幕間:シュミル1(1)
それは私が『私』となる前、神生暦二一三五年の記憶。
私が取り戻した時、いえ、意識をもった時というべきでしょうか。
私の目に最初に映ったのは木造の小屋の梁でした。その間から漏れる薄明かりが、ゆっくりと揺れている埃を照らしていました。
私は数瞬の間、天井を見つめたまま動けずにいました。
全身が重く、まるで深い眠りから覚めたばかりのような感覚。意識が追いつくまでに時間がかかりました。
やがて、自分が横たわっている場所の感触に意識が向きました。そっと手のひらを押し当ててみると、乾いた植物の香りが立ち上りました。
首を横に向けると、予想以上に床までの距離があることに気づきました。私は床から離れた場所─寝台の上に寝かされていたようでした。
(ここは?)
自分の置かれた状況がわかりません。
いいえ、状況などという言葉すら適切ではないかもしれません。私の中には、ただ底なしの空白が広がっていました。
思い出そうとしても、記憶の断片そのものが存在しないのです。少し前だけでなく、ずっと昔のことさえも。
ぼんやりと視線を漂わせていると、不意に右足下から声が響きました。
「フィルダ様、起きました」
幼さの残る澄んだ声に、私は混乱した意識のまま瞬きを繰り返しました。視界の端に、小さな影が床にかすかに揺れているのが見え、その声の主を探そうと首を傾けました。
フィルダ様─それは私のことなのでしょうか。
「目が覚めた?」
今度は別の声が、静かな足音ととも耳に届きました。
それは少年のような若々しさが少しだけ大人に近づいたような、柔らかな声色でした。
これは間違いなく、私に向けられた言葉。
そう判断した私は、ゆっくりと上体を起こしました。首筋の筋肉が少しこわばっていて、その動作に少し痛みを感じましたが、声のする方向へと顔を向けました。
そこに立っていたのは、青い髪の少年でした。
室内に射し込む光を受けて紫がかった深い青色の髪、紺碧の瞳が印象的でした。
少し下がり気味の細い眉と、小さく結ばれた唇が織りなす表情からは儚ささえ感じ、白い衣をまとった華奢な体つきと小さな顔立ちは、一見少女かと見紛うほどです。
けれど、その佇まいには美しくさえ感じる凜々しさが宿っており、それが少女のような繊細さと奇跡的に同居しているかのようでした。
私に向ける眼差しからは温かな慈愛さえ感じられ、なぜかはわかりませんが、彼が自分を害する者ではないことは確信していました。
それが『私』とフィルダさんの『最初の出会い』でした。
「名前を教えてくれるかな?」
その姿があまりに華奢だからでしょうか。心のどこかでもっと高く、もっと幼い声を想像していたようです。
実際の声に含まれる凛々しさに、私はまばたきを繰り返しました。
しかし、その違和感は瞬く間に、もっと深刻な気づきに呑み込まれていきます。
彼の言葉の意味を理解して、自分の中を覗き込んだ時、その答えが見つからないのです。
「名前……」
発した声が乾いた空気を震わせ、喉元で掠れるのを感じました。両手が膝の上で小刻みに震え、指先に力が入ります。
その時、視界の中で彼の表情が微かに変化するのが見えました。それまでまっすぐに向けられていた眼差しが優しく下がり、薄い唇が柔らかな弧を描きます。
「ああ、ごめん。僕が先に名乗るべきだった。僕はフィルダ」
気遣いに満ちた声音が、私の不安を包み込むように響きました。彼は左手を軽く胸元に添え、わずかに上体を傾けました。
ひとまず自分の名前を探るのはおいておき、目の前の彼の名前を復唱しようと、乾いた唇を開きます。
「フィル……さん?」
適切な敬称を探りながら、おずおずと目を上げて彼の反応を窺います。
「ああ、そうじゃないんだ。フィルダ、までが名前」
明るい声で告げながら、彼は首を小さく横に振りました。
自分の名前が間違って呼ばれたにもかかわらず、間違いだけでなく私の戸惑いを受け止めるような柔和さがその表情から感じられます。
瞳の奥に灯る温かな光に導かれるように、私は両手を膝の上で組み直し、もう一度その名前を反芻しました。
「フィルダ……さん?」
最初は単なる音の連なりだった言葉が、少しずつ意味を持った名前として形作られていく感覚がありました。
「そう。それで、君の名前を教えてもらえるかな?」
フィルダさんは片手を軽く前に差し出し、柔らかな声で再び問いかけてきました。
それは最初と同じ問い。
私は椅子の上で体を強張らせ、息が浅くなるのを感じます。
