96話 8月2日 光の鎧
「ああ、ええと」
召喚された使徒が挨拶をするとあって、街で一番の酒場である金の鹿には大勢が集まっている。作戦に参加した者だけではなく、騒ぎを聞きつけた街の住民もたくさん。
「ハンスだ。よろしく。ベルリンという街から」
ちらほらと拍手が起きた。
召喚されたときに着ていたのであろうスーツが、細身にバッチリ似合っている男性だ。欧風の爬虫類系の顔立ちに、理知的な瞳が印象的である。
いいぞー、と反応が薄く、挨拶をした彼はバツの悪い笑顔を浮かべている。
彼は先月の終わりくらい、僕がうだうだとしている間に召喚されていたハンスさん。僕は初対面だが、すでに知っているひとは多いようで、あらためて感動はなさそうだ。
そして。
「ダリアナ・ライネスだ。スペインのトレドってところに住んでいた。
皆、助けてくれてありがとう!明日は全力でお返しするから、楽しみにしててよ!」
「ウオオオォォォォ!」
「イエエエェェェェイ!!」
荒くれる夏の熱波のような歓迎が起こった。
まあ仕方がない。
身体のラインが分かる白と青の裾の長いワンピース。それが包んでいる長身には無駄がないのに、女性らしさははっきりと主張している。胸元とか袖とかに荒々しさが出ていて、とても華がある。
こういう女性にこの街の男共は弱い。
自分たちが死に物狂いで助けた使徒がパワフルな美女とあって、酒場の盛り上がりは凄い。女性陣も黄色い声援を送っているし、彼女はもう住民の心を掴んでいるようだ。
隣に立つハンスさんの居心地が悪そう。もう引っ込みたそうにしている。
そして祝勝会が始まった。激しくコップをぶつけ合う皆を横目で見ながら、ほっと一息をつく。
あれから数日後、根絶作戦は終了した。
元々戦力的には十分だった。それに加え、ダリアさんを救出できたことでさらに士気が高まり、その勢いのまま新たに発生した黒い森を、この世から消し去った。
同時期にやっていた侵攻作戦も無事に終わったと聞く。ベテランの木こりはほとんど残っていたし、それに根絶に出遅れた領主が直轄の騎士団を派兵したらしい。
加えて、以前から商会の顔役をやっていた男性が、王都から戻ってきてくれたことで指揮系統が整備されたことも成功要因のひとつである。
余談だが、今回の報酬で僕の借金がなくなり、胸を撫でおろしていたのは秘密だ。
酒を呑み、飯を喰らい、無事を祝いながら夜は更けていく。
さて、明日は召喚祭だ。
今更ではあるが、この街にあるのは闘技場ではなく闘牛場と呼ばれている。
「き、緊張します……狗と牛だとどっちが強いですか?」
「数次第、というのが定評ですね。ただ、1対1であれば牛の方が強いと言われています」
十字架に向かい、一心に祈るダリアさんの背中を見ながらメサさんと話す。
闘牛場のバックヤードには、小ぢんまりとした教会のような場所がある。戦う前に祈りを捧げるための礼拝堂だ。
「うまくできるか……闘牛も1回見ておけば……ここはてっきり魔物と戦う場所だと」
「闘牛もとても人気で、チケットを取るのが大変なんですよ?とはいえ、魔物と戦う方が観客の受けが良いのは確かです」
「満席……お客さんいっぱいなんですね。あぁ……不安だあ」
月に一度、この街では、召喚された使徒を歓迎する大きなお祭りが催される。その"召喚祭"で、僕も何度か魔物と戦った。普段から狗を殺すのはやっているから、戦闘行為には気後れしなかったのだが。
本日の興行は、主役がダリアさんなのもあって、闘牛である。
「良ゥしッ!!」
大きな気合を発したのはダリアさんだ。彼女は晴れやかな表情で歩いてきて、呪いの鎧の胸当てを小突く。
「安心しな。アンタならやれるよ。それに今日の闘牛士は私だ」
薄暗い部屋でも分かるくらいに、ダリアさんの笑顔は力に満ちている。
「晴れ舞台だ」
頭が馬の男性。下半身が蜘蛛の女性。髪が蛇の女性。2本足で立つ山羊。
礼服を着こなした異形の者の影が、振り上げられた指揮棒の動きに合わせて、手に手に携えた楽器を構える。
ハンスさんは彼らを数秒見つめると、漆黒のタクトを振り始める。
太陽に熱された円形の闘牛場に、軽快なリズムの、しかし堂々たる音楽が響き始めた。
理想の音楽を奏でるレガロ、"29番の音楽隊"に彩られながら、熱い砂を踏みしめる。
「おいおいハンスの奴、ワーグナーかよ。入場はパソドブレが聴きたいもんだ」
リズムに合わせて歩いてしまいそうだな、と思っていると、町娘のような恰好で隣を歩くダリアさんの文句が聞こえた。
「聞いたことがあるような……2頭の……トンビ?」
