87話 エピローグと
風が吹くと、木々が揺れる音が聞こえる。
雑草の生えた黒色の土を踏みしめながら、控えめな石造りの建物へと向かう。湿度が低いとは言え真夏だ。馬車に乗るだけだったのに汗ばんでいる。しかし不快さはない。
一応、司祭のおじいさんに声を掛けようと思ったのだが、留守のようだ。誰もいないのなら仕方がない。地区教会の敷地内にある小ぢんまりとした墓所へ向かう。
"我が胸の洞に、君の面影を"
と名前と共に彫り込まれた四角い洋墓。1ヵ月経ったので汚れているかもと掃除用品を持ってきたが、要らなかったようだ。墓石はよく手入れされていて花が沢山置かれている。先客は大勢いたようだ。それもそうか。
線香のようなものは無いので花束を持ってきた。
お供え物は思いつかなかったのでワインを持ってきた。
黒い森の木で作られたコップをふたつ置いて赤色のお酒を注ぐ。片方には並々と、もう片方には少なく。
「生きることはクソだね」
僕の顔を暗く映す赤い水面を見つめながら、そんなことを言う。普通なら嫌な顔をされそうな言葉だけど、彼なら笑ってくれる気がする。
「でも僕は、君と同じ道は選ばないことにしたよ」
軽い方を持って、重い方にコツンと当てる。
「生きるよ、死ぬまで。この呪いと一緒に」
自分でも何を呟いているか分からない。周りに誰もいないのだから、寝言も世迷言も構わないだろう。
コップに口を付け、ワインを口に含む。
渋くて、仄かに苦い。重たい果実の香りが満ちる。
「あくまで希望だけどねえ」
ワインボトルと飲み干したコップを並べて置いて立ち上がり、振り向いて歩き出す。置き去りはどうかとも思ったが、これだけひとが来ていれば誰かが片付けてくれるだろう。
武器の扱いを教えてやると言っていたが、結局その機会はなかったな。
――勝負だ。我が運命よ――
それならば、僕のところにも運命ってヤツが殺しに来て、必死に戦って力及ばずに息絶えたら、
そうしたら地獄に堕ちて彼に会い、照れ笑いを浮かべて負け惜しみを言い合う。
その時にでも教えてもらおう。
そんな妄想を風が攫って、ふと立ち止まり、振り向く。
「さよなら、ヒル」
返答はない。
前を向いて、来た道を戻る。
馬車に揺られて街に戻り、教会の中庭で薪を割っている。
最近は暇つぶしに村中の薪を割っていて、とうとう教会まで出張って来ていた。才能を使って肉体労働に勤しんでいるが、呪いの鎧を脱いだ今、使徒らしいことは何もしていない。
朝起きて、仕事をして、3食頂いて、寝る。
その繰り返しだ。悪くない。
「あのぉ」
「あ、こんにちは、アイシャさん……どうかしたんですか?」
斧を薪に食い込ませて汗を拭く。
困っています、と顔に書いてあるアイシャさんに声をかけられた。そういえばここのところ、徐々に彼女の眉尻が下がってきていたような。
「うぅん。そのですね、僭越ながら、お願いがあるのですが……あ、これ、ハーブティーです」
礼を言って受け取ったハーブティーに口を付けながら、アイシャさんの整った鼻筋を見つめて、次の台詞を待つ。
「えっと、それがですね?……新しく黒い森が発生しているのです」
驚いて思わず吹き出してしまった。
「た、大変じゃないですか」
「そ、そうなのです。しかも、発生した場所が……"聖域"の近くで。あと、使徒様が召喚される日取りが近づいていて……」
「まじですか」
もう唖然としてしまって飲めない。
つまり。つまりだ。
今まで魔物と無縁だった地域に新しく黒い森が発生してしまった。黒い森はみるみるうちに範囲を広げるから、遠からず使徒の召喚と送還が行われる聖域が飲み込まれてしまう。
加えて、その聖域に近々新たな使徒が召喚されると。
