのが見て取れます。

 五人ほどの村人が一列に並び、麻縄で吊るした木の桶を交代で下ろしては引き上げていました。桶を引き上げる度に、ざぶりという水音が穴の中で反響して聞こえてきます。


「こちらが村の井戸です」

 長は背筋を伸ばし、誇らしげに右手を石組みに向けて紹介しました。


「井戸?」

 私は首を傾げ、眉を寄せます。

 知識にない単語と実態を結びつけようと、私は慎重に石組みに近づきました。のぞき込もうとして身を乗り出した時、私は石組みの縁を掴みます。

 真っ直ぐに掘り下げられた穴の底の方で、暗い水面がかすかに光を捉えて揺らめいているのが見えました。

 地面を掘り下げ、そこから水を汲み上げる——。その仕組みを理解した時、目の前で天界の常識が覆されていくようで、私は思わず息を呑みました。

 天界では水は清らかな泉から湧き出るか、小川を流れているものです。運ぶ手間はありますが、今、目の前で行われているくみ上げるのよりは少なくとも楽なはずです。記憶がないので、どのぐらい楽だったかはわかりませんが。

 それが地上だと、このように苦労して集めなければならないとは。

 もしここで暮らすことになれば、私もこの重労働をすることになるのでしょうか。その想像だけで手首が痛むような錯覚を覚えます。

 天界の知識との違いだけでなく、フィルダさんの家での生活との違いも大きく、とても馴染める気がしません。


 馴染むといえば、もう一つ。

 歩いて回っている最中、周囲の人々の様子が気になりました。私を見かけると深々と頭を下げる者。すれ違う時に目を伏せる者。小声で何かを囁き合う者。

 その視線の意味するところを理解できず、私はフィルダさんに寄り添うように歩いていました。


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