幕間:シュミル1(7)
翌日は室内での歩行練習から始まりました。
昨日より足の動きもスムーズで、数十分も経つと自然に室内を歩き回れるようになっていました。
テーブルの横では、フィルダさんが椅子に座って練習の様子を静かに眺めていました。
私が部屋の端から端まで歩き続け、最後に部屋の中央で立ち止まると、彼は優しい眼差しを向け、休憩を宣言しました。
「うん、いい感じだね。しばらく休んでいて」
その言葉に首を小さく傾げ、私は尋ねました。
「? フィルダさんは?」
「ああ、僕は食事の準備を」
フィルダさんは椅子から立ち上がり、奥へ向かおうとしました。
その時、小屋の入り口から若々しい声が響きます。
「フィルダ様、今日ばかりは私達にお任せを」
声のする方を目を向けると、茶色い短髪の少年、オナガさんが両手を胸の前で重ねて立っていました。
昨日、後から知ったのですが、フィルダさんの住まいには私が最初に会った緑の髪のハネナガさんの他に、シチビさん、ユーカクさん、そしてこのオナガさんという方々も暮らしていたのです。
フィルダさんは彼らのことを「護仕」と呼んでいると教えてくれました。
その事実を思い返し、昨日の自分の思い込みに恥ずかしさを感じました。たった二名では寂しいだろうと考えたのはとんだ勘違いだったのです。口に出していたら「何言ってるの?」と呆れられていたでしょう。
「今日ばかりは、って、今日任せたら、今日の実績を元にして明日からもするつもりだろう?」
フィルダさんは水場へ向かう途中で足を止め振り返り、オナガさんに微笑みかけます。
「それは……」
オナガさんは言葉を濁し、視線を床に落としました。
「だから今日も僕がする」
フィルダさんは落ち着いた声でそう告げると、足音を響かせながら再び歩き始めました。
「フィルダ様~」
オナガさんは両腕を脱力したように垂らし、肩を落として天井に向かって嘆願するような声を上げました。その声は子どもじみた甘えと、どうしようもない諦めが入り混じっているようでした。
「オナガはシュミルと話でもしていて」
「うう~」
フィルダさんの背中を見つめていたオナガさんが、私の方へ視線を向けました。
鋭い視線を向けられ、まるで私に大切なものを奪われたかのような恨めしさを感じます。
「え、えっと……何か?」
どうしてそのような表情を向けられるのか分からず、私は思わず半歩後ずさりました。
「……なんでもありません」
オナガさんは唇を固く引き結び、視線を板戸の向こうへと逸らしました。その横顔には何かを言いかけては飲み込んだ様子が見て取れます。
その態度を見て、私の中である考えが形を成していきました。
少し膝を曲げてオナガさんの目の高さまで身を落とし、周囲に聞こえないよう声を潜めて話しかけます。
「もしかしてフィルダさんに食事の準備をさせて、居候なのに何も手伝わないのは何事かってこと?」
「……違いますよ」
オナガさんの喉から深いため息が漏れ、肩から力が抜けていくのが分かりました。
首を小さく振りながら、疲れたような声音で続けます。
「だいたい僕達にさえ手伝わせないのに、客であるあなたに手伝いなんてさせるわけがないでしょう」
その声には日々の積み重なった諦めと、新たな状況への苛立ちが混ざり合っているように聞こえました。
「そうかしら?」
私は首を傾げ、オナガさんの表情を見返しました。
少し体を前に傾けながら続けます。
「動かざる者食うべからずかもしれないでしょ?」
私は確信を込めてそう告げました。
護仕さん達がどのようなことをしているかはわかりませんが、歩行訓練している私に比べれば役に立っていることは疑う余地はありません。
つまり、フィルダさんが私にも何かさせようと思う動機は十分あるということです。
私の言葉に、オナガさんの瞳が一瞬大きく見開かれました。
「……そう思うならやってみたらどうですか?」
