導き(40)
滅亡した帝国カルン。
かつては白亜の城壁が威厳を放っていた帝都の中心。
しかし今や、その豪奢を誇った城は瓦礫の山と化し、廃虚同様の惨めな姿となっていた。
崩れ落ちた城壁の隙間からは、焼け焦げた建物や荒れ果てた庭園が覗いている。その陰惨な光景に呼応するかのように、灰色の雲が重く垂れ込め、わずかな陽光さえも遮っていた。
アスラルト国と帝都の間に広がる大地は、もはや人間の姿を見ることはない。代わりに、牛頭の巨人や翼の生えた蛇、全身が炎に包まれた獣など、大小様々な魔物が蠢いていた。
帝都の外にあった、かつての豊かな農地や美しい森は異形の生き物たちの領域と化し、魔物と大地の間には無数の人の屍が横たわり、大地を埋め尽くさんばかりであった。腐敗臭と魔物の放つ異様な臭気が混ざり合い、生者を寄せ付けない雰囲気が漂っていた。
そんな死の国へと変貌した旧カルン帝国の領土を、南へ向かって必死に逃げる三つの人影があった。
荒れ果てた大地を踏みしめ、時折振り返りながら、彼らは希望を求めて歩を進めていた。乾いた風が彼らの疲れた体を抑え、遠くに聞こえる魔物の唸り声が彼らの恐怖を煽り立てていた。
先頭を行く一人の男はその身をもはや使い物にならない程の損傷の激しい鎧で包んでいる。
その破損した鎧の中に、注意深く見なければ分からないほど傷ついたカルンの紋章があった。
彼は右足を負傷したらしく、剣を杖にして引きずるように歩いている。様子からしてカルンの騎士だろう。
頭部には一カ所、それほど深くはない傷があり、そこからも血が滴り落ちていた。
そして彼の背後には女性と子供が続いている。
女性の顔立ちは気品があり、疲労と恐怖の色が濃いものの、凛とした雰囲気を漂わせている。彼女の手には幼い子供の手が握られ、その小さな体を必死に守るように寄り添っている。
皇帝の強い要望により、密かに脱出口から逃げ出すことができた皇妃ミディアと皇子であった。
「ミディア様、あと少しです。どうかご辛抱ください」
騎士が振り返り、掠れた声で励ました。
彼女は無言で頷き、子供の手を握る手に力を込めた。
金髪は埃と汗で乱れ、赤い瞳には疲労の色が濃く滲んでいたが、その姿からは高貴な出自が垣間見えた。
魔物の鳴き声が聞こえるたびに、彼女達は崩れかけた家の壁に身を隠しながら進み続けていた。
そんな危険があっても、一縷の望みをかけて彼女達は南にいるという賢者に保護を求めるため、歩き続けていた。
だが、カルン帝国は広い。
帝都にもっとも近い村から抜けた先には、広大な畑が広がっていた。
魔物から身を隠すことができるのは点在する樹木のみ。
もし、畑の畦道で魔物に見つかれば、逃げ切るのは困難であることは明白だった。
そしてその懸念は村から出て三十分ほどで現実のものとなった。
「ケーッ!」
鶏の鳴き声と蛇の威嚇音が混ざったような不気味な音が彼女達の後ろから響く。
振り返ると、巨大なニワトリの姿をした魔獣が彼女達を獲物と見定めて駆けてくるのが見えた。
その様子は発見されたことを彼らに認識させた。
「ミディア様!」
騎士が張り詰めた声をあげ、彼女を背後に隠す。
もちろんそれで隠しきれるとはこの場の誰も思ってはいない。
彼は歩くことを放棄し、その場で杖替わりにしていた剣を構え、決死の表情で叫んだ。
「ミディア様!ここは私が食い止めます。一刻も早くお進みください」
それがどういう意味かは彼女にもわかった。
「ですが!」
「どのみち、この身は長くは持ちません。どうか少しでも安全な場所へ」
彼女の身を守る騎士は彼一人だけとなり、それを捨てるということは次はないということにほかならない。
だからといって、皇子を連れた今、魔獣相手に戦うという選択肢はない。
「ケーッ!」
魔獣が再び哮った。
それはただの興奮故のものだろうが、騎士の決意をあざ笑うかのようにも聞こえるものだった。
「ミディア様!」
騎士の目は魔獣をまっすぐに見据えており、すでに彼女の方を向いてはいない。
彼女は一瞬固く目をつぶり、そして騎士に背を向けた。
「あなたの勇気と献身に感謝します」
ミディアは戦闘場所から距離をとるべく皇子の手を引き走り出した。
もう彼女は後ろを振り返らなかった。
一方、魔獣は逃げた皇妃には目もくれず、目の前にいる騎士に襲い掛かった。
「所詮、単純な魔獣だな!それとも鳥頭と言うべきか!」
騎士は劣勢を振り払い挑発するように声をあげた。
騎士はもともと立っているだけで精一杯の状況だった。もし魔獣が避けていたら、彼には追いかける術がなかった。
だが、魔獣は逃げた女子供に目もくれずに騎士に向かってきた。
騎士は、自分の役割の八割は終わったようなものだと感じた。
魔獣が爬虫類のようにしなやかに身をくねらせ、その鋭い嘴を騎士に向けて振り下ろす。
「絶界!」
騎士の言葉とともに、騎士を光の膜が覆う。
いかなる攻撃をも通さない壁に阻まれ、衝撃で魔獣は首を振った。
勝機を察した騎士が剣を振り上げた時、騎士を包んでいた防御膜は消える。
「ここでか!」
騎士の身体はすでに限界だったのだ。
そしてがら空きとなった騎士の腹部を破損した鎧ごと鱗に覆われた尻尾が貫く。
「かは……っ」
騎士の口から血が吹き出す。
彼は狙いが定まったとばかりに死力を尽くして剣を振り下ろし、尻尾を切り落とした。
だが、それが限界。
そこで彼は膝をつき、地に伏せた。
一方、魔獣は尻尾を切られた痛みか怒りか、泣きわめくように白い霧を吐きながら咆号した。
その白い霧は周囲を、そして騎士を白く石化させていき、あたりを石の世界へと変えていった。
魔獣から距離をいくらかとることができた皇妃と皇子。
そこで二人の身体に異変が起きた。
まるで見えない手に引っ張られるかのように、急速に上空へと持ち上げられていき、十数メートルほどの高さまで上がると、そこでピタリと停止した。
横には若い銀髪の女性の姿があった。
「大丈夫ですよ」
優しいが、自信に満ちた力強い声。
「どうもありがとうございます。あなたは?」
皇妃ミディアは事態が把握できず驚きを含んだ声で感謝とともに尋ねた。
銀髪の女性は穏やかな笑みを浮かべ答える。
「私はツィタという者です」
「あ、あなたがあの、南の賢者……どうかお助けを……」
不眠不休の逃亡ですでに限界を迎えていたのだろう。
目的としていた人物に会えた安堵から、ここまで張りつめていた緊張の糸がきれて、言葉を最後まで言い終えることができず、ミディアは気を失った。
やや離れた地上では魔物が荒れ狂っていたが、上空に浮かぶ彼女達に気づいてはいないようだった。
その姿を見ながら、ツィタは静かに呟いた。
「倒してしまってもいいけど、倒しても焼け石に水ね」
魔物はこの地一帯に広がっており、一体や二体倒したところで意味はない。
ツィタは二人を引き連れるかのように南方へ飛び去り、地上では魔獣の咆哮が虚しく響き渡っていた。




