95話 スター・シェル
緊張感を保ちながらもこちらを捉える黒い双眸。日焼けしたラテン系の顔立ち。幅の広い笑顔をつくる薄い唇。黒と金のグラデーションに彩られた髪が広がる。
「ヘイトね。私はダリアナ・ライネス。ダリアでいいわ」
そう名乗る彼女に脚を斬られた狗が立ち上がり、振り向いた。ヤツはまだ殺る気だ。走って蹴り転がし、斧をフルスイングして頭部を砕く。
「へえ、やるう」
ダリアさんの口笛が聞こえる。
「ダリアさん」
「変な敬称付けんのやめてよ」
「ああ、と……」
既視感のあるやり取りだ。
それは置いておくとして、時間が惜しい。最も安全な手は何か頭を巡らす。
木こり達が伐採している方へ、こちらからも向かって合流するか。いや、黒い森と距離を取るために西へ移動するか。
「ここは危険です。離れましょう。歩けますか」
ああ、行けるよ、と答える視線が僕から外れた。こめかみに汗が伝っているのが見える。直感的に、彼女の足元を隠しているケープを指先で動かすと、左足の衣装が暗く滲んでいるのが見えた。
「それ、足」
「あの化け物にちょっとね。大丈夫さ」
無理だ。
脛当のおかげか出血量はそれほどでもないが、これでは歩けない。どうする。木こり達は全力でこちらへ向かってくれている。アントニオさん、ミックさん、イザベルさんもそうだ。無線機を取る。
「全体へ。こちらヘイト。対象を確保しました。しかし傷有り。オーヴァー」
「≪ヘイトへ。こちらレオン。花束は持ち帰れないか?オーヴァー≫」
「こちらヘイト。移動は不可。迎えを待ちます。オーヴァー」
「≪こちらレオン。了解した。踏ん張ってくれ。アウト≫」
「≪ヘイトへ。こちらシンイー。見守ってるよ≫」
上を向いて、旋回している鳳凰に手を振る。応えるように孔雀のような鳥がアクロバット飛行を行なう。
ダリアさんを少しでも黒い森から離しつつ、木こり達が道を拓くのを待つ。それまでは――
フォンファンが鳴いた。その方向を見ると、狗が1匹、森から出てくる。
足を引きずるマタドールの前へ出て、斧と魔剣を握りしめた。
10匹程度の狗が、聖域で転がっている。
「クソが。多いな」
フォンファンが鳴き、森から5匹の魔物が現れた。
「もう少し頑張ってねえ、私の騎士様、っと」
眉間に皺を寄せて歯を食いしばりながら、足を止血しているダリアさんには戦って欲しくない。しかし、敵の数は少ないものの継続的に襲ってくる。
嘆いていても仕方がない、狗の挙動に集中する。するとこちらへと駆け出す直前、群れが乱れた。出鼻を挫かれた連中は右往左往している間に1匹ずつ倒れていく。
「やあヘイト、待たせたね」
「うわっ」
背中から声をかけられて振り向くとイザベルさんが立っていた。土と血で汚れているが怪我はなさそうだ。
「良かった、イザベルさん。憑霊は?」
彼女は何かを足元へ何か放った。だらんと下顎が弛緩した青みがかった老人の生首。ウェンディゴだ。顔を見ると、イザベルさんはちょっとだけ笑って肩をすくめる。
「ワォ、グロいねえ……それ何?」
「使徒様、ご無事で何より。私はイザベル。これは貴女への贈り物です」
「良い。最高。アパートの何処に飾ろうかな」
イザベルさんの手を借りて立ち上がったダリアさんは、剣先でウェンディゴの首をつついている。
「あの、イザベルさん。ミックさんとアントニオさんは……」
聞くと、彼女は顎をしゃくる。その方向から、這う這うの体で森から出てくるふたりの姿があった。先程の狗を斃してくれたのは彼らだ。安心感が湧いてくる。無事だったのだ。
「揃ったね。どうするの?ヘイト。自己紹介とかした方が良い?」
「イザベルさん。自己紹介は後で。今は木こりがくるまでダリアさん――」
「敬称要らないって」
「………………ダリアを守ります」
駆けてくる狗に向かって地面を蹴り、右膝を開いた口に食らわせる。犬歯が飛んだ頭に両の刃を食い込ませ、ハンドルを回すように折る。頸が明後日を向いた狗は地に伏した。
次がくる。
