83話 アイ・ヘイト・ユー
一拍。
誰かが手を打ち付ける音で目を覚ます。
不意に背筋に悪寒が走る。誰かがこちらを見ている。
後ろを振り返ると、居る。
夢で見るよりはっきりと見える、雨合羽を着た男。
ずぶ濡れの男が立っている。
恐る恐る手を伸ばし、目深に被ったフードに手をかけ、ゆっくりと捲る。確信している。僕はこの男を知っている。だが、それを確認することに強い躊躇いを感じている。
僕を呪った男の顔。
隠されていた顔が露になる。思わずフードから手を放して後ずさった。予想通りの顔だったから。
伸ばしっぱなしの黒髪。下からねめつけるような視線を放つ目はクマに囲まれている。痩せすぎの白い顔に、への字に結ばれた不健康な色の唇。
「僕」
と、勝手に言葉がこぼれた。
その顔は間違いようもなく、佐々木竝人のものだった。
当然だ。謎も不思議もなかった。
この半年。いや、僕が生きてきた17年間。
異世界で出会った使徒や街の人々も、元の世界の家族やケイちゃんたちも、僕のことを呪うようなひとたちじゃない。
そうだ、
僕を呪う人間なんて、
僕しかいない。
ずぶ濡れの男は射殺すような視線を向けたまま口を開く。
「生きたくないの」
宣言だったのか、疑問だったのか。
身体は自然と魔剣を鞘から引き抜かせる。
そうだ、僕はずうっと嫌だった。首を緩く締め付けるような環境も、せわしなく動く社会も、判った風な顔をする周りも、不条理な世界も。
そして、それを嫌がっていても、何も変えられない無能な自分自身を何より憎んでいた。
嫌な汗が滲む。気分が良くない。動揺している。目の前の男は敵だ。自分が憎む相手、自分を呪った人間。
雨合羽を着た男は――竝人はこちらを睨んでいる。
こいつを殺せば終わりだ。
心臓が早鐘を打っている。
魔剣を上段に構え、袈裟懸けに斬らんと力を籠める。半歩踏み込んで刃を振り下ろし――
湾曲した刃に阻まれた。
数秒、何が起きたのか分からず、呆然とする。
竝人の右手には木こり達が使うような、あの日使っていたような斧を持っていて、それで魔剣を防いでいた。
呆けて力が抜けた隙を狙ったかのように、竝人は斧を振るって魔剣を弾く。姿勢が大きく崩れてしまう。
竝人は左手に握った鉈で斬りかかってくる。左腕を覆っている呪いの鎧の手甲で防ごうとし、銀色の刃が装甲を削り、熱されたかのような痛みが走った。
「ッ!?」
痛みが続く左手を見ると鎧が割けて血が流れている。驚愕が収まるのを待たないのは当然と言わんばかりに、竝人はこちらに武器を向け、殺意を滾らせて、斬りかかってきた。
「死にたいんじゃないの」
「何で避けるの」
「壊れたいんでしょ」
「手伝うよ」
強い。何だこいつ。
始めこそ拮抗していたが、いつの間にか防戦一方になっている。
勘治先生やヒルと比べて戦闘技術は高くない。
劣勢の理由はこっちの剣が下手なことと、相手が斧の扱いに慣れていること。そしてヒルのように鉈を使うことで予想外の一撃を放ってくる。
そしてこちらの太刀筋は完全に読まれている。掠りもしない。
最悪なのが……
「ぐウッ……!」
捌ききれない鉈の一撃が、肩に食い込む。
今まで曲がりなりにも僕を守っていた鎧が機能していない。ひとつひとつは浅く済んでいるが、生傷が増えていく。ズキズキとした痛みが集中力を奪い、動きが自然と委縮してしまう。
斧で足払いをかけられた。鎧が欠け、切っ先がふくらはぎに食い込んで痛みが走る。膝をつくと、竝人は鉈を振り上げている。
硬い金属音。魔剣の刀身で何とか防いだ。
「諦めないんだ、あの時みたいに」
「……調子にのるなッ!」
