幕間:シュミル1(4)
「シュミルを近くの村に送っていこうと思うんだ」
温かなスープの最後の一滴が喉を通り過ぎて一息ついた時、フィルダさんが突然そう切り出しました。
木製のテーブルの向こうで、彼は空になった器を静かに置きながら、私の反応を窺うように視線を向けてきます。
その予期せぬ提案に、肩が強ばっていくのが分かりました。
「どういうことですか?」
声が喉の奥で詰まり、上ずった声が漏れ出てしまいました。
フィルダさんの目を見られず、視線は自然と器の縁に落ちていきます。
この場所で、私はいけない存在なのでしょうか。それとも、フィルダさんに迷惑をかけているということなのでしょうか。
記憶のない自分には、何が正しい判断のかわかりません。
「え? いや、そのままの意味だよ。シュミルが記憶を失っている原因はわからないけど、村にいけば何か思い出すきっかけがあるかもしれない」
フィルダさんは目を丸くした後、身を乗り出すように椅子の位置を少し前にずらし、ゆっくりとした口調で説明を続けました。
胸に広がっていた不安は、その言葉で少しずつ溶けていきました。
けれど、それと入れ替わるように、別の感情が浮かび上がってきました。
村に行くという提案に、どうしても積極的になれない気持ち。それは漠然とした不安というより、もっと本能的な躊躇のようなもので、私は無意識に唇を噛みしめていました。
「その村は、私が落ちていた場所と近いんですか?」
私は手元の空の器に視線を落としたまま、自分の中に湧き起こる違和感を、そっと言葉に乗せてみました。
フィルダさんは思いを巡らせるように、片手で顎に触れながら答えました。
「近さは……徒歩だと一日ぐらいかかりそうかな」
その答えを聞いて、違和感はより鮮明な形を取りました。
私はフィルダさんを見上げ、頭を左右に振ります。
「それなら私はその村と関係ないのではないでしょうか?」
静かな声でしたが、自分でも驚くほど強い確信を感じていました。
もし私がその村の人間だったのなら、フィルダさんの言うような状況にはなっていないでしょう。
「シュミルは天界から落ちてきたのはほぼ間違いないと思うので、村が直接関わっているとは思ってないよ」
フィルダさんは穏やかな手振りを添えながら説明してくれましたが、私の疑問は消えることはありませんでした。
「それなら村に行くのはなぜでしょう?」
「村ならここにない食べ物やこことは比較にならないほどの交流がある」
フィルダさんは声を弾ませ、熱心に語りかけてきます。
「そういうことがシュミルの記憶の回復を促す可能性はあると思うんだ」
フィルダさんの提案は、確かに論理的で思いやりに満ちています。けれど、その言葉を聞いても、私の心は奇妙なほど平静なままでした。
自分でも気づいています。
普通なら、失われた記憶を取り戻そうともがき、必死になるはずです。けれど私の中には、そんな焦燥感も切迫感も存在していない。
その事実自体が、ある意味では最大の謎かもしれません。
この感覚は、単なる諦めとも、恐れとも違います。まるで、今の状態が自然なことであるかのような、そんな静かな納得が、不思議と私の心を満たしているのです。
「……フィルダさんは、その村にいるんですか?」
私は静かに手を膝の方へ降ろし、指先をそっと絡ませました。そして息を少し詰まらせながら声を絞り出しました。
「え?」
フィルダさんは、それまで無意識にテーブルの上で動かしていた指を止めました。
「……あまりいないかな」
彼は言葉に詰まるように答え、少し気まずそうに視線を逸らしました。
おそらく、フィルダさんは村との関わりをほとんど持っていないのでしょう。
ここで独り、いえ、先ほどの少年を含めて二名で、ひっそりと暮らしているのかもしれません。
その想像が、私の胸に小さな痛みのようなものをもたらし、フィルダさんを放ってはおけない、私にそう思わせたのです。
「……私もここにいたらダメですか?」