きっと記憶があれば、この問いかけに即座に応えられたはずです。自分の名を告げ、そこから会話が自然に広がっていったことでしょう。
けれど、私の中には何もありませんでした。名前も、来歴も、これまでの記憶も─。
それは穴が空いているというより完全な空白。そこに何かが存在していた痕跡すら、見つけることができません。
「……名前……名前……」
掠れた声で、膝の上で握りしめた両手を見つめながら、その言葉を繰り返します。
それは呼びかけることでどこかに存在する記憶が見つかることに期待するような、あるいは失われた記憶の破片を呼び覚まそうとするような、儚い試みでした。
ですが、私の心のうちに応えるものは何もなく、自分の声が虚しく部屋に吸い込まれていくだけでした。
「どうしたの?」
フィルダさんは一歩前に踏み出し、膝を軽く曲げて私の目線の高さまで体を落としました。その声音からは彼の優しさと心配が感じられます。
ですが、自分の中の空虚は、まるで深い闇のようで、それを直視すると、喉が強く締め付けられるような感覚に襲われます。
私は左手で胸元を押さえ、早くなる鼓動を抑えようとしていました。
「……わからないんです……私、自分が誰なのか」
唇から零れ出た言葉は、かすれた囁きのようでした。
気づけばいつの間にか右手の指先が、胸元の布地を強く握りしめていました。
「思い出せないってこと?」
フィルダさんは私の傍らに膝をつき、目線を合わせるように身を屈めました。
私は両手を膝の上で固く握り締め、喉の奥が痛むのを感じました。
「……名前だけじゃないんです、私、自分のことが何もわからない」
その告白は、胸の奥の虚無をより鮮明に浮かび上がらせました。言葉にすることで、その空虚さはより深く、より確かなものとなっていきます。
まるで自分という存在そのものが、どこかに置き去りにされてしまったような─。そんな風にさえ思えました。
「記憶がないということ?」
私は自分の内側を覗き込むように目を伏せ、震える唇を噛みしめます。
「そう……かもしれません。失っているのかも、元々ないのかもわかりません」
「ごめんね、ちょっと手を出して」
フィルダさんの申し出に顔をあげました。
何をするつもりなのか分からないので少し躊躇いながらも、フィルダさんの瞳に吸い込まれるように、ゆっくりと右手を差し出しました。
フィルダさんの手が、まるで壊れものを扱うかのような優しさで、私の手を包み込みます。
その瞬間、私の視線は自然と重ねられた手に引き寄せられました。
彼の手は予想以上に華奢で、私の手よりもほんの少し大きいだけ。指も細く、色白で女性の手と言われても不思議ではないような繊細さでした。
顔を上げると、フィルダさんは目を閉じ、深く集中しているようでした。長い睫毛が微かに震え、眉間には僅かな皺が寄っています。
その横顔に浮かぶ真摯な表情に、私は不思議な安堵をを覚え、心拍が少しずつ落ち着いていくのを感じました。
「神気はある……魔気はない……神族だと思うけど、神族で記憶を失うってあるのかな……成神前で蘇生気がない……というわけでもなさそう」
フィルダさんの囁くような呟きは、私の手を包んだまま続きます。長い睫毛の下で、閉じられた瞳が小刻みに動いているのが見えました。まるで何かを探るように。
私には理解できない言葉の数々でしたが、その声音に込められた真剣さと、手に伝わる僅かな温もりは、確かに感じ取ることができました。
「えっと……なにか?」
戸惑いを隠せない私の声に、フィルダさんは夢から覚めたように瞼を開きました。
その瞳が一瞬きょろりとし、そして慌てたように手を引きました。
「ああ、ごめんごめん、疑っているわけじゃないんだ。とても珍しい現象、状態だと思ってね」
早口で言葉を重ねながら、彼は両手を軽く前で合わせ、申し訳なさそうに首を傾げます。
その言葉に、私の胸の内で不安が渦を巻きます。「珍しい」という表現は、この状況がどれほど異常なものなのかを、暗に示していました。
何か言おうとして口を開きましたが、結局、言葉は形にならず、沈黙だけが部屋に満ちていきます。
「ああ、ごめん、無神経だった。当事者からしたら余所事じゃないのにね」
フィルダさんは眉を寄せ、申し訳なさそうに肩を落とします。
「あ、いえ、そういうつもりでは……」
右手を軽く前に出し、彼の誤解を打ち消そうとしましたが、適切な言葉が見つからず、声は宙に消えていきました。




