8話 1月5日 悪夢から覚めて
遠くから鳥のさえずりが、胡乱な意識を割いて聞こえてくる。
ベッドに仰向けで寝かされているようだ。
嫌な夢を見た。男に追われる曖昧な夢を。
ひどく怖かったのを覚えている。
重い瞼を開くと、輪郭のできた視界から、女性が見える。
初めて見る女性だ。
女性は僕が起きたことに気付き、部屋を出ていった。
何が、起こっていたか、何故、僕はここにいるのか。
思い――出せる。
大広場で、鎧を着て、走って。
――そして、化け物と、アイシャさんが。
血の気が失せた彼女の顔がフラッシュバックする。
寝惚けて曖昧な意識が、徐々にはっきりしてきた。
そうだ、アイシャさんは?
あの後、どうなった?
呻き声を出しながら、ベッドに手をつき、だるさの残る身体を起こす。
あの病室より簡素なつくりのベッドと、自分の手を覆う複雑なつくりの手甲が見える。
そこでやっと思い至るが、あの時の鎧は着たままだ。
僕がベッドから身体を起こすのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。
バースィルさんが人を先導し、部屋に入ってくる。
男性が一人と。先程部屋を出ていった女性。
あの女性は僕が目を覚ましたのを確認し、バースィルさんたちを呼びに行ったのか……
「良かった。目を覚まされたのですね」
バースィルさんがほっとした様子で言う。
「あ、アイシャさんは……」
魔物に噛まれて重傷を負っていた。血の気の失せた彼女の顔を思い出す。
シーツを握りしめ、恐怖に濡れながらも、つい聞いてしまう。
「ご心配なく、無事です」
その言葉を聞き、心底安心する。体中の力が抜けた。
そのまま倒れこまなかったのが不思議なくらいだ。
助かったのか、良かった、本当に――
「ヘイト様、起きてすぐのところ申し訳ございませんが、ご紹介させていただきたい方がおります。こちらはセフェリノ様。この街の領主様です。そしてこちらがメサ様、セフェリノ様の補佐官をなさっておられる方です」
「お初にお目にかかります、セフェリノです。ご気分はいかがですか?」
紹介されたセフェリノさんはそう挨拶する。この街の領主というと、偉い人だろうか。高価そうな服を着ている。
二人を呼びに行ったメサさんは無言で軽く礼をする。目上の人より目立たないようにしているようだ。
「佐々木竝人です。身体は……問題ありません」
嘘だ。
起き抜けだからか、嫌な夢を見たからか、アイシャさんが生きている安堵からか、
人前でなければベッドに突っ伏したいところだ。
身体はだるいうえに注意力が散漫になっている。
「ヘイト様、この度はこの街に住む人々を守っていただき、ありがとうございました。なんでも身を挺して魔物を倒されたとか。この街を代表して御礼を申し上げます。
挨拶に伺わせていていただいたのは、御礼ともうひとつ……あの時の状況を詳しく教えていただきたいのです」
なるほど、事情聴取か。
何故かバースィルさんが一瞬むっとした顔をする。
いつも微笑みをたたえている彼でも、あんな表情をするのだなと思った。
「セフェリノ様、ヘイト様はこの街に来たばかりで、魔物と戦い、お疲れの様子です。挨拶もすんだことですし、また日を改めていただけませんか。解呪が終わってからでも……」
「バースィル神父。お気持ちは分かりますが、重要なことです。ヘイト様のご記憶がはっきりしているうちに詳細を聞いておきたいのです」
「僕は大丈夫です。いつでも構いません。領主様もお忙しい身でしょうし……」
丁寧だが、有無を言わせないようなふたりの応酬にたまらずそう言ってしまう。
まあつらい状態でも「大丈夫」と言ってしまう自分の責任もあるのだが。
バースィルさんは諦めたように小さなため息をひとつ吐いた。
呆れられてしまっただろうか。
三人はそれぞれ近くにあった椅子に腰かけた。
「恐縮です。では早速ですが――」
セフェリノさんは本当に日を改める気はなさそうだ。
自分でいつでもと言っておきながら、
今からか……と思ってしまったのは当然口に出さない。
仕方なく僕はあの時のことを話し始めた――
横転する馬車。
化け物。
倒壊した屋台。
人々の混乱。
呪いの鎧。
頭のない御者。
思い出したそばからぽつぽつ話すものだから、脈絡もへったくりもない。
紙とペンのようなものを出して、メモを取っているメサさんが大変そうだ。
僕のせいだが――
ひと通り話すとセフェリノさんが質問をし始めた。
「先ず、犯人や怪しい人物を見ましたか?」
「……いえ。見なかったと、思います」
「頭の無い御者の遺体は、大広場で確認されました。ヘイト様が見た時には――馬車が横転する前から切断されていたのですね?」
「そう見えました。多分……見間違えたのかもしれませんが」
なにぶん一瞬のことだったため、記憶に自信がなく、曖昧な答え方しかできない。
記憶がはっきりしているうちに、と言ったセフェリノさんは賢明だったかもしれない。
「では次に――」
セフェリノさんが幾つか質問し、僕がそれに曖昧に答えるという場面が繰り返された。
要領を得ない答え方に、セフェリノさんが怒り出さないか不安だったが、彼は常に冷静で感情の揺らぎなどは見られなかった。
