幕間:シュミル1(8)
「自信満々で行った結果がそれですか」
テーブルに戻った私の前に置かれた小皿を、オナガさんが氷のような視線で見据えています。眉を上げ、皮肉げな笑みを浮かべています。
その声には深い呆れが、言葉には刺すような皮肉が籠もっていました。
「ち、違います! これはフィルダさんに渡されたんです」
私は慌てて両手を小皿の前で振りました。
ええ、まったくもって誤解なのです。自分から欲しがったわけでは決してないのですから。
「別にいいです。期待していませんでしたし」
オナガさんは片手で机の端を軽くトントンと叩きながら、視線を板戸の隙間から外へ向けました。その横顔からは諦めたような雰囲気が感じられます。
その辛辣な物言いに胸が少し締め付けられ、呼吸が浅くなるのを感じました。
「シュミルさん、気にしないでください。オナガは拗ねているだけです」
不意に、オナガさんの背後で緑の髪が揺れ、ハネナガさんが穏やかな表情で顔を覗かせました。
まるで子供の悪戯を愛おしむような声と言葉を伴って。
「拗ね?」
私は眉を少し上げ、首を傾けました。
「拗ねてなんてない!」
オナガさんが勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が床を引っ掻くような鋭い音を立てました。
「フィルダ様がシュミルさんを構いっぱなしなので」
ハネナガさんはオナガさんの反応を気にする様子もなく、オナガさんの激しい否定を和らげるように続きます。
「ああ、そういう……」
私は両手を膝の上で重ね、視線をそこへと落としながら、ここ二日間を思い返しました。
確かに昨日から今日にかけて、フィルダさんは私の世話に多くの時間を割いています。
これまでフィルダさんを護仕さん達で独占していたところに、私という余所者が入り込み、フィルダさんとの時間が五分の一どころか、もっと少なくなってしまったのだから、不満に思うのも無理はありません。
「誤解です」
オナガさんが今度こそ明らかに拗ねたように口を尖らせました。
両手を胸の前で軽く組み、僅かに体を横に向けています。
「まぁ、今日明日の辛抱だ」
不意に、オナガさんの細い肩に大きな手が置かれました。
振り向くと、そこにはユーカクさんが立っていました。彼の瞳からは隠そうともしない敵意が感じられ、私に向けられた視線は鋭く冷たいものでした。
もちろん主であるフィルダさんが私を庇護する以上、それに公然と異を唱えるつもりはないのでしょう。
けれど、私をここから一刻も早く追い出したいという思いが、その身振りや表情から伝わってきます。
私は手元の小皿に目を落としながら、唇を少し噛みました。
私としては仲良くしていきたいのですが。
食事の後片付けの食器の音が収まりかけた頃、フィルダさんが部屋の空気を切り取るように落ち着いた声で切り出しました。
「午後は外を歩いてみよう」
「最初は少し慣れが必要だと思いますが、明後日には村まで歩けるようになるはずです」
ハネナガさんが緑の髪を軽く揺らしながら、穏やかに付け加えました。
「そんなに早く?」
声が思いがけず裏返り、その動揺に自分でも驚きました。気づけば膝の上で両手を握りしめていました。
「ええ。シュミルさんは歩くのが不自由なわけではありませんから。履物に慣れるだけですので」
ハネナガさんはそう言って、当たり前のことのように述べます。その瞳からは何の迷いも感じられません。
けれど私の胸の中では、不安が膨らんでいくのです。
確かに体に問題はないのでしょう。でも、そもそも村に行きたいわけではないので、その提案自体が重荷としてのしかかってくるのです。
扉を開けた瞬間、私の鼻腔に新鮮な空気が流れ込んできました。
最初の一歩を踏み出すと、室内とは全く異なる感触に足が戸惑います。履物を通して伝わってくる土の感触に、思わず足を止めそうになりました。
二歩、三歩と歩を進めると、地面の起伏が足裏に伝わってきます。室内の平らな床とは違い、足場は不規則に凹凸を描いています。一歩ごとに、足の下の地面が傾いたり、沈んだりしました。
歩みを重ねるうちに、履物の存在意義が身に染みて理解できます。もし裸足だったら、散りばめられた小石や地面から突き出た木の根が気になって、周囲に注意を向ける余裕もなかったことでしょう。
フィルダさんが「履物が必要」と言った意味が、今になって痛いほど分かりました。
足首から脛へと編み上げられた紐は、ほどよい具合に結ばれています。歩くたびに足首が安定し、自然な動きを助けてくれているようでした。
「その調子。普通に歩いてみて」
私の歩みを見ていたフィルダさんが、穏やかに声をかけてきました。
その言葉に励まされ、私は小屋の周りを一周してみることにしました。
最初こそ慎重に一歩一歩を確かめるように歩きましたが、徐々に足に向ける意識が減っていき、自然な動きが身についてきていました。
休憩時間、木漏れ日が揺れる木陰で、自然と護仕さんたちとの会話が増えていきました。
もっとも、記憶のない私には共有できる思い出も、語れる経験も何もありません。そのため、話題は自然とフィルダさんのことへと収束していきます。
「フィルダ様は本当に優れた方で……」
ユーカクさんが両手を胸の前で組みながら、遠くに目を向けて語り始めます。
明らかに私を毛嫌いしているユーカクさんですが、それはフィルダさんを思うが故の裏返しなのだというのが分かります。
「こんな方はめったにいらっしゃらないのです」
ハネナガさんが緑の髪を軽く揺らしながら頷き、普段の落ち着いた物腰からは想像できないほど熱を帯びた声で続けました。
「もっと私どもにお任せいただければ……」
オナガさんは私の方を向きながらも、その茶色の瞳は私の横をすり抜けるように揺れ動きます。その声は、後ろにいるフィルダさんにも届くよう、わざとらしいほどの大きさでした。
不満めいた言葉の端々に、深い敬愛の念が滲み出ています。
フィルダさんの名前を口にするたびに護仕さんたちが柔らかな笑みを浮かべるのが印象的でした。
「君たちに任せていたら、君たちがいなくなった時に僕は何もできないからさ」
休憩の際に小屋に入っていたフィルダさんが戻ってきて会話に入りました。
「そんなことありえないです」
護仕さん達の声が重なり合い、一瞬、森の静けさを破りました。ハネナガさんの幼い声、オナガさんの若々しい声、ユーカクさんの力強い声。それぞれに異なる調子を持った声が、しかし同じ想いを帯びて響き渡ります。
けれどフィルダさんは、優しい笑みを浮かべていました。まるでこの反応を予測していたかのようでした。
私は木の幹に背を預けながら、この光景を眺めていました。私がくる前から、何度も繰り返されてきた光景なのでしょう。
そして私には見えてきました。フィルダさんは彼らの懸念など耳に入っていないかのように、着実に、彼らの仕事を自分の手に取り戻しているのだと。




