84話 6月27日 やがて水位は下がり
「入るぞ、ヘイト――寝ている、か」
暗闇のなかで教授の声が聞こえる。僕はベッドに横たわっているようだ。鎧を着た身体は動かせず、瞼は重くて音を聞くことしかできない。
「儂はそろそろ還る」
言葉はただの音でしかなくて、意味を理解するまでいかない。ただ空気を揺らして、右から左へ流れていく。
「ヒルが死ぬ前になぁ、儂のところへ来た。奴に預かったものを、お前に渡しておく」
教授は傍でそう言ってから、何かテーブルに置いたようだ。
「これも、お前と吞んでみたかったが……ここに置いていくぞ」
コト、とまた何かが置かれた。
「さよならだ、友よ」
木の床を歩く足音が遠ざかり、扉が閉まる音が聞こえる。
教授。
あなたにまだ礼を言っていない。
彼の背中へと伸ばした手を幻視する。重い瞼を開くとそれはやっぱり幻で、片腕で僕の首を持ち、吊り上げている髑髏が見える。不思議と負担は感じない。
鎧に生えた尻尾、その腕の骨格標本にも似た指先が伸びてきて、呪いの鎧の面をそっと外す。
尻尾は面を捨て、名残惜しそうにバイバイをしたように揺れ動くと、力なく垂れ下がった。
それをきっかけに鎧が脱げていく。
顎の骨を模したような頬当てがひとりでに外れる。延髄の布地に繋がるヘッドフォンに似た金具も、頭頂から滑り落ちる。
尻尾が縮み、背骨に似た留め具がファスナーを開けるように外れて、分厚い布地が弛緩して身体を離す。
はたから見たら、蛹の羽化を早送りしているように見えるだろうか。
身体から離れた呪いの鎧は、重力に従って地面に落ちた。
「これはオマケだ」
髑髏は低い声でそう言うと胸をめり込むほどに押す。ごふ、と汚い音と共に口から水が溢れた。激しく咳き込んだがすぐに空気が入ってきて、荒い息ができるようになる。
糸の切れた人形のように地面へ崩れ落ちた。手を離されたのだ、と地面に伏しながら思う。
衝撃に耐えて、たっぷり時間をかけて目を開くと、悪魔はいなくなっていた。
酷い体調だ。しんどい。
泉に沈んでいたずぶ濡れの身体は重くて寒いし、さっきまで息をしていなかったから苦しくて、頬と両手を地面に擦り付けているから痛い。
だが生きている。
黒い甲冑を着た男が歩み寄ってきて、膝を地面に着けて兜を外す。
汗に濡れたダークブロンドを真中分けにした、北欧系の見知った顔。
掠れた声が出た。
「……ごめんなさい」
「うん?」
「また、迷惑かけちゃって」
「そうだね。反省した?」
「はい……死ぬほど」
ふふっ、とフベルトさんは笑う。
彼の向こうに見えたのは、色とりどりの甲冑を身に纏った頼もしい騎兵たちの姿と、一際目立つ漆黒の巨馬。神馬の子の姿だ。
何だか安心してしまって、瞼が勝手に降りてくる。今までで最悪の戦いを終えた身体はぴくりとも動かない。
優し気な声が聞こえた。
「さ、帰ろうか、ヘイト。街へ」
それから数日が経った。
僕は今、街の中心にある大広場にいて、この辺りで一番の酒場である金の鹿の店先を眺めている。今月の侵攻作戦を終えた者たちが打ち上げをやっている姿が見えた。
使徒や木こり達の他にも、彼らの散財を狙った吟遊詩人や大道芸人が集まってきているから、バラエティ豊かな面々が店の外までごった返している。
届いてくる彼ら彼女らの楽しげな笑い声や音楽を聞きながら、僕は罰を受けていた。
真向かいに置かれた姿見に映っているのは、椅子に座らされ、長い頭髪をずぶ濡れにし、大きな布をマントのように巻かれた男子高校生。
下から睨め付けるような目付きの悪さ、血色の悪い痩せすぎの骨格、表情筋が凍結した無愛想な顔。それらを見られないために、見ないように、うだうだと伸ばしていた髪。散髪代をケチりたかったのもある。
自分の姿である。
「あの、アイシャさん。髪を切った経験がおありで?」
「ええ、シスター同士でよく切ります。ご安心を」
顔に貼り付けたような恐い笑顔で鋏と櫛を持つアイシャさんが鏡に映っている。怒っているのだ。僕がまた無茶苦茶したから。
そして周囲には、半年間鎧を着っぱなしだった使徒が顔を出しているとあって、コップを片手に持った見物人がいる。それも大勢。
「ヘイト様、それではお覚悟を」
「は、はい。一息にお願いします」
注文が取られることなく、髪に鋏が入れられる。
僕は公衆の面前で散髪されていた。
