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せいじゃものがたり  作者: 瀬山みのり
幕間:シュミル1
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幕間:シュミル1(5)

「そうだ、『浮遊』は覚えているかい?」

 テーブルを挟んで向かい合うフィルダさんは、私の呼吸が落ち着くのを確認するように一呼吸置いて尋ねました。その声は柔らかく、まるで子供に語りかけるようでした。


「『浮遊』ですか? 浮くことというのはわかります」

 私は椅子の背もたれに体を預けながら、首を傾けました。

 記憶喪失とはいえ、単語の意味ぐらいはわかります。


「ああ、そうじゃなく『浮遊』の能力……『潜在能力』のこと」

 フィルダさんは言葉を選ぶように視線を上げ、少し間を置いてから私を見返しました。


「潜在能力、ですか?」

 私は思わず顎を引き、テーブルの木目に目を落としました。何か手がかりはないかと、目の前の景色が霞んでいきます。

 能力のことは思い出そうとしても、いえ、そもそも思い出すきっかけさえ記憶の中に見つかりません。


「それも分からないか……どうにもちぐはぐだね」

「ちぐはぐ、ですか?」


 その言葉に反応して、私は素早く顔を上げました。

 フィルダさんはテーブルに視線を落としたまま、何かを考え込んでいるようでした。


「自分自身のこと、自分の能力、そして神族としての性質、そういったことは完全に失われているようなのに」

 フィルダさんは一つ一つの言葉に重みを持たせるように、ゆっくりと話を紡ぎ出しました。その声は低く、まるで独り言のように静かに響きます。

そして顔を上げ、私をじっと見つめながら続けます。


「言葉や思考力といった知能・知性といったものは損なわれていないように思えるんだ」

「そう……なのでしょうか?」


 私は再び視線をテーブルに落とし、膝の上で両手の指先を絡め合わせました。緊張で指に力が入っていくのを感じます。

 自分ではどう判断していいかもわかりません。


「もちろん、本当のシュミルがとても賢くて、今が抑えられている状態という可能性もありえるけど」

 フィルダさんの声が頭上から降り注ぐように聞こえ、私は首の筋肉が緊張するのを感じながら、ゆっくりと顔を上げました。


「どうなんでしょう……自分ではあるともないとも」

 私の声は少し掠れ、言葉の最後が消え入りそうになります。

 フィルダさんは身を乗り出すように姿勢を変え、私の表情をより近くで見ようとしました。


「こうして話をしている感じだと至って普通という感じだから」

 彼は身を戻しながら両手を軽く広げ、口元に小さな笑みを浮かべて、明るい口調に変えて続けます。

「もし抑えられてこうなら、本来のシュミルは賢すぎて僕じゃ話し相手にならないだろうね」

「だとしたら、それはないです」

 私は思わず体を前に乗り出し、椅子の脚が床を軽く擦る音を立てました。声には力が込もり、自分でも驚くほど強い調子で否定の言葉が飛び出します。

 フィルダさんと話ができなくなる賢さがあったなんて想像したくもありません。

 フィルダさんは私の急な反応に、驚いたように一瞬体を引きました。

 しかし、すぐに優しい微笑みを浮かべ、落ち着いた様子で私を見返しました。


「でも、もしそれがないとすると、知能・知性についてだけは損なわれていない、ほんとに奇妙な偏りがあることになるんだ」

 フィルダさんはテーブルの上で指先を動かしながら、思案するままを言葉にしているようでした。


「そう……ですか……」

 フィルダさんの顔を直視できなくなって目を伏せました。

 声が途切れがちに震え、両手の指先が無意識に絡み合います。

 フィルダさんの言葉の意味は理解できるのに、どこか遠くに感じられます。


「ああ、気を悪くしたらごめん、悪く言っているわけじゃなくて……」

 フィルダさんは慌てたように身を乗り出し、声が少し高くなります。


「わかっています」

 私は小さく首を横に振り、意を決したように息を吸って、視線をゆっくりと上げてフィルダさんを見つめ返しました。

 実際、フィルダさんはこれ以上ないほど真摯に素性の知れない私に向き合ってくれています。もしフィルダさんの言葉で心を痛めたとしても、それは私の問題であって、フィルダさんが謝ることではないのです。


「それでいて、知識に関しても、能力に関することだけは覚えていない」

 気まずさを紛らすように、フィルダさんは椅子の背もたれに手をかけて立ち上がり、床板を軽く踏む音を立てながら板戸の方へと歩き出します。


「……はい……」

 私はほとんど聞こえないほどの小さな声で同意の言葉を絞り出しました。視線でフィルダさんの後ろ姿を追います。

 フィルダさんの言っていることを耳にすると、その奇妙さに認めることに抵抗を覚えていたのです。


「たしかに能力は自分に強く結びついているものだから」

 フィルダさんは板戸から離れ、夕闇が少しずつ濃くなる室内でテーブルへと歩み寄りました。再び椅子に深く腰を下ろすと、木材の軋む音が静かな空間に響きます。

「自分の欠落に合わせて能力の知識がない、というのもある程度は整合性がとれているんだけど」

 彼は右手の細い指で顎に触れ、物思いに沈むように視線を上へ向けました。

 その声は次第に小さくなり、まるで自分に言い聞かせるかのようでした。


「けど?」

 私は椅子の背もたれから体を離し、僅かに前に傾けました。フィルダさんの表情に注意を向けます。

 次の言葉を待つ緊張感に、指先が微かに震えました。

 フィルダさんは唇を一度強く噛み、目を閉じて深い息を吐いてから、ゆっくりと口を開きました。


「……まるで知性だけは残してやり直しを試みたみたいな……」

 その言葉は途中で掠れ、フィルダさんは慌てたように手を軽く振りました。

「ごめん、なんでもない」

 暗くなった雰囲気をフィルダさんが明るく変えようとしているのが分かります。

 私は椅子の端に手を伸ばし、軽く握りしめました。フィルダさんの言葉の意味を反芻しながら、指先に伝わる木材の感触が、不思議と私を現実に繋ぎ止めているような気がします。

 確かに記憶喪失という言葉で説明するには、あまりにも不自然な記憶の残り方をしています。言葉も、思考も、一般的な知識も保持していながら、自分自身に関することだけが完全に欠落している。その不自然さは、私自身も薄々感じていたことでした。


「なんともよくわからない記憶喪失だね」

 フィルダさんは困ったように眉を寄せながらも、まるで子供を諭すような柔らかな声音でそう言うと、ゆっくりと顔を上げて私の方へ視線を向けました。

 その穏やかな眼差しに、私は少し緊張が解けていくのを感じます。

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