完成度の低い、ヒルの猿真似で戦いやがって。
魔剣の大振りで鉈を弾く。竝人の手から刃が離れて宙を舞った。
「良し――痛ッ!!」
目が眩むような衝撃――
斧を両手で握る竝人、その刃の先は、自分の首筋。
刃先は数センチも首に食い込んだあと、無造作に引き抜かれた。
ムカつくほどに正確な斧の一撃。
咄嗟に左手で斧を弾いて離れた。だくだくと脈打つ血管を抑えて前を向くと、竝人は無表情で僕を見ている。
手で押さえた程度で血が止まるわけもなく、すぐに視界が歪む。意識が遠ざかる。立っていられずに膝を着いた。痺れと吐き気。
これで終わりなのか……
「弱いね、ヘイト」
「!!」
イライラで燻ぶったところへ燃料を突っ込まれたかのように火が点く。爆発したように跳ねる心臓が、全身に血流を駆け巡らせる。
クソが。
こんな奴に倒されて、罵倒されて、おめおめと寝ていられるか。
「才能まで使って……一体何がしたいんだよ」
魔剣を漆黒の地面に突き刺して立ち上がる。
「決まってるだろ――」
お前を、
「殺してやる」
相手の命を最短距離で奪わんと魔剣を振るう。恐れを怒りで塗りつぶした捨て身の連撃に、竝人は防御に専念している。
「僕が呪った。だから僕を殺せばもう呪いは追ってこない。あの時望んだものを、手に入れられる」
剣戟をやりとりする時折目が合う。
こちらを睨む視線に感情の動きはない。そのすまし顔がまた怒りに火をくべる。この世で一番嫌いな顔を見ながら戦うなんて。
激情が刃を走らせるが、そのどれもが斧に阻まれて空を裂く。
「僕が勝ったら、ヘイトには壊れてもらうよ」
ふざけるな。壊れるのはお前だ。お前を殺して僕は死ぬ、それで全部終わりだ。
そう思った時、竝人は舌打ちをした。
「僕は死にたくなかったのに、君が、ヘイトが、僕を殺した」
「死にたくなかった!?」
信じられない。何を言うかと思えば、くだらない。自分のどこを絞り出せばそんな言葉出てくるんだ。僕のような屑が、他の皆のように生きるなど恥知らずもいいとこだ。あそこで僕が死んだのは間違いなく正解だった。
「自分が人間の屑なのはもうしょうがないだろ」
竝人の眼が細められて殺意が溢れる。
「嫌われたくなかった」
無理だろ。不細工なんだから。
斧の振り下ろしを強引に左手で払うと、指が何本か落ちた。
「怒られたくなかった」
無理だろ。不器用なんだから。
カウンターで放った刺突が竝人の頬を裂く。
「ひとりで生きていきたかった」
無理だろ。無力なんだから。
下から掬い上げられた斧が顔面に直撃して左目が潰れる。
「恥をかきたくなかった」
無理だろ。間抜けなんだから。
魔剣の横薙ぎが竝人の肋骨に当たって滑る。
「周りに迷惑をかけたくなかった」
無理だろ。無能なんだから。
傷口から滴る血はすぐに止まって、そこからは黒い枝葉が生えている。
斧の大振りが魔剣を逸らす。竝人の口調に感情が乗ってくる。
「ああ、そうさ、僕は何もかも気に食わない!」
肉薄され膝を蹴られて態勢が崩れる。
「不条理な世界も、首を絞めるような環境も、判った風な顔する周りも、無能な自分も」
感情を込めた斧と声色が降り注ぐ。
「みんな嫌いだ。消えろ」
こいつの言いたいことが分かる。だからその続きを言おうとして言葉を放った。
「でも、世界は消えない。じゃあ――」
「でも、世界は消えない。じゃあ――」
声は重なった。だが、僕と竝人の想いは重ならなかったのだ。
「生きていくしかないだろ……」
「消えるしかないだろ……」
まざまざと。
思い知らされる。