まあ、こんな見た目で宴会に出るわけにいかないというのは分かる。もう鎧は着ていないのだ。身だしなみに気を付けるのは仕方がないが、屋外でなくたって良い。
やはりこれは罰なのだ。
見世物になり、好奇の目を向けられ、髪を切られる。禊のため坊主にした、というのは日本でよく聞く話だ。
逃げることはせず、僕はされるがまま大人しくしている。拘束されているわけではないが、とても動いていい状況ではなかった。
恥ずかしい。消え去りたい。死にたい。
……一度身体を支配した情念はそうそう消えないものである。
アイシャさんが前に回り込み、覗き込むようにして前髪を切り始める。彼女の指が時折頬に触れて、綺麗な顔立ちがすぐ目の前に見え、反射的に瞼を閉じる。すると声がかけられた。
「……心配したんですよ」
「……すみません」
「もう無理はやめてくださいね」
「はい」
そんな感じでぼつぼつと話をしながら大人しくしていると、やがて作業の終わった気配を感じる。
俯いたまま目を開くと、身に纏っている布と足元に髪の毛が散らばっていた。頭を触ると軽くなった頭髪の感触がする。坊主は免れたようだ。
「素敵ですよ、ヘイト様」
鏡越しに見るアイシャさんは、長年の復讐を果たしたかのようにスッキリとした笑顔を浮かべている。
彼女に釣られて自分の顔に焦点を合わせる。見慣れた自分の顔、この世界で最も嫌いな男の顔。
頭髪は整ったが、不細工だ。見るに堪えない。
「どうです?なかなか上手なものでしょう?」
「はい……ありがとうございます」
それが今は困ったような、不慣れな微笑を浮かべていて、
こんな顔もできたのだな、と素直に思う。
「さあ、使徒の皆様がお待ちです。店内に参りましょうか」
アイシャさんは散らばった髪の毛をテキパキと片付けてそう言った。
ワインを一本持つアイシャさんを先導するように、人混みを掻き分けて店内を進むと、見知った顔が並ぶテーブルを見つけた。
マイケルさん。ローマンさん。アントニオさん。メサさん。そしてフベルトさん。何だか懐かしく感じる。少し前に顔を合わせたのに。
教会に強制入院された時にお見舞いにきてくれた。素顔を晒すのは2度目くらいだ。未だに気恥ずかしい。
微笑を浮かべたアントニオさんに、まあ座れ、と言われて素早く着席する。
「良いんですか?僕が参加して、迷惑かけたのに」
「良し、本物だ。じゃあ始めるぞ」
僕の問いは華麗にスルーされ、いつもの卑屈さで本人確認をされてしまった。
アイシャさんが持ってきたワインを各人のコップに注いでくれる。教授が僕の部屋に置いていった物のひとつがワインだった。僕の前にもコップが置かれる。
「えっと、僕は」
「呑まない?」
フベルトさんはどっちでも任せるような口調でそう聞いてくる。揺れる紅い水面を見つめる。
僕は鎧があるから飲み食いできな……
「あ」
鎧を着ている期間が長すぎた。人間は飲食をするという赤ちゃんでも分かることをすっかり忘れている。
「いや、あの、未成年だし」
「アイシャだって飲めるよ。私たちは使徒だし、少しなら大丈夫じゃないかな」
とローマンさんに言われる。
酒場の一角で激しい乾杯の音が聞こえて、皆がそちらに目を向ける。涙を流しながら酒をかっ食らっている木こり達がいた。彼らは黒い森から帰って来られなかった仲間たちを偲んでいる。
この宴会は戦勝会だが、喪った仲間たちとの思い出を自分に刻み付ける場でもある。
皆はテーブルに向き直り、ワインの入ったコップを持つ。
フベルトさんが無表情でコップを掲げた。
「無事に送還を迎えた教授と――」
気の抜けた雰囲気が引き締まる。
「勇敢に戦ったヒルに」
「教授とヒルに」
皆が口々に続ける。
1年間この街で働いてきた教授。そして、先月の侵攻作戦で逝ってしまったヒル。そうか、もう1ヶ月も経ってしまったのか。
倣う。
「教授とヒルに」
乾杯。
紅い色のワインが揺れている。勘治先生やヒルと一緒に飲めなかったお酒。教授が置いて行ったワイン。彼らの姿が脳裏に浮かぶ。それで、僕は何を思ったのか――
コップのフチに唇を付け、傾けて一気に流し込む。
ゴクッ、ゴクッと、喉を鳴らしながら独特な味の液体を流し込む。飲み込みきれないワインが口の端を伝う。
結局3分の1も飲めないでコップを置き、げほげほと未知の刺激に咳き込んだ。
「大丈夫かい?」
ローマンさんが苦笑いを浮かべながらこちらを見ている。
