幕間:シュミル1(10)
いよいよ村へ向かう日になりました。
朝もやを通して差し込む淡い光が地面を薄く照らし始めた頃、フィルダさんが優しく穏やかな声をかけてきました。
「出発の準備はできた?」
私は無言で頷きながら、板張りの床に腰を下ろし、右足、次いで左足を土間に伸ばし、紐を手に取ります。足首を包む紐の具合を確かめながら、結び目を整えました。それから足首を左右にゆっくりと動かして具合を確認します。
両手で膝を押して立ち上がり、慎重に体重を移動させながら、左右交互に三歩ほど踏み出してみました。地面の感触が足裏を通してはっきりと伝わってきます。
「シュミルさん、こちらを」
水場から戻ってきたハネナガさんの声が、背後から聞こえました。振り返ると、ハネナガさんが早足で近づいてくるのが見えます。
彼が両手を胸の高さまで持ち上げ、やや前かがみの姿勢で差し出してくれたのは、亜麻の布で作られた手のひらに収まるほどの袋と、奇妙な物体でした。
「これは?」
物体を受け取った瞬間、予想外の重さに思わず両手が下がります。慌てて持ち直し、目の前まで持ち上げて観察します。
上が小さく、下が大きな球のような形で、真ん中がくびれています。表面は淡い褐色で、どことなく古びているように見えます。
「水と軽い食事です。途中で休憩される時に」
ハネナガさんは口角を僅かに上げ、両手を軽く前で組みながら答えました。
慎重に揺らしてみると、内側から「チャポン、チャポン」という小さな音が響いてきました。
表面を指でなぞると木の実のように固いのに、驚くほど滑らか。首のくびれた部分には亜麻の紐が幾重にも巻き付けられていて、それを肩から掛けられるよう、輪になっています。
上部の小さな穴から覗き込むと、中で揺らめく水面が見えました。軽く叩いてみると、意外にも固い音がします。それなのに不思議と水が染み出してくる様子もありません。
「これはまた不思議なものですね」
私は両手で包み込むように持ち、目を細めて微笑みながら言いました。声には思わず感嘆の色が混じります。
「これは木の実を乾かして水を入れる道具にしたものです。瓢箪と呼ばれています」
ハネナガさんは両手の指を軽く絡ませ、前で重ねながら、丁寧な口調で説明してくれました。
物珍しそうな私の様子に気づいたのか、フィルダさんが静かに近づいてきて、横で腕を組んで立ちます。
「瓢箪……」
その言葉を舌の上でそっと転がすように繰り返すと、フィルダさんは口元に小さな笑みを浮かべています。
「フィルダさんは持ったんですか?」
何も携えていないフィルダさんの様子に、私は首を傾げました。
「いや、僕はいらないから」
フィルダさんは右手を肩の高さまで上げ、軽く左右に振りました。
「だめです。フィルダさんが何も摂らないなら、私だけ食事なんて取れません」
私は瓢箪を両手で持ち直し、一歩前に踏み出しました。
「いや、本当に大丈夫だから」
フィルダさんは思いがけない私の強さに、困惑したように一歩後ろに下がります。
「だめです。私と一緒に休憩してください。そうでなければ私も休憩しません」
私は瓢箪を大切そうに抱えながら、更に半歩前に進み、まっすぐにフィルダさんの目を見つめます。
「……はぁ……わかった。じゃあ、準備……」
フィルダさんは肩を落とし、頭を少し下げながら長い溜息をつきました。言葉の最後は次第に小さくなり、消えていきます。
「どうぞっ!」
急いだ足音と共に、オナガさんが私たちの間に入ってきました。
フィルダさんの胸の前まで新しい瓢箪を差し出します。目を輝かせ、頬を紅潮させた表情には期待が溢れています。
「あ、あぁ……」
フィルダさんは少し身を引きながらも、両手を伸ばして受け取りました。
「あー、オナガ!」
ハネナガさんが声を張り上げました。首を前に突き出し、両手を腰に当てながら、明らかな不満を表しています。
「早いもの勝ちだよ」
オナガさんは口角を上げ、両手を後ろで組みながら、やや顎を上げて答えました。
「それは公平な勝負の場合だよ。僕がシュミルさんに渡している間に準備するとか卑怯」
ハネナガさんは床を踏みならし、眉間に深い皺を寄せて抗議します。
なんというか、大元を辿ると、これはフィルダさんが悪いですね。
護仕さん達に満足に仕事を与えないことで、彼らはフィルダさんの役に立つ機会を取り合ってしまっているのですから。
「わかった、わかった。次は確かにハネナガに頼むから」
フィルダさんは事態を静めるように、少し困ったような表情を浮かべて言いました。
「絶対ですよ!」
ハネナガさんは両手を握りしめ、姿勢を正して真っ直ぐにフィルダさんを見つめています。その眼差しには、普段の朗らかさとは異なる強い決意が宿っていました。
思うにハネナガさんも我慢していたのでしょう。
フィルダさんも罪作りですね。
「い、行こうか」
ハネナガさんを落ち着かせたフィルダさんは、扉に手を掛けながら私に柔らかな声で声をかけました。
村へ行くこと自体は気乗りしませんが、フィルダさんと並んで歩くこと自体は楽しみでした。胸の中で期待と不安が入り混じります。
扉を開けると、朝の空気が肌を撫でていきます。
「ゆっくりでいいからね」
フィルダさんは私の右横、半歩前を歩きながら、時折振り返って私の様子を確認します。声こそ穏やかですが、目は真剣に私の足取りを追っています。腕を少し私の方へ向け、いつでも支えられる距離を保っています。
道は緩やかに起伏を続け、時折露出した木の根を避けながら進んでいきました。
二時間ほど経つと徐々に疲れが足に染み始めてきました。脚が小刻みに震え、歩幅が自然と小さくなっています。
フィルダさんは私の様子に気づいたのか、立ち止まって言いました。
「少し休もうか」
「あ、はい……」
私は目線を落としながら答えました。
「あそこにしよう」
フィルダさんが指さした先には、幹回り三メートルほどの大きな木が立っていました。枝葉が広がり、心地よい木陰を作っています。
私達はそこまでゆっくりと歩き、木の幹に背を預けました。堅い幹が疲れた体を優しく受け止めてくれます。
その状態で左足に体重を移し、右足首をゆっくりと回してみます。足の指を伸ばしたり縮めたりすると、こわばっていた足がほぐれていくのを感じました。左右を入れ替えて、同じように足首を回します。
ハネナガさんから受け取った瓢箪の水で喉の渇きを潤し、続いて袋に入っていた木の実を口にしました。歯で噛むと、程よい甘みと共に、乾いた実特有の深い味わいが広がります。
フィルダさんも私に気を遣わせまいと思ったのか、同じように水と木の実を摂っていました。
木漏れ日が揺れる地面を見つめ、しばらく時の経つままに身を任せていました。
そうしていると、もう今日はここで引き返していいような気持ちが湧いてきました。温かな木漏れ日と、心地よい疲労感が、その誘惑を強めていきます。
「そろそろ行こうか」
フィルダさんの静かな声に、私は我に返りました。
まだ足の疲れは完全には取れていませんでしたが、この心地よい木陰に長居すればするほど、前に進もうとする意志が溶けていきそうでした。
黙って一度だけ頷き、指先で亜麻の袋の口を丁寧に結び直します。わずかに震える手で結び目を何度も確かめてから、幹から体を離し、私達は再び歩き始めました。




