幕間:シュミル1(2)
「もしかして、自分が神族という自覚もない?」
フィルダさんは眉間に皺を寄せ、膝立ちの姿勢から立ち上がると、私の全身を見渡すように視線を動かしました。
「……はい……神族とは何でしょうか?」
両手を膝の上で軽く組み、より具体的な説明を求めるように視線を上げます。
「そこからか……」
フィルダさんは部屋の隅に目をやり、視線の先にある椅子を私の正面、やや距離が離れたところに置きました。その間合いは、手を伸ばせば届きそうで届かない、微妙な距離でした。
彼はその椅子に腰を下ろすと、私と視線を合わせるように前屈みの姿勢をとりました。
「どこから説明しようか。まず、ここは地上と呼ばれる世界……空間と言った方が正しいか」
フィルダさんは顎に手を当て、言葉を選ぶように一瞬目を閉じました。
「地上、ですか?」
その響きを確かめるように繰り返します。
「そう。神族も住んでいるけど、数として多いのは人族かな」
「人族……ですか?」
言葉を追うたびに、私の中の混乱が深まっていきます。指先が無意識に膝の布地をつまんでは離すを繰り返していました。
「まあ、今は関係ないのでおいておこう。それで、この地上とは別の世界に天界というものがある」
フィルダさんは私の戸惑いを察したのか、説明の方向を変えるように、右手の差し指を上に向けて示しました。
「天界……」
フィルダさんの指に導かれるように私は視線を上に向けましたが、目に映るのは屋根と梁だけでした。
「地上のはるか上空、そこにある門を通じて行き来することができる世界、それを天界というんだ。そこに住んでいるのが神族で、おそらく君はそこから来たんだと思う」
「フィルダさんは違うんですか?」
視線を戻した私は首を少し傾げ、彼の紺碧の瞳を見つめます。
「僕? 僕はどういうのがいいのかな……」
フィルダさんは少し困ったように唇を噛み、視線を宙に泳がせました。
「天界出身ではあるけど、純粋な神族ではなくて、神魔族」
「神魔族?」
その言葉に違和感を覚え、眉をひそめます。
「神族から派生した一族と思ってくれればいいよ」
彼は軽く手を振って、その説明を簡単に済ませようとしました。
「さっきの人族とはまた違うんですか?」
「あー、どういえばいいのかな……」
フィルダさんは髪を掻き上げながら、言葉を探すように天井を見上げます。
「人族よりは神族に近いかな」
「つまり、私は神族で、フィルダさんもそれに近いということですね?」
少しずつ整理できた事実を確認するように、私はゆっくりと言葉を紡ぎます。
「あー、まあ、そういうことになるのかな……」
フィルダさんは曖昧に頷きながら、すぐに話題を戻しました。
「とりあえず僕のことはおいておくとして。神族ということを認識したら、記憶が戻ってきたりはしない?」
「……とくに何も」
自分の内側を覗き込むように目を伏せ、小さく首を横に振りました。胸の中の空虚は、相変わらず深いままでした。
「そうか……知識として認識した程度ではつながらないか……」
フィルダさんは右手で顎を撫でながら、眉間に皺を刻んで呟きました。期待が外れたことがありありとわかります。
「つながる、ですか?」
手を膝の上で組み直し、体を少し前に傾けて尋ねました。
フィルダさんの「つながる」という言葉に希望があるように思えたからです。
「神族には簡単に言うと自己修復能力があってね、怪我とかしても自然に治るんだ。だから記憶喪失の原因がなんらかの怪我とかにあるなら、認識することで治るかと思ったんだ」
説明しながら、フィルダさんは左手を軽く開いて差し出し、手首を指でなぞります。その仕草に合わせるように、私も自分の右手の平を見つめましたが、特に傷跡らしきものは見当たりません。
「……そうですか……」
期待が砕かれた失望を隠せず、私は肩を落としました。
「知識と自覚はまた違うということなのかもしれないね」
フィルダさんは優しく微笑みながら、少し考え込むように首を傾げます。
「……はい……」
「思い出せるきっかけになるかはわからないけど、君を見つけた時の状況を話すね」
フィルダさんは椅子に深く腰掛け直し、両手を軽く膝に置きながら、静かな声で切り出しました。
そうして語られる状況は、まるで自分ではない他者の物語を聞いているような不思議な感覚でした。
自分の手の甲を見つめながら、その話に耳を傾けます。
確かにここにいる「私」と、語られる中の神族としての「私」。
その二つが重なり合わないことへの違和感が、静かな戸惑いとなって胸の内に広がっていました。
「どうかな? なにか覚えはある?」
フィルダさんは体を軽く前に傾け、期待を込めた眼差しを向けます。
私は申し訳なさを感じながら、ゆっくりと首を横に振りました。
「……ごめんなさい……なにも……」
せめて何かつながりがあってもよさそうなのに、自分の中には何一つ手繰り寄せられるものがない。
その事実を告白しようとして、また声が震えました。
「謝らなくていいよ。でも、このままだと呼びかける時に不便だね……おい、とかいうわけにもいかないし」
フィルダさんは視線を少し上に向けました。困ったような表情を浮かべているものの、その声音の優しさはずっと変わりません。
「私はそれでも……」
両手を膝の上で組み、少し肩を落としながら呟きました。
名前が思い出せない以上、それも仕方のないことだと思います。けれど、その言葉を最後まで紡ぎ出すことはできませんでした。
「それはさすがにダメだよ」
フィルダさんの声からは一歩も譲らない芯の通った強さが感じられました。
彼は椅子の上で背筋を伸ばし、姿勢を正すと、まっすぐに私の目を見つめてきます。
その真摯な眼差しに、私は思わず息を呑みました。