鼻腔がワインの薫りでいっぱいだ。酸っぱくて渋みのある後味が残り、奥歯がキシキシする。アルコールの所為か胃が燃えるように熱くなり、何だかクラクラする。
「だ、だいじょうぶ……」
何でこんなことをしようと思ったかは自分でも分からない。こういう時はこうするものだと思ったし、ここ最近は色々あり過ぎた。
一気飲みは破滅的だ。身体を傷つける行為で、前に誰かがやっているのを見て、何故あんなことをするのか疑問に思っていた。だが今は、その気持ちが分かる気がする。
身体がびっくりしているのが分かる。ちっとも笑えないのに、不思議と気分は悪くない。
皆こちらを見ている。数日前に溺死しかけた奴がやることではなかったか。話を逸らすために質問を飛ばした。
「僕は大丈夫です……それより今月の侵攻作戦はどうだったんですか」
赤い髪を耳にかけながらメサさんが答えてくれる。
「商会の顔役と自警団が不在の状況でしたが、成功と言ってよいでしょう。使徒の皆様が張り切ってくださったおかげです」
メサさんはローマンさんに視線を向け、彼が引き継いだ。
「シリノを殺害したと見られているファウストはまだ捕まっていない。それより指揮系統が混乱していたことの方が問題だったかな。
シリノの前に顔役をやっていた商人が王都にいるみたいで、今はその彼を呼び出している。教授がいればと思わずにはいられなかったよ」
アントニオは自警団に会いに行ったんだっけ?とローマンさんが聞き、
「ああ。自警団はチコが代表になって立ち直りかけてる。流石に侵攻作戦には参加できなかったけど。街と村の連中が協力してるから、時間が経てば大丈夫だ。あいつらはまた戦えるようになるさ」
「竝人佐々木捜索作戦もうまくいったしね」
フベルトさんがいたずらっぽくミックさんを見ながら言った。
ミックさんは肩をすくめて、
「犠牲者も出なかったしな、良い森林浴だった」
「言うねえ、フォース・リーコン殿は」
「トーニォがもっと働いてくれれば楽できたのにな」
ははは、とミックさんと言い合ったアントニオさんは笑っている。
「ちなみに、フェルナンドさんは……?」
ずっと気になっていることを聞いてみる。まだ彼の姿を見ていない。
アイシャさんが答えてくれた。
「教会にいるドミニク様のところへ行ったきり、誰も見ていないようです」
「そうですか……」
「まあ、大丈夫でしょう。強い人ですから」
メサさんがカシスのお酒を呑みながら素っ気なく言う。それからは雰囲気が緩まり、くだらない会話をしながら時間を過した。
酸味のあるパンをアヒージョに浸して口に運び、ワインをちびちびと呑む。
半年ぶりの、それも異国情緒漂う食事に舌鼓を打つ。何だかよく分からんがうまい。こんなことならもっと早く鎧を脱ぐべきだったかもしれない、と思えてくる。
やがて視界が揺れてくる。ああ、そうか、酔ってきているのだ。頬杖ついてテーブルの木目を見、会話がいい加減になってくる。強烈に眠い。
これが酔いというものか。
「ヘイトはもう限界かな」
「うー……ん」
目ざとく見つけたフベルトさんがそう言い、メサさんとふたりで僕を部屋まで連れられる。
2階にあるツインの部屋だ。フベルトさんは僕をうつ伏せで寝かせると、
「ヘイト、明日付き合ってよ」
「?……なんでしたっけ」
「俺の送還祭」
明日は、フベルトさんの送還祭。
「じゃあ、モーニングコールは任せたよ」
とフベルトさんはメサさんに言い残し、部屋を出て扉を閉めた。
ツインの部屋に、僕とメサさんがいる。
ここって僕の部屋だったっけ。
いや、別の宿屋である。
鎧は。
「ちょっと詰めてください」
と言って、僕を押しのけてベッドの端に座る。彼女の手が僕の後頭部を撫でている。あの時、飲んでいたカシスの香りがした。
「ヘイト様。こんな話を知っていますか?」
「なんですか……」
「この国では昔から、ごく稀にとても強い人が現れるそうです」
「つよい?」
何だか不思議な言い回しだ。
「ええ、戦場に出れば英雄と呼ばれ、礼拝堂では揺るがぬ信仰を持ち、商いではたちまち外国の言葉を操って利益を出す」
「すごい……」
この時には殆ど瞼が塞がっていて、爽やかな甘い香りと声だけが心地良く。
「何でも、そんな方々は、使徒様がこの世界に遺された御子様なのだとか」
自分の深い呼吸が聞こえる。メサさんの声は寝物語を聞かせるよう――
ふふっ、と静かな笑い声が遠くで――
「ヘイト様、おやすみなさい」
意識がすとんと落ちた。