僕は幸福だと思おうとしていた。家には両親がいて、1日3食食べることができて、着るものだってある。目立って侮られることもなくて、何とか「普通」の範疇のなかで暮していけている。
少しお金がなくて、家族仲が上手くいっていなくて、友達が少ないくらいの。大したことない不遇。
僕はそんな、とても不幸とは言えない幸運のなかにいて、死にたいと心から願った。
贅沢な悩みを抱えていたことに、自分が信じられず、恥と絶望に飲まれかけた寸前、
「自分の苦しみにすら自信がないのか」
――自分の不幸に自信を持ったらどうだ?ヘイト――
「!」
「毎日毎日毎日毎日、クソッタレの人生は少しずつ嫌で、何とか逃れたいと思ったのは……死にたいと思ったのは、それは誠実な願いじゃないのか。理由はどうだって、死ぬほど息苦しくなって、こんなにつらいなら、息なんてやめたいと思ったのは、伊達も酔狂も欠片もない本心だろうが」
ずぶ濡れの男は憎悪を込めてこちらを見ている。
「僕の呪いは」
僕の呪いは――
「幸せだった異世界も、不幸せだった世界も、生きたい竝人も、死にたいヘイトも、その悉くを憎んだことだ」
動悸がする。
竝人は斧を構える。
「役立たずでも無能でもいいじゃないか。ただ死にたくないって、それだけで生きてちゃダメなのかよ」
正体不明の感情に動かされて、僕は魔剣を構える。
随分と勢いのなくなった斧の一撃を、力の入らない刃で何とか受ける。僕も目の前の男も動く度に血が飛び散る。流された血は一緒くたになって溜まり、最早どっちがどっちの血なのか判別がつかない。
考えることもなく、感情に突き動かされるまま口走っていた。
「でも嫌なんだよ!役立たずは!」
怒りでも、憎しみでもない。
ちっぽけな反抗心のようなものが、子供のような反抗心が口を動かしている。
「自分が無価値なことを見せつけられるのはもう嫌なんだよ」
何もないまま生きられるほど、僕は強くない。
「じゃあ僕がやることは死ぬことじゃないだろッ」
「あれもやだ、これもやだって。それで死ぬってか。ぶっ壊れるまで生きる諦め方はできないんだな!」
もう、僕が叫んでいるのか、ずぶ濡れの男が叫んでいるのか分からない。
「ケイちゃんみたいに、安心できる場所に往くまで戦い続けることも」
「ヒルみたいに全力で運命と戦って、力尽きることを選べもしない!」
力を振り絞って魔剣を振るう。竝人も同じように斧を振るう。
「答えろよ、ヘイト。あの時決めたことは自己欺瞞だったのか」
「あの時、テアちゃんをぶっ殺したのは、あの子にかけられた呪いなのか」
「あの時、ラグナルさんにかけられた"親と話す"って約束は呪いなのか」
「あの時、勘治先生に言われたことは呪いなのか」
「ケイちゃんやヒルを友達だと思ったのは、彼らにかけられた呪いなのか」
竝人の斧が真っ二つに斬れる。
「彼らにそう言われたから仕方なく生きてるのか」
「どうなんだ。自分でそう決めたんじゃないのか」
「勝手に呪いを引き受けておいて、全部捨ててさようならなんて。僕を信じた彼らを、僕をひとりの人間として扱ってくれた彼らを」
「彼らを冒涜するのか、矮小な人間として呪いを引き受け続けるか、お前はもう決めたはずだ――」
「お前は、僕は――"憎悪の鎧"になるんだろうが!」
散々に斬り合って、お互い地に膝を着いている。立ち上がる力なぞとうに無い。
気付けば、僕は竝人の胸倉を掴み、魔剣の切っ先を向けていた。
呼吸が乱れる。
「殺りなよ」
「そこまでして死にたいなら」
こいつを殺せば終わりだ。
僕の手からするりと魔剣が零れ落ちる。
僕は、ずぶ濡れになった身体を、
芯まで冷え切った身体を、
生きたいと願う身体を、
抱き寄せる。