策動(30)
期限は日没まで。片道二時間ということは実質的な活動時間は半日しかない。もちろん、移動時間を短縮する方法はあるが、目立つため、普通の人族のように地上を徒歩で進むしかない。
陽がちょうど頭上に差しかかる頃、森の中に足を踏み入れた。木々の間から差し込む光が地面に斑模様を描く中、薬草採取の試験区画を目指す。
巻物に示されていたのは、イノシシの群れが確認されている場所が二箇所と、オオカミの縄張りが一箇所。幸い、目的地はそれらの区域からは離れていたが、念には念を入れる必要がある。
「受付の説明では触れられませんでしたが、地図にも書かれていない危険はありそうですか?」
ムラサキが足を止め、周囲を見渡しながら静かな声で懸念を示した。
たしかに気になる点だ。イノシシやオオカミなら、巻物に載せても問題はない。しかし、魔物となると話は違う。人族との関係上、公式な試験で魔物との遭遇を前提にはできないだろう。
「警戒は必要かもしれないな。でも、今回は表立った危険への対処も試験の一部みたいだからな」
森の入り口から二百歩ほど進んだとき、目印の白い布が木に結ばれているのが視界に飛び込んできた。
ここからが本当の試験だ。
「ムラサキ、周囲に気を配ってくれ」
「はい」
ムラサキは頷き、鋭い眼差しで木々の間を注視し、時折耳を澄ませて異音を探った。本来なら一瞬で警戒を済ませられるが、これはあくまで人族の試験だ。彼はあえて目と耳だけを使い、慎重に気配を確認している。
俺もそれに倣い、首を左右に動かし、人族のような警戒の動作を演じた。
その時だ。茂みの奥で葉が揺れる音が耳に届き、視線がそちらへと引き寄せられた。草の揺れ方からして、小動物——おそらくノウサギだろう。放っておいて問題ない。
「見つけました」
ムラサキが木陰の方へ顎を軽く上げた。
確かにそこには青い花を咲かせた植物が群生している。しかし、ここで慎重になる必要があった。巻物によれば、致死性の毒を持つ『偽青花』という毒草が混じっている可能性がある。間違えて採取すれば即座に失格だ。
また、植生も重要な手がかりになる。青花草は日陰を好むが、木陰であれば良いわけではない。適度な湿り気のある場所、しかも水はけの良い土壌を好む。巻物の情報を頭で整理しつつ、注意深く地面を観察した。
するとその時、ムラサキが小声で警告の言葉を放った。
「イノシシです。三頭――こちらに近づいています」
ムラサキの視線の先にはイノシシの群れがこちらへ向かってきていた。すでに気づかれているようだ。距離は二十歩ほど。二頭は子供のようだが、親らしき一頭は警戒しており、低い唸り声を発していた。
動物を傷つけるのは禁止されている以上、選択肢は逃げるか、イノシシが自発的に去るのを待つかだ。たかがイノシシごときに逃げる状況自体が胸に嫌悪感を呼び起こす。
ムラサキがその気になればどうとでもできるだろうが、そうする気はないのだろう。そうでなければ、わざわざ警告などしない。
「どうする?」
木の陰に身を寄せながら小声で問うと、ムラサキは視線をイノシシに固定したまま答えた。
「イノシシが引くのを待つしかありません」
「そうなるか……」
胸中で苛立ちを抑えながらも、俺はムラサキと共に身を潜め、イノシシたちの様子を見守った。
二分ほど経つと、子イノシシたちが小さな鳴き声を上げながら茂みの奥へ駆け去り、それに続いて親イノシシも鼻を鳴らしながら後ずさり、森の影に溶けた。
イノシシがいなくなったのを確認すると、再び青花草へと手を伸ばした。だがその瞬間、巻物の警告が頭をよぎり、動きを止めた。
ーー『青花草に似た毒草・偽青花には、茎に細かな棘があり、根本には赤みがかった輪が一周している。また、青花草は常に北向きに花を咲かせるが、偽青花にはそのような特徴は見られない』だったか?
