導き(32)
~アルスside~
レナとイアノが謁見の間に向かっている頃、俺の部屋には来客の姿があった。
来客というのも正確ではないかもしれない。俺が招き入れたわけではなく、気がつけばそこに佇んでいたのだ。宙に浮かぶように立っている一人の女性が。
俺は目を凝らして、その姿を細かく観察した。
まず目に留まったのは、自分達、というか、レナ達とは明らかに異質な衣装だった。
俺が元いた時代でもこの時代でも、衣服は基本的に身体に沿うように仕立てられる。たとえゆとりを持たせた作りであっても、体の線に添わせるという点では変わらない。そのため、着用者の体型は服の上からでもある程度は把握できるし、衣服の不自然な皺も最小限に抑えられる。
しかし彼女の装いは、そうした常識から完全に外れていた。
一枚の亜麻色の布を、まるで流れる水のように身に纏っているとしか表現のしようがない。素材こそ違えど、優美な襞を描くカーテンを巧みに身にまとったかのような印象だ。
そして、衣装は右肩で留められ、もう片方の肩は大胆に露出している。布地は腰まで真っ直ぐに落ち、そこからさらに足首へと伸びていく。
腰には紐が巻かれ、全体の形を整えているが、布を縫い合わせているわけではなく、留めたり縛ったりすることで服の形に仕立てているようだ。
顔立ちに目を移すと、レナと同じく黒髪に黒い瞳。年齢は俺と同年代か少し上という印象で、二十歳にはなっていないように思える。
しかし、黒髪だからついレナと比較してしまったが、その相貌はレナとは似ても似つかない。確かに美人の部類には入るのだが、雰囲気で言えばむしろイアノに近いものがある。もしレナに似た容姿であれば、出奔したとされる姉のフィアラかと疑っただろう。
だが、俺はこの顔を知っている。忘れようにも忘れられない顔だからだ。
もっとも、忘れられないと言っても色気がある話ではない。あえて言えば『敵』だろうか。
俺が言葉もなく彼女を見ている間、彼女もまた俺をまじまじと見つめ、部屋の中は沈黙で満たされた。
やがて、彼女は意を決したように、少し緊張した様子で声を発した。
「こんにちは……でいいかな?」
その声が耳に届いた瞬間、氷水を浴びたかのような衝撃が全身を走った。
それはまぎれもなく記憶の中の声と同一だったからだ。
「!まさか……レイシアか?」
だが、そう口には出したものの、疑問はぬぐえない。
なぜなら彼女は俺が元いた時間、神生歴七五〇〇年代に命を落としたはずだ。だから違う時間、神生歴四七〇〇年代である今、彼女がここにいるはずがない。
だから彼女ではないと理性的には考える、考えようとしている。
しかし、記憶の中の彼女と目の前の彼女が重なって見える感覚が、その理性的な判断を揺るがし続けていた。
たとえば、俺が元いた時間のレイシアが二千八百歳越えであったというのなら、いちおう辻褄は合う。もちろん二千八百年も生きるなんて常識外れだとは思うが、それを言い出せば、俺が二千八百年遡った時間にいることだって常識外れな出来事である。レイシア二千八百歳説を荒唐無稽と片付けることは今の俺には出来ない。
だが、記憶にあるレイシアも成長はしていたのだから、レイシア二千八百歳説を採用するなら、レイシアはそれこそ幼児から大人までの姿をいったりきたりしていたということになる。さすがにそこまでいくと、ありえないという気にはなってくる。
結論を出せない俺に対し、目の前の女性は華奢な眉を寄せ、声音に苛立ちを滲ませた。
「? 誰、それ?」
その反応は意外だった。
そしてレイシアであることを否定するその言葉に、緊張で強ばっていた肩から力が抜けていく。ゆっくりと息を吐き出しながら、混乱していた思考が整理されていくのを感じた。
もちろん彼女の言動が偽装の可能性は否定できない。
しかし、もしレイシアが仮に生きていて、さらにどういうわけか別の時間である今いるとしても、こんな形で俺に近づくとは考えにくい。
俺に復讐するならもっと別の方法をとるだろう。
俺は目の前の女性はレイシアではないと頭の中で幾度も言い聞かせ、落ち着きを取り戻した俺は、先ほどの発言を言い繕った。
「失礼……知人によく似た女性がいたもので。よければ名前を伺っても?」
「……シュミルよ」
彼女の表情が一瞬曇り、すぐに眉間に皺を寄せ、再び苛立ちの滲んだ声で名乗った。
彼女が何かを期待していたのは明らかだった。だが、その期待の正体も、俺の言葉のどこが彼女の不満を招いたのかも、まるで掴めない。
