導き(45)
~シュミルside~
夕暮れ時のランドール王国の上空に、私は静かに浮遊していた。
柔らかな風が私の髪を揺らし、遠くに沈みゆく太陽が空を赤く染めていく。
その赤を遮るように、アルスを部屋に戻したユーカルの姿が現れた。
「ただい……」
私はユーカルの言葉を遮るように声を割り込ませた。
「おかえり」
その突然の一言に、ユーカルの瞳が大きく見開かれた。
「なに、いきなり?」
私のやや棘がある反応にユーカルは怪訝そうな顔をする。
自覚がなくて言っているのか、自覚があって言っているのか分からないのが、私の苛立ちをさらに増幅させる。
「もしかしてわかってないの?」
私の声には、自分でも驚くほどの鋭さが宿っていた。
ユーカルは私の態度に少し身を引くようにしながら、困惑した様子で答えた。
「なんのことかさっぱりわからないわ」
そう言いながら、ユーカルは無邪気な笑みを浮かべ、両手を広げてみせた。
その仕草は、私の怒りを宥めるような意図を含んでいたのかもしれない。
一瞬憤りの波が凪ぎ、落ち着いて考える余裕ができる。
たしかにユーカルが自覚して意図的にああいう行動をするとは思えないから……。
そこまで私は考えて、ユーカルの性格を思い起こし、ユーカルなら意図的にしうるという結論を出した。
間違いなく、彼女はやる。これはもう絶対に。
「説明もなしにただ憤られても困るのだけれど」
ユーカルの言い分は正しい。
正しいけど、私のもやもやした感情の正体を言葉にするよう迫っているようで、悪辣にさえ感じられた。
とはいえ、このまま理由を考えろと放置するのも不毛か。
肺いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その間に、頭の中で言葉を整理した。
「……手で口を塞いだでしょう?」
一呼吸おいて、私は何がいけないことだったかを口にした。
その瞬間、自分の声が少し震えているのに気づいた。感情を抑えようとする努力が、逆に声に現れてしまったようだ。
「え? えーと……ああ、室内で『契約法』を唱え始めた時のことね。え? まさかそれに怒っているの?」
ユーカルは信じられないものを見たように、目を見開いていた。
その様子から自分の感情が相手に伝わっていないことを察し、もどかしさが募る。
「それ自体はなにか理由があったのだろうって推測がつくわ」
「まさかどんな理由があっても接触するなというわけではないでしょ?」
ユーカルの声には、まだ困惑の色が濃く残っていた。
彼女の表情を見ていると、まだ誤解があることが分かる。
私は接触そのものを問題視しているのではない。そんな些細なことで怒るほど私は狭量ではない・・・・・・たぶん。
「そうじゃないわ。問題なのはその後の反応よ」
今回問題視しているのはその接触とは別件だ。
「反応?」
ユーカルは首を傾げる。
彼女の困惑した表情を見て、この一連の出来事が本当に偶然だったのだと悟る。
ただ、偶然か必然かはこの際、どうでもいい。
「恥じらったのよ、アルスが、あの顔で!」
私の声には、これまで抑えていた感情のすべてが込められていた。
怒り、嫉妬、そしてその他の雑多な感情が、一気に言葉となって溢れ出た。
「……ああ……」
ユーカルが驚き半分呆れ半分といった感じで口をあんぐりと開けた。
「つまり、私があの顔にそんな表情をさせたことに対して憤っている、と?」
ユーカルの言葉に、私は思わず感情的に反応してしまった。
「そうよっ」
返答の瞬間、自分の声の高ぶりに驚いた。
そういうのは私がさせたいことだったのだ。
フィルの顔であの表情、あの反応・・・・・・それを引き出すのは私の役目だと思っていた。
もちろん、今回ユーカルがそういう表情をさせた相手はフィルではない。だから『フィルに』最初にそういう表情をさせる機会はまだ失われてはいない。
だけど、『あの顔に』そういう表情を最初にさせるという点では先を越されたのだ。
そう考えれば、この憤りは正当なものだろう。
「やれやれ、とんだ八つ当たりね」
ユーカルは肩を竦めながら、まるで子供の駄々をなだめるような余裕たっぷりな態度を見せた。
その仕草に、私の中で反発心が湧き上がる。
「八つ当たりはしてないでしょ、当事者に当たっているんだから」
自分の声が予想以上に強かったのを感じ、少し後悔したが、もう引き下がるわけにはいかなかった。
「はいはい、そうね」
理由を理解したせいか、ユーカルの返事はあからさまにぞんざいになった。
でも、次の瞬間、彼女の表情が微妙に変化した。何かに思い当たったような、僅かな躊躇いが垣間見える。
「あれ? でも、以前も赤面させたことってなかった?」
その問いかけに、ユーカルが何のことを言っているのかおおよそ見当がつく。
「あるわ。あるけど、それはそれ、これはこれよ」
あの時は言葉責めで、それはそれで大事な記憶だけど、今回はよりによって手で口を塞ぐという接触の上での恥じらいだ。
昔の出来事があるからといって、今回のことを簡単に流せるわけではない。
「文句があるなら、次からシュミルが対応する?」
ユーカルの挑発的な笑みと言葉に、私は一瞬たじろいだ。その提案の魅力と危険性が、私の中で激しくぶつかり合う。
「う……っ」
思わぬ提案に動揺し、二の句が継げなくなる。
たしかに私自身の手であの顔に恥じらう表情をさせるのはとても魅力的ではある。
だけど、同時にアルスはまがい物であることを私が一番知っている。
そんなまがい物に私の身体を触れさせるなんて、私の自尊心が許さない。
……許さないが、今回のような事故ならぎりぎりどうにか許せないこともない……かもしれない……いや、無理か。
私はそんな隙だらけな女性なんです、姿形が同じだったから別の存在であってもよかったんです、なんて絶対認められない。
「なにを悩んでいるのかだいたい想像はつくけど、どうせその点で妥協できないんだから、私に任せておけばいいでしょ」
彼女の表情に浮かぶ前向きさと楽しみを噛み締めるような様子に、妙な違和感を覚える。
「……行く前と違って、やる気が出ているわね」
自分の声に、少し苦々しさが混じる。
行く前のユーカルは明らかにこの任務を面倒ごとだと思っていたはずだ。
その変化が私を戸惑わせる。
ユーカルは私の言葉に小さく笑みを浮かべた。その表情には、何か秘密を握っているかのような雰囲気が漂っていた。
「やる気が出たのは今だけれどね」
「今?」
ユーカルの口元が意味深そうに歪み、私の胸に不安が広がった。
「シュミルがそういう風に妬くなら、それは次からの楽しみというものでしょう」
「!?」
ユーカルの言葉と悪戯っぽい笑みに、私は身を硬くし、言葉を失った。
ユーカルは純粋な意味では私のライバルではないが、疑似的にはライバルであるとも言える。
「まさか、これからは積極的に密着するとかいうんじゃないでしょうね?」
抑えきれない動揺が私の声に含まれ、言葉の端々に、不安と焦りが滲み出た。