「双頭の鷲の旗の下に、だよ」
「詳しいんですね」
「大したことないよ、音楽が好きってだけ」
黄色い甲冑を着た騎士が先頭を歩き、僕たちは彼の後ろを進んでいる。円形の観客席に沿うように歩き、熱烈な拍手で迎えてくれる街の人々に姿を見せて、入場行進は終わった。
扉が開くと、真っ黒い巨体が飛び出した。前を向いた2本の立派な角を左右に振りながら、牡牛は誰もいない闘牛場を走り回っている。
その足取りからは、筋繊維の1本1本まで生気が漲っているのが感じられるようだ。魔物よりも化け物っぽい。
「いいねえ。デカい。700㎏超えてるかも」
「今日はやめときましょうか」
「大丈夫だって。不死身なんだろ?」
「だからってね……」
それぞれ旗を手にした3人の騎士が入場する。
騎馬が牡牛の傍を掠めると、誘われた牡牛は興奮して馬へ突進する。騎士たちは慣れた様子で手綱を操って突進を躱し続けていた。
3人が代わる代わる牛を誘い、退けると、その度に観客はわっ、と盛り上がる。
「やっぱり騎馬闘牛か。これはこれで面白い」
「普通の闘牛とは違うんですか?」
「ああ。助手が徒歩で牛を走らせるのが私たちのやり方。こんなピンクの布でね」
ダリアさんは才能を発現させた。
黒い枝葉が手から暗幕のように広がり、まとまると、表がピンク裏地が黄色のケープが現れる。
「闘牛ってさ、昔は公開軍事訓練とか、屠畜場の見世物とか、あとは地域の祭りだったりした。その時代は形式ばってなくてさ、色々と決まりごとができたのは、ここ200年くらいらしいよ」
「へえ」
「今、私が見てるのは、もっと根源的な闘牛なのかもね。興味深い」
ダリアさんは喋っている間、一度も僕を見なかった。眼差しは牡牛を捉え続けていて、こちらにまで集中力が伝わってくる。
「あ、この曲も聞いたことある」
「ウィリアム・テルか、悪くない」
ファンファーレに合わせて3人の騎士が退場すると、入れ替わりに槍を持ち黄色い甲冑を着る騎士が現れた。馬も黄色い鎖帷子を装備し、前の3騎士より装飾的だ。
騎士は馬をこちらへ向かわせてきて目の前で兜を脱ぐ。
「使徒様!ご機嫌よう!」
「あれ?確か……ポーさん?」
以前、フベルトさんの送還祭で戦った、軽い雰囲気を纏った騎士だ。
「そうです!今度はカッコイイとこ見せますよ!」
ポーさんは脱いだ兜をダリアさんへと渡した。彼女は笑顔を浮かべて、
「スエルテ!」
と声をかける。
そして黄色い騎士は闘牛場の中央へと向かい、
「街の者と共に!この牛を!ダリア様へ捧げん!」
ポーさんの声を合図にするように、会場が一体となってヴォルテージを上げた。
「さ。いよいよ槍士の出番だ」
馬が駆けた。
カーブしながら牡牛へと向かい、その姿を牡牛は見ている。やがて二者の距離が詰まり、ポーさんは槍先で牡牛の皮膚を引っかいた。
当然のように牡牛はポーさんを敵と見定めて猛然と走り始め、ひとりの騎士と1頭の牡牛が危なげな並走を始める。
「あの騎士、うまく牛を走らせてる。やるねえ」
「槍で引っかいたのは挑発ですか」
途中で牡牛が立ち止まる。馬はそのまま走って向きを変え、牡牛へと駆けて――
重なる一瞬、ポーさんの鋭い一突きが叩きこまれた。
蛇口を捻ったように血が流れる。
「おお」
牡牛は驚いた様子を見せながらも反撃に角を突き上げ、それをポーさんは避ける。
出血量には驚いたが牛の動きに翳りは見えない。
数合、騎士と牡牛の目を離せぬ戦いが繰り広げられ、ポーさんは拍手に送られながら退場した。
むぅ。僕の出番だ。
銛を2本、持たされる。
「どうした?早く行きなさいよ。観客が待ってる」
何度かダリアさんの方へ振り向いたが、しっしっ、と手を振られてしまった。重い足取りで会場へと入ると、曲目が変わった。
この曲は、そう。天国と地獄だ。
黒い牡牛へと、近付くほどに分かってしまう。
槍による傷を肩甲骨の辺りに負っているが、その逞しさに衰えは見えず、それどころか強い敵意に炙られて力強さが増しているようだ。
こちらを向き、蹄で地面を踏み鳴らしている。こいつに銛の2本を3回、計6本を刺さねばならない。
魔物ではなく動物を傷つけられるだろうか、という道徳的な心配は消し飛んだ。
相対しているのは死だ、やらねばやられる。
足の止まった相手を見ながら近付き、間合いに入った。そんな時にふと思い出す。何か昔。牛にぐちゃぐちゃにされたような気がす――
一瞬、牡牛が動いたと思ったら、視界が明後日を向いている。
牡牛に撥ねられたのだ。
ああ、死んだな。これは、と。
