82話 急
びゅうびゅうと、不安を誘う風の音が聞こえる。
叩きつけるような雨が降っていて、家全体が震えている。
キャンプから帰ってきた時は何ともなかったのだが、その日の夜からぽつぽつと雨が降り始め、夜が明ける頃には大雨になっていた。雲と雨が日光を遮って、朝食の時は電灯を点けていた。
「この雨じゃ何処も行けないな」
居間の畳に座り、ケイちゃんとテレビを見ている。台風の規模は凄まじいもののようで、チャンネルを回してもその話題ばかりだ。画面には、堤防に激しく荒波がぶつかり、飛沫をあげる様子が映されている。
「遊びに来てもらったのに何だか悪いな」
「気にしないでよ。どうせウチにいても、同じだっただろうし」
天気の情報を見るに、僕の家がある方も雨が降っているのだろう。外出できないのは一緒だ。
「ねえ、慧」
居間を覗き込むように顔を見せた陽子さんが声をかけてくる。何だか不安そうな表情を浮かべている。
「どうかした?雨漏りか?」
「いや、それがねえ」
陽子さんの目線が泳ぎ、言葉を選ぶように逡巡したあと、
「蓮、見てない?」
そう言った。漫然とした雰囲気に不穏なものが混じる。
「は?朝メシの時はいただろ?――ヘイトは見てないか?」
「そういえば、朝ごはんの後は見てないような……」
「陽子!」
大輔さんの大声が響く。焦ったような声に全員がそちらを向いた。
「連の自転車がなくなってる。合羽も!」
7歳が乗るような小さな自転車だ。盗まれたとかは考えづらい。なくなっているということは、誰かが乗っていったということで――
「外出たってことか!?」
ケイちゃんの言葉を聞いて、ばっと窓の外を見る。
この雨のなかを。
居間に漂う空気に不和を感じて居心地が悪くなる。
「行ってくる!」
「おい、オジキ……」
家の中に蓮くんがいないと分かった大輔さんは、制止も聞かず居間を飛び出し車で探しに出てしまう。まだ小さな息子が台風のなか何処かへ行ってしまった。心配するなと言う方が無理だ。
「ああ、もう!当てあんのかよ!」
ケイちゃんは虚空に向かって文句を言う。
家の近くにいるのならいいが、自転車に乗れたとなると遠くへ行ってしまっているかもしれない。ある程度、蓮くんが行きそうな場所を予想できればいいが。
『5段階の警戒レベルのうち、レベル4の情報で、危険な場所から、全員避難するよう呼びかけています』
テレビの情報では、烏頭尾家のある地域は避難区域に入っていない。だが今後はどうなるか。
ふと、散らかしっぱなしのリュックサックが目に入った。青色の、特撮ヒーローか何かがプリントされたリュックサック。あれは蓮くんがキャンプに持って行って、帰ってきたあと中身をぶちまけ、片付けるように言われていた。
あの時、蓮くんは何かを探しているようで――
「あ」
「ヘイト?」
「蓮くん、ずっと何か探してた……」
河原で辺りを見回している姿と、その表情を思い出す。
『蓮、もう戻るぞ』
『けー兄……』
『何だよ』
『……えっと、やっぱり、何でもない』
『何でテンカラ持って来なかったんだ?』
『けー兄が作ったルアーで、イワナ釣るんだ』
『これねーけー兄ーが作ったのー』
『折角作った疑似餌なんだから失くすなよ?』
「まさか、いや」
「何か分かるのか?」
「想像だけど……ケイちゃんの作った疑似餌、落としてたのかも」
「キャンプ場……あのバカッ!」
推測に過ぎないが、蓮くんはキャンプに行ってルアーを落としてしまったのではないか。河原で気もそぞろだったのも、荷物をひっくり返して探していたのはそれが原因か。
本人も大事そうにしていたし、失くしたくはなかったのだろう。悪いことをしたと思っていて、それがバレたくないかのような表情をしていた。
歩いても行けるような距離のキャンプ場だし、後で探しに行こうと思っていたのかもしれない。だから大人しく帰ったのか。だが、川の傍に落としたなら。
雨が吹きすさぶ窓の外を見る。
もし流されたら二度と見つからないかもしれない。そう思い、探しに行ってしまった。
ケイちゃんは何も言わずに雨合羽を着ると、玄関の方へ向かって行く。顔色が悪くなった陽子さんに家の中をもう一度探すことと、雨合羽を借りることをお願いして、ケイちゃんを追いかける。
ケイちゃんは玄関でスニーカーの紐を結んでいる。焦りを感じているのか手元が狂っていて、それで追いついた。
「ヘイトは家にいてくれ」