目視だけでも判断はつくが、ここは慎重さが求められている。指先で茎の感触を探り、棘がないことを確かめた。巻物に記された位置で茎を切り取り、根を傷つけないよう細心の注意を払いながら五束分を丁寧に採取した。
採取した青花草をまとめていると、ムラサキが静かに立ち上がり、日の差す方向へと視線を向けた。
「白根草も近くにあるかもしれません」
「そうだな。白根草は日向を好むって書いてあったか」
その時、森の際の若木が風に吹かれ、葉擦れの音が聞こえた。その奥には淡い茶色の影が浮かび上がる。
「鹿です」
ムラサキが小声で知らせる。
倒せれば楽なのに――いや、倒すことは容易いのに、それが許されないというもどかしさが胸に渦巻く。
草取り程度の試験だと侮っていたが、まさか動物との神経を使った睨み合いまでさせられるとは。気疲れするにもほどがある。
鹿が警戒心を解き、尾を揺らしながら森の奥へと消えていくのを見届けると、再び薬草探しに身を投じた。
しばらく歩みを続けるうちに、木々の隙間から差し込む陽光が地面に明るい斑点を描き出している場所を発見した。その光を浴びるようにして、白い花を咲かせた白根草が群生している。
「根を傷つけないように、少し広く掘り起こすか」
地面に膝をつき、指先で土の柔らかさを探りながら、周囲を慎重に掘り始めた。
その時、手の届く距離の草むらがわずかに揺れた。
一瞬、風のせいかと思ったが、風は吹いていない。
注意深く草をかき分けると、褐色と黒の縞模様をした細長い生き物が、ゆっくりと身をくねらせ、その口から赤い紐のような舌をちらつかせている。
これまで見たこともない異形、そして、事前に聞いていた内容から、俺はそれが何かを理解した。
蛇——
本来なら遭遇するはずもない生物との邂逅——俺は恐怖ではなく嫌悪感から、気づけば体を引いていた。
「どうしました?」
ムラサキが俺の不自然な動きに気づき、問いかけてくる。
「おそらくこれが蛇だ」
地を這う生き物の姿を目の当たりにして、何とも言えない違和感が胸に広がる。空に住まう俺達とは対極の存在——足さえ持たずに地をのた打つ惨めな生物。
ムラサキも身を乗り出し、蛇を観察していた。
「これが……蛇……」
その声には、俺とは違い、わずかではあるが興味と興奮が混ざっているように感じられた。そういえば、ムラサキは見た目こそハネナガやオナガよりも年上だが、実際は俺達より遙かに若い。
神族の従者としての心得はあるものの、好奇心をもってしまうのは仕方ないことかもしれない。
蛇はその場で静止し、黒い瞳で俺たちを見上げた。
互いの視線が交わったように感じた瞬間、草むらへと姿を消した。
「触れたらダメなのですか?」
受付での会話を忘れたのか、ムラサキは去っていった蛇との別れを名残惜しんでいるようだった。
愛玩動物にでもしたかったのだろうか。その感性が俺にはまったく理解できない。
俺にムラサキの行動を止める義務があるわけでもないが、ムラサキも俺達同様、神族の方々ほどの不死性を備えているわけではない。何もわざわざ好奇心から危険に近づく必要もないだろう。
「受付で噛まれると毒で死ぬこともあると言っていただろう」
「そういえばそうですね。でも、種類によるとも言っていました」
毒さえなければ持って行ってもいいのではないかとでも言うつもりだろうか。
どうも試験そっちのけで蛇に意識が向いてしまっているようだ。
蛇の何がムラサキの琴線に触れたのかは分からないが、できれば集中してもらいたい。
「見分け方がわからないから、全て危険だと思った方がいい」
「そうですね……」
俺の発言に危険だと思い至ったのか、はたまた任務を思い出したのか分からないが、ムラサキは蛇が去っていった方向をしばらく見つめた後、白根草を取る作業に戻った。
「でも、採取するだけでいいのでしょうか」
作業をしているとムラサキが首を傾げながら疑問を投げかけてきた。
巻物には保管方法まで詳細に記されていた。ということは、採取後の保管も試験の重要な要素である可能性がある。
「そうだな。採取した青花草も、このままでは状態が悪くなるかもしれない」
すでに採取した青花草の束を見つめ、顎に手を当てて思案を巡らせた。採ったばかりの植物は繊細で、時間とともに鮮度が失われていくのだという。
一体どうするべきか――。
「仕方ありません」
ムラサキは息を吐くと、腰の革袋を開き、束を詰め込んだ。
その動作の雑さに眉をひそめたが、すぐにその意図に気づいた。
「……そういうことか」
たしかにムラサキの能力は大々的に使えば好奇の目を招く。だが、この使い方なら袋に入れただけのように見え、その力に気づかれることもない。
俺達は残る赤茎草を探すため、森の奥へと歩を進めた。
「赤茎草は……水辺を好むだったか」
記憶を頼りに左右の木立を見比べ、湿り気のある地面を探した。巻物には、赤茎草は湿った土を好むものの、根が常に水に浸かる場所では腐りやすいと記されていたはずだ。さらに、茎の赤みは日光の強さで変化し、薄暗い場所では緑色に近くなり、見分けにくくなるのだという。
「川の音がします」
ムラサキが静かに告げた。彼の言葉に従って耳を澄ませると、水の流れる音が聞こえてきた。
俺達は音を頼りに進み、間もなく小さな清流が視界に広がった。その川岸に目的の赤茎草らしき植物が点在している。
近づいて確認すると問題が浮かび上がってきた。
「若い茎と古い茎が混ざっているな」
俺が気づきを口にすると、ムラサキが頷き、巻物の記述を思い出すように言葉を紡いだ。
「たしか『赤茎草は新芽から二十日ほどの若い茎が最も薬効が高い。古い茎は赤みが濃くなるため一見良質に見えるが、苦みが強く、薬の材料には適さない』とありました」
川辺は赤茎草が豊富だが、新しい茎と古い茎が混在している。区別するには、色だけでなく節と節の間隔も重要だと記されていた。
若い茎を見分けようと目を凝らしていると、ムラサキが再び警告の声を落とした。
「あの茂みの向こうに、鹿の気配が」
眉間にしわを寄せ、心の中でため息をついた。
またか――。これは想像以上に忍耐を要する任務だ。
川向こうに目をやると、茂みが揺れ、淡い茶色の影が姿を現した。どうやら鹿は水を飲みに来たようだ。小さな清流は鹿には簡単に渡れる程度の深さだ。
俺達は腰を落とし、鹿を刺激しないよう作業を継続した。若い赤茎草を選別しながらも、時折鹿の様子を窺う。急な動きを抑え、自然な動作を心がけた。
同時に上流方向に逃げ道を確保し、万一の際に備える。
川のせせらぎと鹿のかすかな足音を気にしつつ、赤茎草を丁寧に掘り起こしていった。