無言のにらみ合いにも等しい見つめ合いが続いた後、今度はシュミルが唇を開いた。
「あなた、名前は?」
その問いは予想外すぎた。
「え?」
思考が追いつかず、掠れた声が漏れる。
俺が彼女のことを知らない、または忘れているだけで、彼女は俺のことを知っているはずだ——そんな思い込みが、無意識のうちに形作られていたことに今更ながら気づく。
いや、これも少し違うか。
レイシアではないと認めたつもりでいながら、最初の想定が頭の片隅にこびりついていただけなのだ。
考えてみれば当然だった。
レイシアでないのなら、突然現れるような女性に俺に心当たりがない以上、彼女もまた知らないのは当然と言える。
所詮、俺はしがない『盗賊』である。いや、盗賊でさえ指名手配されていれば名が売れるものだが、俺は堂々と街を歩けるちんけな存在だ。
そもそも知り合いなら「こんにちは……でいいかな?」などと、距離を測るような言い方はしないだろう。
「名前よ、名前」
彼女の声には、どこか切迫したような響きが混ざっている。
「アルス」
何が彼女を急かすのかはわからないが、隠すほどの名前でもない。俺は端的に名前を告げた。
普通なら名乗りはそれで終わるはずだった。しかし、一瞬間をおいて、彼女は予想外の言葉を重ねた。
「……出自も含めて」
出自――おそらく家名のことだろう。
「アルス・レイロッド」
それは久しく口にしていない言葉だった。
家名とは家を代表する者、つまり家長が名乗るべき重みを持つ名だ。
普段は名乗ることもないが、問われた以上、隠す理由もない。
「そう……」
彼女は短く溜息をつくと、細い指を唇に当てたまま、俺の存在を忘れたかのように黙り込んだ。
家名になにか思うところがあるのか。
どうにもその真意は掴めないままだ。
とはいえ、このまま黙っていても何も進まない。
重苦しい沈黙を振り払うように、俺は声を上げた。
「聞いてもいいか?」
自分の声が、この静寂の中で不自然なほど大きく響く。
「なに?」
思考を遮られたからか、彼女の声には再び苛立ちの色が滲んでいた。
「『転移』もち、だよな?」
聞きたいことがそれかと自分でも思う。
しかし、今更引っ込めるわけにもいかない。話題にできる材料が乏しい中で、これが精一杯の選択だったのだと自分に言い聞かせた。
いや、一応ほかの話題として、彼女の独特な服装を話題にするという方策はあるのだ。
しかし、馬鹿正直に「とても独創的な服ですね」などと言おうものなら、この微妙な空気をさらに悪化させるのは疑う余地がない。
仮に、本当に仮にだが、彼女自身がその服を不適切だと認識しているなら恥をかかせることになるし、反対に適切だと認識しているなら、それは常識知らずと言っているようなものだからだ。
かといって、婉曲的にそれを気づかせるような話術など持ち合わせてはいない。
「……そうね……」
一呼吸置いて、彼女は退屈そうな調子で答えた。
聞く内容がそれか、と思っているのかもしれない。
自分でも話題を無理やり探した自覚はある。
とはいえ、彼女の答えは俺が軟禁状態にある原因の一端、『王家の杖』紛失、をもっとも容易に実現できることを示していた。
喉が僅かに乾くのを感じながら、俺は核心に触れる質問を投げかけた。
「『王家の杖』を持ち出したか?」
「知らないわね」
彼女の即答に、俺は一瞬戸惑った。
さっきまでの態度とは打って変わって、躊躇いのない返事。
この反応をどう読むべきか。
頭の中で可能性を巡らせる。
彼女が盗んだ本人だったとしても素直に認めるとは限らない。だから彼女の返答が事実であると疑いもなく信じることができるわけではない。
とはいえ、誤魔化すでもなく、否定するわけでもなく、「知らない」という返答は関係者らしからぬ態度に思える。
もちろんこの態度自体が演技という可能性もある。
だが、本当に隠し事があるのなら、もっと大げさな否定か、あるいは露骨なとぼけ方をしそうなものだ。
彼女の表情からは、そういった芝居がかった様子が微塵も感じられない。
むしろ――この話題に対して、本物の無関心が滲み出ているようにすら見える。
「そうか」
俺は短くそう答えるしかなかった。
『王家の杖』に関して彼女を問い詰める材料を持ち合わせているわけではないので、これ以上は追及しようがない。
この件で無理に話を続けても、きっと徒労に終わるだろう。




