幕間:シュミル1(6)
そんな中、フィルダさんの表情が急に変わりました。何か重要なことを思い出したような様子です。
「でも、そうか……」
彼は顔を伏せ、軽く握った右手の拳を口元に当てながら、まるで独り言のように呟きました。
「『浮遊』も覚えていないとなると村に行くには履物が必要か」
その声は先程より低く沈み、考え込むように目を伏せたままです。厄介事であることは予想がつきました。
「履物、ですか?」
私は首を右に傾げ、その未知の言葉を繰り返しました。
フィルダさんが問題視するようなそれが何か、見当もつきません。
「そう。まあ、天界だと基本的に裸足だから知らないのも無理はないね」
「……それはどういうものなんですか?」
フィルダさんが「裸足だから」ということは足に関係があるということでしょうか。
その言葉に促されるように、私はテーブルの下に視線を落とし、床に触れている自分の素足を見つめます。
「うーん、口で言うより見せた方が早いか。ハネナガ、シュミルに合いそうなのはあるかい?」
フィルダさんは右手で軽く額を撫でながら、説明を早々に諦めたように首を振り、少し離れたところにいた少年に声をかけました。
「はい、これなんてどうでしょうか?」
ハネナガと呼ばれた緑の髪の少年が、軽やかな足取りで部屋の隅の棚へと向かい、何かを取り出しました。
テーブルの向こう側から、彼はその物を私に差し出します。見慣れない形状の物体でした。
布を幾重にも重ねて作られており、受け取って恐る恐る押してみると、表面は柔らかでしなやかな抵抗を感じます。層になった布地の間から風が通りそうな編み目が見えます。端から伸びる細い紐は、蔦が絡まるように編み込まれていました。底の部分は少し固めに編まれているようです。
私は首を傾げ、その不思議な物体を手の中で回転させながら、様々な角度から観察しました。
「これを足に着けるんです」
ハネナガさんは私の困惑した表情を見て、語りかけるように説明を加えました。
「地面から足を守るためのものなんです」
「足に?」
私は思わず声を上げ、手に持った物体と自分の素足を交互に見比べました。
形状に何らかの共通点があるようには見えますが、これをどのように装着するのか、まったく想像がつきません。
「ここに足を入れてください」
ハネナガさんはテーブルの向こう側から歩み寄り、木の床板がきしむ音を立てながら、私の横で片膝をつきました。
彼の細い指先が器用に紐をほどいていき、開口部が広がっていきました。
「あの、本当に、これを?」
私は喉が少し引き締まるような感覚とともに、念のため椅子の背もたれに体を預けながら、フィルダさんの方へ顔を向けました。
この得体のしれない何かが足をくわえ込んで離さない、なんてことはないと思うのですが。
「試してみようか。足を少し伸ばしてみて」
フィルダさんの声は柔らかく、私の不安が少し和らぎました。
「は、はい……」
私は躊躇いがちに、まるで熱いものに触れるように、少しずつ右足を前に伸ばしました。緊張で足の指が縮こまっています。
ハネナガさんは両手で丁寧に私の足を包み込むように柔らかな部分を足の裏に合わせ、そして紐を蔦のように編み上げていきました。布地が足の形に自然と沿うように馴染んでいきます。
初めて足が何かに包まれる不思議な感覚に、私は思わずつま先に力が入るのを感じました。しかし、予想していたほどの違和感はありません。
「立って、少し歩いてみて」
フィルダさんに促され、私は両手で椅子の肘掛けを強く握り、恐る恐る体を起こします。
重ねられた布底を通して床の感触が伝わり、不思議な感覚を覚えます。
「うう、なんか変な感じです」
「それはわかるけど、そのうち慣れるよ」
椅子に座ったフィルダさんは顔を大きく上げ、私に微笑みかけました。
「どうしてこんなものが必要なんですか?」
私は再び椅子に腰を下ろし、履物というものに包まれた足を落ち着かない様子で動かしながら尋ねました。
フィルダさんが意地悪をしているとは思いませんが、足首まで布が巻き上げられている感覚が新鮮で落ち着きません。
「外は、というか、地面は凸凹していて、そのまま歩くと怪我しやすいんだ」
フィルダさんは苦笑いしながら、目を優しく細めました。
「そうなんですか?」
私は首を傾げ、フィルダさんを見つめました。
そのまま歩くと怪我しやすいなんて、危険地帯と言っているようなものです。
「そう。だから、こういう履物を履いて、怪我しないように、あと、土で汚れないようにするんだ」
テーブルの上から、テーブル越しで見えない私の足を指差し、フィルダさんは説明を続けました。
「土で汚れないようにするのはわかります。汚れるのは嫌です」
私は思わず体を強張らせ、両手を胸の前で軽く組みながら答えました。嫌悪感が込み上げ、思わず顔をしかめてしまいます。
「ああ、まぁ、そうだね。神族ならそう言うよね」
フィルダさんの表情が柔らかくなり、穏やかな笑みを浮かべました。
「?」
私は眉を寄せ、首を傾げました。その言葉の意味するところが掴めません。
フィルダさんは軽く右手を振ると、話題を変えるように続けます。
「まあそれはいいや。まずは小屋の中を歩いてみよう。慣れるまでゆっくりでいいからね」
その声に含まれる励ましに暖かな気持ちになりました。
その日は室内での歩行練習に終始しました。
木の床を踏むたびに、柔らかな足音が響きます。
立つのも歩くのもできるのですが、足に何かを付けているという感覚が新鮮で落ち着きません。
「今日は屋内だけにしておこう。明日から少しずつ外も歩いてみるということで」
フィルダさんはそう言って、夕闇に染まりつつある板戸の向こうを見やりました。
「二日もあれば、歩くことには慣れるはずです」
ハネナガさんの声は確信に満ちていました。
先ほどのフィルダさんの言葉からすると、フィルダさんも同じような経験をしてきて、慣れるまでにその程度かかったのでしょうか。
私は小さく息を吐きながら無言で頷き、足元に目を落としました。
まだ戸惑いはありますが、これもしばらくすれば気にならなくなるのだと、私は両手を軽く握りしめ、受け入れることにしました。