とこちらを見ずに言う。
「僕も行くよ」
僕は雨合羽を羽織りながら、彼の前に立った。
鞭で打つかのような雨だ。フードの隙間から叩きつける雨粒が痛い。
傘など役に立たないだろう。もしかしたら近くにいるかもと、小さな影を探して辺りを見渡すが、質量を持った雨が景色さえも灰色に歪めている。
四方から風が唸っていて、大声を出さないと会話もままならない。
「伯父貴はもう車で探しに行ってる!徒歩になるぞ!」
「分かってる!」
近くを流れる川の様相は変転している。
水位は高くなり、数日前に見た清流は見る影もない。もし溺れたら――
何とかバーベキューをした河原まで来た、いるとしたらここかキャンプ場だが、蓮くんの姿も自転車もなかった。
「手分けしよう?河原の方、見てみる」
ケイちゃんは少しでも視界を確保しようと、はぎ取るようにフードを捲った。
そう、ケイちゃんはテンパっていた。彼の眼は、不安で一杯だった。
「分かった。俺はテント張ってた方探してみる」
こんな雨のなか、僕をひとりで川に行かせるようなこと、しない友達。
天蓋が決壊したかのような雨が降っている。
ケイちゃんと別れ、道路から河原に下りて砂利の上を歩く。
「連くん!」
息を切らして呼びかけるが返答はない。僕の声は雨にかき消されている。
それなのに、激しい水の流れが出す音ははっきりと聞こえる。
蓮くんが釣りをしていた辺りは水没している。流れる水は清流ではなく濁流だ。とてもじゃないが近づけない。
「何処かにいる!?」
単純に雨が強いのか、地面に当たった雨が弾けているのか、視界が悪い。
身体が怠く、酷く重い。靴や服が水を吸った所為か、風雨のなかの強行軍が体力を奪ったのか。
それとも――
「ヘイト!」
声が聞こえる。
顔を向けると、ケイちゃんと蓮くんのふたりが、こちらを見て叫んでいるのが見えた。
見つかったのか。ふたりは大丈夫そうだ。良かった。
それでスッ、と力が抜けてしまった。
「早く川から上がれ!!」
必死の叫びは何かの予兆のようで。
自分がどれだけ危険な場所にいるのか、ここで始めて気が付いた。馬鹿な話だ。僕も余裕がなかったのだろう。砂利の上を歩いていたはずなのに、足元を見ると、足首まで水に浸かっている。
水の中で何かが光ったような気がして、しゃがみ込み、石の隙間から拾い上げる。
塗装の剥げた、手作りのルアー。
そう。
今思えば、
逃げることはできたのだろう。
その時間は十分とは言えないが確かにあったのだ。
しかし、僕は川岸に向かうことなく、少しの間拾ったルアーを持ちながら上流を見つめていた。
「何してるッ!?ヘイト!!」
足が水に浸かっていて動けなかったのか、違う。
恐怖に足が竦んだのか、違う。
動く気がしなかったのか、それも違う気がする。
ただ頭をよぎったのだ。このままここにいれば、もしかして、と。
酷い疲労を感じる。立っているのが不思議に思えてくる。鉛が詰まったかのように重い頭は、昔のことを思い出している。回顧しているような状況ではないのに。
ストーブの灯にあたって、自分が凍っていると思ったこと。
雨のなか、破れた絵本を抱えて歩いたこと。
無垢な妹に怒鳴り声をあげたこと。
避難所ですら失ったこと。
あれから今まで、何ひとつ変わっていないこと。
こんなしみったれた人生も、このままここにいれば、
終わりにできるのか。
魔が差したのだ。
悪魔に笑われたのだ。
きっと、そうに違いない。
暴れ川。
鉄砲水。
思い出した。
全て。
奔ってくる。泥色の壁。
迷ったことは、決断と同義だった。
自分はあれに呑まれて死ぬ。
それは本当に見えていたのか、それとも幻視だったのか。
濁流の壁に、茶色の壁に、映る。
一瞬のような、永遠のような。
ずぶ濡れの男が立っている。
ずぶ濡れの男がこちらを視ている。
汚れたレインコートは男のシルエットを曖昧にし、
目深にかぶったフードはその表情を隠しているが、
憎しみを込めた瞳だけは、
射殺すような視線だけは、
明瞭に感じ取ることができる。
男はこちらに一歩踏み出す。
思わず逃げ出そうとするも身体は動かず、
背を向けることも、
瞼を閉じることもできない。
男が一歩一歩近づく度に、
恐怖で身体が凍りつく。
怖い、
怖い、
来るな。
やがて男はこちらの目前に立つ。
泥に塗れた顔が視界を埋める。
男の開いた口内から泥が溢れ、
「呪ってやる」と、
そう言った。