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策動(29)

 それが昨日の話だ。


 実際に人族に紛れて歩いていると、『なぜこんなことをしているのか』という疑念が頭に渦巻く。

 そもそも、人族ごときに紛れるという判断自体が不愉快だった。傲岸不遜なあの女なら「は? 人族? そんな不快な存在に紛れるなんてありえないわ」と冷淡に言葉を投げつけるはずだ。

 だが、自分が紛れないのをいいことに「紛れてこい」と言ったのだ。指示を出したのはシチビだったが、この際、それは些細なことだ。

 シチビを思い浮かべ、唇を強く噛んだ。あいつが当然のように『魔物と接触させる』などと無責任な提案を放ったことを思い出し、掌に爪が食い込む。

 フィルダ様が人族の身に封じられていることはほぼ確実になったというのに、その大切なお体を危険に晒すなど。あいつは一体、フィルダ様が囚われたその身を何だと思っているのか。


 そんなシチビが護仕のリーダー面をしていること自体、納得できない。だが唯一心が晴れたのは、そのシチビが情報伝達という名目で今回の任務から外され、留守番を命じられたことだ。

 フィルダ様がお目覚めになった際、シチビが留守番しかしていなかったと知れば、深く失望されるに違いない。それに対し、俺が冒険者として華々しく活躍したと聞けば――。

 歯の間から細く息を漏らし、わずかに口角を引き上げた。

 あの女に言われて行動するのは業腹だが、俺にとってはある意味、願ってもない機会なのだ。


 苛立ちを抑えながら歩いていると、前を行くムラサキが不意に足を止めた。

「どうやらここのようです」

 俺達の前には「冒険者ギルド」と書かれた木板が掲げられた二階建ての建物があった。

「ここか……」

 低く呟きながら重厚な扉に手を伸ばす。ざらついた木の質感が掌に伝わり、力を込め押し込むと、軋む音が空気を震わせた。

 扉の奥からは喧騒が溢れ出て、歓迎とは程遠い雑音が耳に突き刺さった。

 胸に深く息を吸い込み、一歩を踏み出す。


 建物の中は天井の高い広い空間で、右手には大きな掲示板が目を引く。何枚もの紙が貼られ、人族が群がり、時折紙を指差しては口々に言葉を交わしている。

「これはいいな。八級で銀貨五枚だぞ」

 若い男が熱気を込めた声で叫び、隣の年配の男は腕を組み、首を横に振った。

「いや、それは罠だ。依頼主の評判を調べたが......」

 どうやら貼られた依頼には価値があり、級の数字によって何かが変動するようだ。

 左手側にはテーブルと椅子が並び、座った人族たちが思い思いに会話を交わしていた。絶え間ない話し声から、時折笑い声が響き渡る。

 正面に目を向けると、横長の受付用テーブルがあり、向こう側に若い女性が佇んでいた。両手を丁寧に重ね、扉付近に佇む俺たちに視線を向けた。


「いらっしゃいませ。冒険者ギルドに何かご用ですか?」

 穏やかながらもはっきりした声が、喧騒の中、するりと耳に入った。

 立ち止まっていると余計に注目を浴びそうだ。ムラサキと視線を交わし、俺は軽く頷いて受付へ向かって足を踏み出した。

 俺達が近づくにつれて受付の女性の表情が急速に変わっていく。目は大きく見開かれ、口が小さく開いたまま。

「む、紫色の……髪?」

 震える声で呟き、視線をムラサキの髪に固定した。その瞬間、室内の話し声が一斉に止まり、場が張りつめた静けさに包み込まれた。

 視線がムラサキへと一斉に注がれる。注目を中心的に集めているのはムラサキだが、好奇の視線に巻き込まれている俺も少しだけ肩に力が入ってしまう。もし俺ではなくオナガだったら、今頃は扉に向かって全力で駆け出していただろう。