ナイフを持った鎧の尻尾が迸り、1匹目の脚を斬り付けた。2匹目の胴に剣で傷を付け、3匹目の頭を斧で叩き割る。立ち上がりかけた1匹目を、尻尾はナイフで滅多刺しにしている。
2匹目に剣の切っ先を向ける。
魔剣、"乞患"で傷をつけられると、また斬られたくなると聞いた。それは魔物にもちゃんと効くようだ。
脇目も振らずこちらに走ってきた狗は、勝手に魔剣の刀身を飲み込み、少しもがくと、力尽きた。
もう1歩で夜になる。オレンジ色に染まっていた聖域を、夜と魔物が侵そうとしている。闇が伸ばしてくる指先をひとつひとつ潰していくような戦いが続いている。
フォンファンが知らせる敵襲の方へ向く。
僕が前衛。ミックさんは後方から援護射撃をしつつ別方向の敵を処理してくれる。イザベルさんは機動力を生かして遊撃している。
時折、間に合わない狗がダリアさんの方へ向かってしまうが、彼女は1匹くらいなら難なく斃すし、何よりアントニオさんが護衛に付いている。
木が倒れる音はすぐ近くまできている。もう少しなのに。
イザベルさんは仕留め損なうことが増え、ミックさんの銃弾も命中率が下がっている。アントニオさんは膝を地面に付いている。ダリアさんは自分の身を守るので精一杯か。朝早くから森に入り、日没まで戦っているのだ。
体力と視界の限界は、ひたひたと足音を立てながら近づいてきている。
「"最適化"!」
視界が白っぽく、少しだけ見やすくなる代わりに、両の手に持った武器が一段と重く感じる。ここで動けなければ僕は何のためにここにいるのか分からない。
狗の頸に斧を叩きつける。
敵の肉が固く感じている。
そして、夜の帳が降りた。
月明かりも頼りなく、レガロを使っても大して見えなくなっている。
こちらからは相手が見えないが、狗は音と臭いでこちらを確実に捉えるだろう。
判断を誤った。皆が集まった時点で黒い森から離れるべきだった。黒い後悔が血中を満たしていく。
駄目だ、せめて、皆だけでも逃がさなくては。
暗闇の中で息を切らしながら話す声が聞こえる。
「≪弓兵隊へ。こちらアーリマン……支援を求む。オーヴァー≫」
胸の辺り、そこに仕舞った無線機。ノイズ交じりに聞こえてきたのはローマンさんの声だ。
「≪アーリマンへ。こちら弓兵隊。了解した。地点は聖域で良いね?オーヴァー≫」
「≪弓兵隊。それでいい。オーヴァー≫」
「≪アーリマン。了解した。流星を撃つ。着弾に注意してくれ。アウト≫」
数秒後、目が眩んだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
頭上から堕ちる星に見惚れる。
フォンファンの鳴き声で我に返った。広い芝生のような聖域が、照明を点けた野球場のように明るくなっていた。近くで臭いを嗅いでいた狗へ走り、蹴りを入れて肋骨の隙間に刀身を沈める。
見える。
「≪全体へ……こちらアーリマン。照明弾だ……そう長くは保たない。決めるぞ≫」
同時に、黒い森から聖騎士たちの駆る白馬が躍り出た。馬上槍を持った半数は狗を襲撃し、もう半数はこちらへ走ってくる。
「お待たせしました!さあ!」
一際大きな馬に跨った軽装の聖騎士が手を差し伸べてくる。
ダリアさん、アントニオさん、イザベルさん、ミックさんたちもそれぞれ聖騎士たちの手を取り、騎士の後ろに跨るのを見届けて、
「ヘイト様!お早く!」
武器を納め、彼の手を握ると、力強く引き寄せられ、その勢いを借りて飛び乗る。
無線機のボタンを押した。
「こちらヘイト!撤退します!!」
次々と上がる星に導かれるように森を抜け、空き地を抜け、村へ辿り着き、馬から降りるなり両手を付いてしまった。他の4人も同じように、地べたに寝そべっている。
張り詰めた糸が切れたように力が抜けている。緊張感の落差に呆けていると、すぐにアイシャさんたち聖職者が駆け寄ってきた。
また彼女に心配をかけるのは良くない。動け、と身体に活を入れ、血と脂でドロドロの斧を杖にして立ち上がる。
「あ、アイシャさん。ただいまです」
アイシャさんは一瞬目を見開くと、今にも泣き出しそうに眉を八の字にしたまま、満面の笑みをつくった。
「はい。おかえりなさい」