「最後に、その鎧はお幾らで購入されましたか?」
「ええと……これは試着で、買ってません。……金貨一枚で売っていて、割引するって……」
これまでと方向性が違う質問に戸惑ってしまった。彼が知りたいことは答えられただろうか。
というか試着だった。後でおじさんにレンタル料とか取られたらどうしよう。
「ご協力ありがとうございます。大変助かりました」
セフェリノさんは微笑んでそう質問を終わらせた。
本当に価値のある情報を提供できたのかは分からないが。
「ああ、それと――
お礼と言っては何ですが、解呪の代金は街から出させていただきます。それでは私どもは失礼致します。ヘイト様、ご自愛ください」
そう言ってセフェリノさんとメサさんは一礼とともに退出した。
バースィルさんとのやり取りといい、僕との会話といい、目的を達成するために無駄の無いひとだった。
この街の領主ということは貴族の一人だと思うが、権力だけの人ではなさそうだ。物腰こそ柔らかかったが、傑物というか、一筋縄ではいかないものを感じる。
「ヘイト様、申し訳ございません。セフェリノはああいう男なのです」
「あ、いえ、大丈夫です」
バースィルさんが渋面でそう謝った。
突然の謝罪もそうだが、故意なのか、領主に対して敬称が抜けていることに驚いてしまう。
バースィルさんは僕とセフェリノさんが話している間、ずっと眉根にシワを寄せていた。
国会は魔物との戦いに手を貸さないと言っていた、バースィルさんの説明を思い出す。
この街のトップと教会の神父とでは、立場や利害の上で摩擦のある部分があるのか。
二人の関係は良好ではないのかもしれない。
「……ヘイト様、貴方はその鎧が魔物の牙を通さない確信があったのですか?」
唐突な話題の転換に付いていけず、僕はつい
いいえ……と答えてしまう。
あの時はそんなことを確認してから動く余裕はなかった。
「では何故、魔物のいる方に向かって行ってしまわれたのですか?」
しまった……これはまずい。怒られる流れだ。
彼の声はこの前話した時より低く、そのトーンに委縮してしまう。
「それは――あの時は――アイシャさんが心配で――」
「それで御身に何かあったらどうするのです?私は危険な場所に近づかれないようお願いを申し上げたはずです――魔物からは逃げていただきたかった」
この世界に来た日に危険を避けるよう、確かに言われたばかりだ。
バースィルさんのこちらを真っすぐに見つめる視線に耐えきれず、僕は俯いて自分の腕を見る。
あの時魔物に噛まれた左腕――それを覆っている呪いの鎧――には傷ひとつ無い。
「でも、アイシャさんに何かあったら……」
「それでも神の使徒たる貴方が死ぬよりは良い」
「そんな――――」
ではどうすれば彼女を助けられたのか、やはり見捨てれば良かったのだろうか。
僕のような役立たずが、その命が、彼女より重いものだとはとても思えない。
「ヘイト様、ご自分を大切になさってください」
僕の身を案じるその言葉に、心のどこかが過剰反応して、ビクッと身体が震える。
「――出過ぎたことを申しました。お許しください」
沈黙の後、バースィルさんがまた謝ってしまう。
悔恨と葛藤が口を塞いで、僕は何も言うことが出来なかった。
いつの間にか夜になっていた。
ここは二階か、三階の部屋らしいが、ガラス窓から見える景色は黒一色で、見通すことはできない。
「明日の明朝に解呪の秘跡を行ないます。それまでお休みください」
と言ってバースィルさんは部屋を出ていった。
険悪な雰囲気は彼が出ていくまで消えることはなく、息が詰まるようだった。
途中でシスターのひとりが食事を運んで来てくれたが、空腹ではないことを伝えて持ち帰ってもらった。
気遣いを無為にするようで申し訳なかったが、空腹はまったく感じない。
それどころか、喉の渇きも、もよおすことも、夜だというのに眠気すらも一切ない。
食事を運んでくれたシスターに聞いたが、今は僕がこの世界に来てから二日目の夜らしい。
丸二日、僕は何も口にしていないことになる。
環境の変化とストレスで飢餓感がないだけか、それとも――
僕は顔を覆う面に手をかけて、引きはがそうとしてみる。
どれだけ力を入れても、面はびくともしなかった。顎の骨が先に壊れるかもしれない。
ひとしきり呪いの鎧を脱ごうとして格闘し、諦めた。
ベットが軋む音が妙に大きく感じて、辺りを静寂が包んでいるのに気づいた。いつの間にか夜になっていたようだ。教会の人々も眠りについたのだろうか。
僕はゆらゆらと燃える燭台のろうそくに近付く、もったいないと思い火を消そうとしたが、
ふっと息を吹いても、面に邪魔されて吐息はろうそくに届くことはなかった。
少しだけ迷い、昔何かで見た方法を試す。
人差し指と親指で火が灯ったろうそくの芯をつまむ。
ふっと火が消えた。火に触れるような消し方だから、やけどをするかもと思ったが、鎧は熱も通さないようだ。なにも感じない。
すべてのろうそくを消した。
すっかり暗くなった部屋に、薄い月明かりが射す。
バースィルさんは明日、解呪の秘跡というものをすると言っていた。
そうすれば呪いは解け、この鎧は脱げるのだろうか。
もし脱げなかったら――
「餓死かな――」
僕の独り言は、静寂に消えていった。