私は自分の指先を見つめながら、声を潜めるように呟きました。
「ええと……」
フィルダさんは言葉を失ったように、首を傾けます。
「なんで?」
フィルダさんの疑問に、私は言葉に詰まりました。
確かに、記憶喪失という状態を考えれば、私がここに留まるという申し出をするのは異常に思われるかもしれません。
もし私が正直に「フィルダさんを放っておけない」と言おうものなら、精神状態を疑われても仕方がないでしょう。けれど、その気持ちは確かに私の中に存在していて、むしろそれこそが最も自然な感情のように思えるのです。
私は頭の中で、フィルダさんが納得してくれそうな理由を探していました。
「……記憶がないから……知らない相手はちょっと……」
私は視線を落とし、言葉を区切りながらゆっくりと話します。
理由としては苦しいかもしれませんが、これが今の私に思いつく精一杯の説明でした。
「うーん」
フィルダさんは軽く考え込むように顎に手を添えました。
「たしかに最初は緊張するかもしれないけど、でも、ほら、僕にも慣れたでしょ?」
彼は優しく微笑みながら、穏やかな手振りと共に語りかけてきました。まるで、今の自分が警戒する存在ではないと示すように。
ただ、フィルダさんに関していえば、最初から何か特別な安心感がありました。目覚めた瞬間から感じていたその不思議な親近感は、時間をかけて生まれる「慣れ」とは全く異なるもので、だからフィルダさんの「僕以外にも慣れるよ」という暗黙の主張に、どうしても首を縦に振れないのです。
もしかしたら、これは記憶のない私が最初に出会った人への、一種の刷り込みなのかもしれない。そんな冷静な分析が頭をよぎります。けれど、それすらもどこか的外れに感じられます。
「わかった」
フィルダさんは柔らかな微笑みを浮かべ、少し背もたれに体を預けながら言います。
「二、三日ぐらい様子を見ようか。たしかに考えてみると、いきなり初日に行くのは無理があるね」
その言葉に私は顔を上げ、思わず聞き返しました。
「無理、ですか?」
フィルダさんは手を軽く動かしながら、言葉を継ぎます。
「村にも何も伝えていないしね。そもそも夕方だから今から行っても……」
フィルダさんの言葉に、私の胸に小さな希望が灯りました。
でも、それはすぐに不安へと変わります。その時になったら、フィルダさんは一人で村まで行けというのではないでしょうか。
「……フィルダさんも一緒、ですか?」
膝の上で組んでいた指に力が入りながら、私は小さな望みを言葉にしました。
フィルダさんが傍にいてくれるなら、この変化も少しは受け入れられるかもしれない。そんな期待を胸に秘めて。
「え?」
フィルダさんの表情に戸惑いが浮かぶのを見て、私は急いで付け加えました。
「フィルダさんも一緒にいてくれるなら、いいです……」
声が掠れ、喉が締め付けられるような感覚に襲われます。
自分でも予想していなかった、強い依存心が言葉となって溢れ出ました。
「うーん……最初だけなら……」
フィルダさんは言葉を選ぶように視線を泳がせました。
その曖昧な物言いに、私の胸の内で何かが熱く沸き立ちました。
「私がいいというまでダメです」
思わず声を強めて言い切ってしまいました。
次の瞬間、自分の声の強さと我儘さに気づいて、頬が熱くなっていきました。
元の私はもっと自立した、理性的だった可能性が頭をよぎります。でも、フィルダさんと離れたくない気持ちがその羞恥を押しのけて私を突き動かしていました。
「……わかったよ……シュミルが落ち着くまで、ね」
フィルダさんの声には、微かな吐息と共に優しい諦めとも取れる響きが混ざっていました。
青い瞳に浮かぶ温かな光を見て、私の緊張で強張っていた肩から、少しずつ力が抜け、呼吸が自然と深くなりました。
「はい」
出した声は弾み、いつのまにか笑みがこぼれていました。その明るい調子に、自分でも少し驚きました。
この場所で、フィルダさんと過ごすことができる、そのことを私はこの上なく喜んでいたのです。