「紫……髪?」

 誰かが息を詰まらせたような声で呟いた。

「冗談だろう」

「不敬じゃないのか、これは」

 再び広がり始めたざわめきは動揺に満ち、驚きと戸惑いがうねるように波打つ。

 人族の反応がどうも理解できず、戸惑いながら眉を寄せた。ムラサキが目を引くことはいつものことだが、これほど過敏な反応を示されるのは初めてだった。

 そんな中、当のムラサキ本人は何事もないように悠然と受付に向かって歩を進める。その足取りに迷いはなく、周囲の状況など眼中にないようだ。

 ムラサキにとっては、視線を浴びることなど日常なのかもしれない。この図太さを、オナガに分けてやりたいほどだ。

 ……いや、単に鈍感なだけかもしれないが。


「すみません」

 ムラサキは上半身を丁寧に傾け、両手を前に重ねて深々と頭を下げた。その予想外の振る舞いに、周囲から小さな驚きの声が漏れる。近くの年配冒険者は目を丸くし、若い冒険者は口を開けたままぽかんとしていた。

 俺も思わず足を止めた。周囲が驚いたのはムラサキの礼儀正しさだろうが、俺が戸惑ったのは別の理由だ。

 神族の従者であるムラサキが、人族ごときに頭を下げる――その光景があまりにも異様で、目の前の現実を疑いたくなる。


「は、はい、なんでしょうか?」

 受付の女性は動揺を隠せず、声を少し上ずらせた。

「冒険者になりたいのですが」

 ムラサキが女性の動揺に気づかぬ様子で穏やかに要望を告げると、彼女は平静を取り戻そうとするように小さく咳払いをする。

「新規の登録ですか?」

「はい」

 短く答えると同時に頷くムラサキに対し、受付の女性は一瞬目を伏せ、何かを思案するように口を開いた。


「紹介状はありますか?」

「紹介状?」

 俺とムラサキは顔を見合わせた。ハネナガからそんな話は聞いていない。ハネナガの情報収集不足か?

「その紹介状というものが必要なのですか?」

「あ、いえ! そういうわけではなくて……」

 ムラサキが小首を傾げて尋ねると、女性は慌てて両手を振り、早口で続ける。

「あれば試験を免除するだけでして、紹介状がなくても試験に合格すれば冒険者ギルドへの加盟は可能です」

 ムラサキは表情をすぐに戻し、淡々と返答した。

「では、紹介状はないので試験をお願いします」

 躊躇のないその即答ぶりに、俺は呆けたように口を開けてしまった。

 せめて内容を確認してからと思ったが、俺たちが通らないような試験を人族が設定するとも考えにくい。警戒しても仕方ないか、と肩から力を抜いた。


「それでは試験の内容をご説明します」

 受付の女性はテーブルの上に一枚の紙を広げた。

「この町から東に二時間ほど歩いた森で、回復薬の材料となる薬草を採取していただきます。対象は三種類。青花草、白根草、赤茎草です」

「それだけですか?」

 試験と聞いて身構えていただけに、あまりに単純な内容に思わず言葉が口から漏れた。草取りが試験になるとは予想していなかった。

 女性は一瞬眉をわずかに動かしたが、すぐに咳払いをし、表情を引き締めた。

「採取には二つの重要な点があります。一つは毒草との見分けです。特に青花草は、致死性の毒を持つ偽青花草と見分けがつきにくい。これを間違えると即座に失格です」

 彼女は積み重ねられた巻物から一本を取り出し、手慣れた手つきで広げた。

 そこには青花草と偽青花草の詳細な図が描かれており、その微妙な違いが克明に記されている。


「もう一つは採取方法です。根を傷つけたり、若くない茎を採ったりすれば、それだけ評価は下がります。薬草は生きています。扱い方一つで価値が大きく変わるのです」

 指先で植物の図を示しながら説明を続けた。

 なるほど。単なる草取りではなく、注意力や正確な判断力を試すことが目的のようだ。

「こちらの巻物を読んで、採取する薬草の特徴をよく確認してください。採取場所は、この地図に示された区画です」

 彼女は別の巻物を広げ、指先で地図を示した。

「森の入り口から東に二百歩ほど。目印の白布が木に結ばれています」


 俺は地図の赤い印が気になり指差した。

「この印は?」

「危険度の目安です。この森にはイノシシやオオカミなどの野生動物が生息しています。赤い印がある場所は特に注意が必要です」

 そこまで話すと、彼女は小声で念を押した。

「低い草むらや岩場には蛇も潜んでいますので、薬草を採取する際は足元にもご注意ください」

 蛇————

 そういえば、そんな生物がいると聞いたことがある。たしか、手足を持たず地を這いずる、いと高き神族の方々の対極にあるような生物だったか。

 本来であれば【浮遊】で空を歩ける俺達には出会う縁もない生物だが、こうして地に足をつけると、そんな生物まで気にしなくてはならなくなるとは。まったくもって地上は面倒事が多すぎる。