バランスを崩した感覚を知覚する時には地面に転がっていて、700㎏超の巨体が追い打ちをかけてきた。
全身を滅多打ちにされる重い衝撃から逃れようと、何とか立ち上がるが結果は変わらず、軽快な笛と金管の音に合わせてボコボコに投げられる。
「ぐああぁぁあ」
今日の僕は玉入れの玉役、もしくはお手玉のお手玉役だ。
運動会、嫌いだったなあ。
「全然ダメでした」
結局1本も銛を刺すことはできなかった。やれたけどやらなかったではない。まったく不可能だった。
ダリアさんは呪いの鎧に傷がないことを確認すると、軽口を叩き始める。
「いいや最高だったよ。人生で一番笑ったかもしれない」
「……」
「観客も途中から大爆笑だったし」
"29番の音楽隊"が新たな曲を演奏し始めたのが聞こえる。
「お、エスパーニャ・カーニだ。やっと故郷の音楽が聴ける」
ダリアさんの持つケープ――ムレータ――に黒い枝葉が森のように広がり、次いで血液が満たすように赤く染まっていく。お膳立ては終わり。これからは闘牛士の出番だ。
「さ、助手さん。私から目、離すんじゃないよ」
ダリアさんは裾の長いワンピースと真っ赤なムレータをはためかせて、闘牛場の中央へ真っすぐ進む。
闘いに赴くような、闘牛場の砂の上にいるような恰好ではないが、堂々とした歩み。その姿で観客の視線を集めると、彼女は街の人々へと恭しく一礼して、
変身する。
全身の皮膚を突き破って黒い枝葉が生え、ダリアさんの身体を包む。
純白のYシャツ、赤いネクタイ、青地に金色の装飾が施されたヘソの上まで包むズボン、ズボンと同色のベストと上着、足元や関節を守る防具と、頭を覆う兜。
意志が宿ったかのような赤い布が振るわれると、その陰から煌びやかな闘牛士が現れた。
あれがダリアナ・ライネスが神から贈られた一揃いの才能。
"光の鎧"。
ダリアさんは兜を脱いで顔を晒すと、肩越しにそれを放り投げる。観客全員へ牛を捧げるという意味を持った所作。
観客の息を吞む音が聞こえた。
牡牛が突進するが、ふわ、と風を孕んだムレータを突くだけだ。
ダリアさんは胸を張る独特な立ち姿で牛に立ち向かう。誘い、牡牛が攻撃する直前にムレータを振って躱す。
躱す、という表現は誤りかもしれない。空を切り続ける2本の角を見ていると、まるで彼女が牡牛を操っているようだ。実際に、彼女の足はほとんど動いていない。
赤い華が開き、牡牛の角がそれを散らして、観客の掛け声が響き渡る。4回、5回と連続で牡牛をいなすと、どんどん観客との一体感も高まってくる。
あの牡牛はちょっと前まで僕をちり紙のように蹴散らしていた。半野生の動物と人間の間には歴然とした肉体の差がある。普通は1対1で相手をするなどありえない。
そんな不可能を、ダリアさんは布1枚で可能にしている。
いきり立った牡牛が猛然と突っ込み、それを捌いてダリアさんは距離を取った。牡牛に背を向けて観客席へと両手を広げる。
牡牛は左右を見たあとダリアさんのガラ空きの背中を見付け、頭を低くして突撃する。会場中があっ、と息を飲み――
また空振りした。間一髪のタイミング。だが余裕綽々と。
緊張感が走り、安心で弛緩して、思わず力ない拍手してしまう。危なかった、と思わせる動きだ。
まるで会場中さえもダリアさんに操られているかのような数十分間だった。
牡牛の足は止まり始めている。
頭の位置が下がり、流れる血は黒い身体をさらに黒く見せ、息が上がっている。牡牛はダリアさんから離れる動きを見せ始め、やがて壁際に追い詰められた。
闘牛において止めのことを、真実の瞬間と呼ぶのだという。
ダリアさんはムレータの陰から、今まで使っていなかったエストックを、その切っ先を牡牛へと向ける。
引き伸ばされた糸のような緊張感、そしてエストックが閃く。
頭の少し後ろ、たった数センチの頸椎の隙間に滑り込んだ刃は、牡牛の延髄を断ち切った。
数秒ふらつき、牡牛はどさりと倒れる。
音楽が戻ってくる。
そこでやっと、自分が固唾を飲んで見守っていたことを知った。
衝撃が胸に残っている。魔物ではない、人類の敵ではない動物の死を目の当たりにしたことが。か弱い人間が、布と剣で強靭な牛を殺したということが。
しん、と胸を打たれたような小さな衝撃を感じている。
見事で、残酷で、美しい瞬間だった。
死亡した牡牛は、砂煙を上げながら3頭の馬に引きずられて退場する。たった一突きで仕留めたダリアさんに、観客は惜しみない拍手を送っている。
その日、計6回の闘牛が行われ、ダリアさんは3回出場した。
そして、一度も、光の鎧に砂がつくことはなかった。