もし、使徒が召喚された時、魔物に囲まれていたら――
「すぐ何とかしないとまずいですよね?教会とか……国会は動いているんですよね?」
アイシャさんがさっと顔を背けた。
「その、聖騎士隊はもう向かっているんですよ?でも、根本的な解決になっていなくて。
しかもバースィル神父と領主であるセフェリノ様は仲が良いとは言えなくて」
後半はもう聞き取れないほどの囁き声だ。それでもぽつぽつと紡がれる情報を拾っていくと、
聖域は教会が管轄している場所だから、そもそも国会は手が出しにくい。だから教会側から協力を申し出なくては事態は動かないが、多分国会は――嫌がらせ込みで――税収とかの取引を教会に持ち掛けている。
国会としても黒い森を放っておくような危険は冒さないだろうが、本腰を入れるのをちょっと先にして、教会に対して有利に立ち回ろうとしているようだ。
「ちなみに、商会は?」
「商会は商人たちの集まりですので、顔役の方がいらっしゃればお話ができるのですが……」
「ああ」
シリノか。じゃあ駄目だ。
しかしなるほど、何となく話が見えてきた。
「派閥にとらわれず動ける使徒が戦えば!」
「いえ、違います」
違うのか。
まあ雑魚がひとり増えたところで状況は変わらない。
「これは私個人の勝手なお願いです。教会は関係ありません。他の使徒様方にご助力を頂けるように、ヘイト様からお話をしてくだされば、と。本当に、恐縮なのですが」
どうしよう。
協力するか。暇だし。
何人かの顔が思い浮かぶ。
戦ってくれそうなひとに話だけでもしてみようか。
「わ、分かりました。僕から他の皆に頼んでみます。
あんまり期待しないでくださいね?」
最低な発言である。
脅威に晒されているのは聖職者たちにとって非常に重要な場所だ。できるだけ早急な根絶やしが必要だというのに、大人の事情で状況が悪くなる一方であれば、気が気ではないだろう。
もっと頼もしい言葉をかけてあげるべきだったのだが、それでもアイシャさんの曇り切っていた表情から、晴れ間が見えた。
教会を出て、何処へ向かうか考える。まずは村に戻って使徒の皆に話をしようか。
呪いの鎧を纏っていない今、大量の魔物を前に僕は無力だ。戦場に出たらあっという間に狗のエサである。
使徒らしいこと、か。
「――よし」
身体は自然と走り出している。
目的地は街の中だ。この半年で、迷路のように入り組むこの街も少しは歩けるようになった。息を切らし、熱くなった体温を感じ、汗を流している。
まったく性懲りもない、自分は愚かな人間だと思う。
だが、ひとに頼んでおいて、僕だけ何もしないのはやっぱり嫌だから。
見覚えのある場所に辿り着いた。店先には"売り物に非ず"との看板が首からかけられている黒を基調にした鎧と、ひと振りの魔剣が飾ってある。
両膝に手を着き肩で息をする僕を見て、一瞬だけ武器屋のおじさんは訝しむと、何かを察してニヤリと笑った。
「にいちゃん。いいのか?この鎧、呪われてるぜ?」
ふふ、と荒い息を乱しながら笑う。
わざとらしいおじさんの言い方も可笑しいが、自分の馬鹿さ加減にも呆れる。
まったく馬鹿げた話である。
「構いません――」
この汗とも、熱さとも、またしばらくお別れだ。
「試着、できますか?」
呪いにより脱ぐことができず、また幻影に苦しめられるかもしれない。
だが、それと引き換えに不死身の身体が手に入る。
いずれまた、失敗するのだろう。
だが、もう諦めない。
僕は、いつかこの呪いと打ち解ける日が来るまで、
その時が来るまで生きる。
僕は呪いを解くため、そして他の使徒と共に皆を守るため、
武器を手に取り魔物と戦う道を選んだ。
下期へつづく