「そもそも蛇というのは何か危険なのでしょうか?」

「え?」

 俺と同じ疑問をもったらしくムラサキが尋ねると、彼女は意表を突かれたらしく告げる句を失い、視線を四方に彷徨わせた。

 失敗した。どうやらこれは人族にとって常識だったようだ。まあ、俺は同じことを思っただけで、失敗したのはムラサキだが。


 ややあって、気を取り直した女性が小さく咳払いをして説明を再開する。

「それはその……噛まれると痛いですし、蛇の種類によっては毒で死ぬ可能性もあるので」

 毒か……。神族の方々であれば一切無視できるが、俺達従者はそれなりに丈夫とはいえ、不死性があるわけではない。

 注意はしておいた方がよいようだ。

「なるほど。その蛇は駆除してもいいのですか?」

「蛇も含めた爬虫類や虫に関してはかまいません。ですが、他の動物を傷つけることは禁止です」

 ムラサキの質問に対し、彼女は予想だにしないことを言い出した。

「禁止?」

 俺は思わず眉をひそめた。蛇は駆除してもいいが、他の動物を駆除してはいけないという理由が分からない。

 赤い印がある場所はとくに注意が必要ということは、そこには危険な動物がいるのだろう。そうであれば排除してしまった方が早いはずである。それとも危険というのは魔物や魔族がいるということであって、動物とは分けられているのだろうか。


「はい」

 受付の女性ははっきりと頷き、テーブルの上で両手を組んだ。

「正確には、繁殖期以外なら許可を取れば狩ってもよいのですが、動物ごとに繁殖期が異なります。試験の難易度が動物の繁殖期で左右されるのは不公平なため、試験中は一律で禁止としています」

 俺は腕を組み、考え込んだ。

 正直、俺達は地上の動物について詳しいとは言えない。どの動物が狩ってよく、どれが禁止なのかを判断しながら動くのは面倒だ。地を這う蛇だけは対処してよくて、他はすべて禁止という明確なルールは、むしろありがたいと言えるかもしれない。

「制限時間は?」

 顔を上げて尋ねると、女性は窓の外を見やり、空の明るさを確認してから答えを口にした。


「日没までです。それまでに三種の薬草を持ち帰ってください。各五束ずつ。ただし――」

 一度言葉を切り、表情を引き締める。

「量を揃えることよりも、質を重視してください。これは試験ですが、同時に実際の依頼でもあるのです」

「実際の依頼……ということは?」

 その意図するところが分からず、俺は眉を上げた。

「はい、合格した暁には報酬もお支払いします。ただし……」

 彼女はちらりとムラサキを見てから、俺の顔に視線を戻した。


「お二人で一つの試験ということになりますが、よろしいですか?」

 俺は迷うこともなく頷いた。ムラサキも特に反対せず、小さく頷いている。

 受付の女性はそれを確認すると、説明に使った巻物を丁寧に巻き直し、整然と並べて差し出した。

「この巻物は、この建物の外へ持ち出すことはできません」

「つまり、覚えるべきことは覚えろということか?」

 眉を上げて確認すると、彼女ははっきりと頷いた。

「はい。これは腕試しではありません。冒険者には観察眼、判断力、そして協調性が必要です」

 彼女の声は穏やかだが芯があり、言葉一つ一つを明瞭に区切る。

「ギルドが求めているのは、派手な活躍ではなく、確実な仕事ができる人材なのです」

 その言葉を聞いて、視線を落とした。


 そういう基準で考えると、俺はあまり向いていない。ムラサキは俺よりは多少向いているかもしれないが……慎重さや判断力という点では微妙だ。

 俺達の中で最も適任なのは、間違いなくシチビだろう。あいつは派手さはないが、観察力や判断力、慎重さに関しては抜群だ。

 しかし、冒険者役をシチビに譲れば、必然的に俺が留守番ということになる。フィルダ様に誇れない仕事など、絶対に受け入れられない。

 そう考えた瞬間、胸の中で小さな炎が燃え上がった。

 向いていないかもしれないが、むしろそれだからこそ、絶好の機会だ。拳を握りしめ、自分を奮い立たせるように息を吐いた。

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