オナガさんは右手を腰に当て、左足を前に出して立ち姿を変えました。唇の端が持ち上がり、挑発するような薄笑いを浮かべています。
私にはそれが「どうせ無駄だけど」という思いを含んでいるように感じられました。
いいでしょう。
私は履物の違和感に少し気を取られながら、フィルダさんの後ろまで歩きました。
「フィルダさん、何か手伝うことはありませんか?」
フィルダさんの後ろから身を乗り出して水場をのぞき込むと、その斜め前に見るからに穢れにまみれた奇妙な形の作物が積まれていました。
握った拳ほどの太さで、長さは手のひらを少し超えるくらい。両端は丸みを帯びていますが、表面一面が黒ずんだ土に覆われています。その異様な姿に、私は思わず眉をひそめました。
フィルダさんは淡々と、その不思議な作物を一つずつ手に取り、桶の水で丁寧に土を落としています。手首を微妙に動かしながら、作物の表面を優しく撫でるように洗っていきます。付着する土に躊躇する様子もなく、むしろ慣れた手つきで扱っていました。
黒い土が流れ落ちていくと、その下からは淡い茶色の皮が現れてきました。表面には細かな凹凸があり、水滴が溜まっています。時折、細い根のような繊維が皮から飛び出しているのも見えます。
自分から手伝うと言い出しておきながら、この得体の知れない作物に触れるのは少し……いえ、かなり躊躇われます。
思わず両腕で肩を抱き、その身を縮めている自分に思い至った私は後ずさりそうな足をなんとか踏みとどめました。
「ないよ」
フィルダさんは振り返る素振りもなく、真っ直ぐ前を向いたまま答えました。その声には迷いのかけらもありません。
オナガさんの言葉を思い出します。確かにこれは断られて当然かもしれない。むしろ、手伝わなくて済んでほっとしたような……いけません。
私は逃げ腰になっている自分に苦笑し、首を小さく振ります。
オナガさんに向かって啖呵を切ったのです。ここで引き下がれば、後でどんな嘲るような目で見られることか。
そもそも、私には切り札があるのです。
「ひょっとしたら手伝うことで何かを思い出すかもしれませんよ?」
私はフィルダさんの横に立ち、彼の表情をのぞき込みながら、明るく提案してみました。
我ながら上手い切り出しだと、少し得意げな気持ちが込み上げてきました。
「それなら村に行ったらきっとすぐに思い出すことになるだろうね」
フィルダさんは手を止めることなく、次々と作物を洗い続けています。水が桶に落ちる規則的な音の中、その横顔には予想外の柔らかな笑みが浮かびました。
私の自信に満ちた提案は水滴のように簡単に弾かれてしまいました。記憶を取り戻すという切り札は、まるで的外れな一手だったようです。
これならフィルダさんも承諾してくれるはずだと信じていただけに、その理由が全く通じなかったことが納得できません。
「むー」
思わず喉から漏れた不満げな声に、水音が一瞬途切れました。
フィルダさんの手の動きが止まったのです。
「それともお腹が空いて待ちきれなくなった?」
桶の水面に落ちる水滴が小さな波紋を描く中、フィルダさんは茶化すように尋ねてきました。
「なっ、ち、違いますよっ」
私は慌てて両手を振り、頬が熱くなるのを感じながら否定しました。
そんな食い意地の張った子供のように思われるのは心外です。
「なんならつまみ食いしていくかい?」
フィルダさんは作物を桶の中にそっと戻し、悪戯っぽい笑みを浮かべました。
水に濡れた指先から滴が床に落ち、暗い染みを作る中、一歩、また一歩と近づいてきます。
フィルダさんが私を茶化しているのはわかっています。でも、目の前でこぼれるような優しい眼差しを向けられると、どんな反論の言葉も喉まで出かかっては消えていってしまいます。
「はい、これ」
はっと我に返ると、フィルダさんが差し出す温かな皿が私の手の中にありました。
それ以上反論する言葉を見つけることができず、私はしぶしぶと踵を返すしかありませんでした。




