幕間:シュミル1(3)
「それじゃ、フィルダさんが名前をつけてください」
その言葉を口にした瞬間、フィルダさんの表情が微かに揺らぎました。
青い瞳が一瞬だけ遠くを見るように曇り、薄い唇が小さく震えます。まるで忘れかけていた記憶が、不意に波のように押し寄せてきたかのような表情でした。
彼は両手を軽く握り締め、何度か瞬きを繰り返してから、喉元でそっと息を整えてから、ゆっくりと口を開きました。
「……スミレ……ってどうかな?」
声は穏やかでしたが、その言葉を紡ぐ唇が僅かに震えているのが見えました。
「スミレ?」
その名前を、自分の中に溶け込んでいくかを確かめるように、そっと声に乗せてみました。
「うん、シュミルって名前を少し読み方を変えてみたんだけど……」
フィルダさんは言葉の途中で一瞬息を詰め、右手で軽く口元を押さえました。
「それがいいです」
両手を軽く前に出し、早口で答えました。
「じゃ、スミレで……」
私の返答に、フィルダさんの表情が微かに和らぎ、肩から力が抜けていくのが見えました。そして、私の新しい名前を決める言葉が、途中までこぼれます。
けれど、それは私の意図とは外れていました。
フィルダさんが何気なく口にした「シュミル」。その響きこそが、心の琴線に触れたものだったのです。
なぜその名前に惹かれるのか、その理由を説明することはできません。
ただ、その音が自分の中で確かな共鳴を呼んでいることだけは、はっきりと感じられたのです。
「違います。シュミルがいいです……スミレはなんとなくフィルダさんと語感が違う気がします」
内側で感じている曖昧な感覚を、おぼろげな印象のまま言葉にしようとしました。そうしているうちに、頭の中で音の響きが少しずつ整理されていきます。
フィルダさんの名前の始まり、『フィ』という音。それに比べると、『シュ』の方が『ス』よりも近く感じられる。そして『ル』の音─スミレにはない、でもシュミルには確かにある音。その音の重なりが、私の中で不思議な共鳴を起こしているような気がしました。
さらにいえば、私が最初に言い間違った「フィル」なら末尾も同じ音になります。
そう、シュミルの方が、確かにフィルダさんの名前に近いのです。
その理由に思い至り、私は静かに頷きました。
「え、えーと……でも、僕の名前と別に合わなくても……」
「シュミルがいいです」
私は、両手をきゅっと握りしめながら、より強い確信を込めて繰り返しました。
「……どうしても?」
その問いかけには、ただの確認以上の重みが宿っていました。
フィルダさんの青い瞳が、まるで遠い誰かに許しを請うかのように揺らめき、後から思い返せば、一瞬だけ後悔の色を宿していたように思います。
「はい!」
その時の私は、そんなフィルダさんの複雑な思いに気づかないまま、純粋に喜んでいました。
「……わかった。じゃ、君の名前は記憶が戻るまでシュミルということで」
フィルダさんは両手を膝の上で軽く握り、長く息を吐きました。板戸の隙間から外を見る視線はそこにはない何かに向けられているようでした。
「はいっ」
私の声は弾むように明るく響き、両手を膝の上で組み直しながら背筋を伸ばしました。
その時の私は、ただシュミルという名前が、不思議なほど自分の中に馴染んでいくのを感じていたのです。
「じゃ、これからのことは後で考えるとしよう。お腹はすいてる? 食べられる?」
フィルダさんは作り出したような明るい声で問いかけてきました。
ですが、その言葉に、私は何か物足りなさを感じます。
「……」
声にならない不満が喉元でつかえ、私は唇を噛みしめます。
「どうしたの?」
沈黙に気づいたフィルダさんが小さく首を傾げました。
「呼びかけならシュミルって最後につけてください。誰に言ってるのかわかりません」
思いがけず強い調子を帯びた声に、私自身が驚きました。
胸の内で、せっかく決まった名前なのに─という思いが、膨らんでいきます。
「目の前にいるのに呼びかけるのもどうかと……」
フィルダさんは薄く眉を寄せ、何かを思案するように口元を僅かに動かしました。
一見もっともらしい理由ですが、喉元に小さな塊が詰まったような違和感が残ります。
もし、そんな理屈が成り立つなら、名前なんていりません。
名前を呼ぶのは単なる識別以上の、相手を認識し尊重する、そういう大切な意味があるはずです。
両手を膝の上で軽く握り締めながら、私は深く息を吸いました。
「せっかくの名前だから呼ばれたいんです」
その言葉は自然と口をついて出てきました。
「うっ……」
フィルダさは一瞬息を詰まらせた後、差し指で鼻の頭を掻きながら、天井の隅へと視線を泳がせます。そして、ややあって、どこか気恥ずかしそうに口を開きました。
「お腹はすいてる? 食べられる? その……シュミル?」
最後に付け加えられた名前に、私の心が小さく震えました。それは温かな波のように、胸の奥まで染み渡っていきます。
「はい!」
思わず大きな声で返事をしてしまい、慌てて口元を手で覆います。頬の熱さを感じながら、それでも抑えきれないほどの嬉しさに、自然と口元が緩んでいきました。
これはきっと、フィルダさんと似た音の名前を呼ばれた喜びのせいでしょう。
「じゃあ、ちょっと準備するね。シュミルはここで待ってて」
フィルダさんは立ち上がり、部屋の奥に向かいました。
「はいっ」
私の返事に、フィルダさんは一瞬振り返り、小さく頷きます。
シュミルという名前が、私とフィルダさんの間に小さな橋を架けたような気がしました。
その名前を通じて、私たちの距離がほんの少しだけ縮まったような、そんな密やかな喜びが、静かに、でも確かに私の胸の中で広がっていくのを感じていました。




