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せいじゃものがたり  作者: 瀬山みのり
幕間:シュミル1
55/103

幕間:シュミル1(9)

 翌朝はより実践的な歩行練習となりました。

 草を踏みしめながら、斜面を上り下りしたり、倒木を跨ぎながら、少しずつ足場を確かめていきます。

 履物のおかげで、地面に散らばる小石や突き出た木の根を気にせず前に進めます。

 それでも地面の起伏がはっきりと伝わってきて、むしろその適度な感覚が、次の一歩を踏み出す際の確かな足がかりとなっていました。


 フィルダさんが食事の準備に向かってしまうと、木陰での休憩中、護仕さんたちの話題は自然とフィルダさんの幼い頃の思い出へと流れていきました。


「そうなんですね、フィルダさんが」

 私は膝を軽く抱えるような姿勢で、思わず身を乗り出すようにして聞き入りました。木の幹に触れる背中の一部だけが、ざらりとした樹皮の感触を伝えてきます。


「そうなんですよ、フィルダ様は大変努力をなさって……」

 ハネナガさんは高く透き通った声で歯切れよく語り始めます。その幼い声と佇まいに、確かな年月の重みが混ざり合い、目尻には静かな皺が寄っていきます。


「フィルダ様はお姉さんと大変仲がよく……」

 オナガさんの静かな声が木々の間に溶けていこうとした時、背筋に微かな空気の揺らぎを感じました。


「こら、オナガ、あまり昔のことをほじくりかえさない」

 フィルダさんの声が、いつもの歯切れの良い響きを失って背後から漏れます。

 振り返ると、そこには見慣れない表情のフィルダさんがいました。普段の泰然とした佇まいは影を潜め、両肩が内側に縮こまるように傾いています。

 白い頬が僅かに紅潮し、細い指が所在なさげに肩元の布をつまんでは放していました。その目線は足元の草むらや木々の間を彷徨い、時折上着の襟元へと泳いでいました。言葉を探すように唇が動くのが見えます。

 普段の凜々しい護り手としてのフィルダさんとは別の、どこか幼さの残る愛らしい素振りに、思わず頬が緩んでしまいました。


「フィルダ様がお仕事を任せていただければ暇がなくなって黙っていると思いますよ」

 オナガさんは目尻を下げ、穏やかな笑みを浮かべながら言葉を紡ぎました。

 その声や、少し身を傾けてフィルダさんを見上げる仕草からは、長年の信頼関係が感じられました。


「そういうのを脅迫っていうんだ」

 フィルダさんは大げさに肩をすくめ、木製の椅子に腰を下ろしながら、右手を宙に弧を描くように振って見せました。

 口元には微かな笑みが浮かび、先ほどの恥じらいは影を潜めていました。


「えー、脅してませんよー。今ある事実から導きだされる妥当な推察です」

 オナガさんは両手を胸の前で軽く組み、首を僅かに傾げます。

 笑みを浮かべながら上目遣いに、一つ一つの言葉を丁寧に紡いでいきました。

 声には明るさが感じられ、その様子は、主の前で甘えを見せる幼い子供のようでもあり、巧みな論客のようでもありました。


「まったく、口は達者なんだから」

 フィルダさんの喉から小さなため息が漏れ、首が緩やかに左右に揺れます。

 叱るような言葉とは裏腹に、その表情からは慈しむような温かさが感じられました。

 私は彼らのやり取りに思わず思わず微笑みがこぼれました。

 表向きは主と従者という関係でありながら、そこには年月をかけて紡がれてきた深い信頼と愛情が流れているのがわかります。

 オナガさんの軽妙な言葉遊び。それを受け止めるフィルダさんの優しい眼差し。その何気ない会話の中に、長い時を共に過ごしてきた者たちにしか持ち得ない、特別な絆が織り込まれていました。


「はぁ……」

 胸の中で温かいものが広がっていくのを感じながら、思わず溜息が漏れました。

 その音は予想以上に大きく、私自身が驚き、反射的に指先を唇に添えます。


「どうしたの、シュミル?」

 フィルダさんが優しく呼びかけ、首を傾げながら心配そうな眼差しを向けました 。


「いえ、フィルダさんと護仕さん達は仲がいいなって思って」

 言葉を続けるうちに声が小さくなり、最後はほとんど聞こえないほどの声になっていました。


「ああ、やっぱり寂しくなってきた?」

「ち、違います、そんなんじゃないです」


 見当違いの指摘に、私は慌てて両手を胸の前で小さく左右に振りながら、首を横に振りました。

 その反応は少し大げさすぎたかもしれません。けれど、そうせずにはいられませんでした。

 フィルダさんが言うような、そんな表面的な感情ではないのです。


 私が憧れていたのは、フィルダさんと護仕たちの間に流れる信頼と親しみに満ちた空気。その輪の中に自分も溶け込めたら、という願いだったのです。

 記憶のない私には、絆がどういうものかも分からないはずなのに、この関係性の温かさだけは、心の奥底で強く求めていました。

 けれど、それをうまく言葉にできない私は、ただフィルダさんの誤解を否定することしかできません。

 喉まで込み上げてくる何かを、ただ黙って飲み込むことしかできなかったのです。


 昼食後、緩やかな斜面を這うように上り切ったところで、私は思わず息を呑みました。眼前に開けた景色は、これまで小屋の周りで見てきた鬱蒼とした森の風景とは全く異なっていました。

 遠く霞んだ空の下に、一面に広がる草原が風に揺れる様子が見えました。そして、その向こうに、小さな影のような集落が浮かび上がっています。 「あれが村だよ」

 フィルダさんの静かな声に、私は無意識に片手を軽く上げ、陽光を遮るように目を細めました。

 明日、私はあの場所まで歩いていくのだと思うと、これまで漠然としていた「村」という言葉が、急に重みを持って胸に沈み込んできます。

 足の指が小さく縮こまるのを感じました。足に伝わる生暖かさは、まるで体の芯から湧き上がる不安を具現化したかのようでした。


 夕暮れが近づき、小屋に戻った私たちは、いつものように食卓を囲んでいました。板戸の向こうでは、日が沈みかける森が長い影を伸ばしていきます。


「明日は早めに出発しよう」

 夕食時、フィルダさんは静かな声でそう提案しました。

 スプーンを持つ手が僅かに震えるのを感じながら、私は目の前の皿を見つめました。

 フィルダさんは私の不安げな様子に気づいたのか、安心させるように言葉を添えました。


「途中で何度か休憩を取るよ。無理はしないでいい」

 でも、私の心は村に行くこと自体への拒絶で満ちていました。

 その気持ちは二日前よりも強く、胸の奥で重たく渦を巻いているのです。

 けれど、フィルダさんの言葉から溢れる気遣いを、ただ蹴飛ばすことなどできません。

 私は俯くように頷くことしかできませんでした。

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