81話 呼び水
うっとおしい陽光のなか、通学路を歩いている。
その時、居眠り運転をキメたトラックがばーっと走ってきて、僕を轢き殺した。無念。
いや、くだらない犬なんかを助けてもいいな。大型犬は重そうだから、小型犬で。
僕はチワワだかトイプードルだかを助けて、哀れトラックに轢き殺された。
父と母はひとしきり悲しんだあと、妹の世話があるので、1年……いや、半年くらいでけろっと立ち直り、元の生活を送る。
誰も彼もが僕のことをすっかり忘れて、世界はちょっとだけ良くなりました。めでたしめでたし。
と、そんな益体もない妄想に耽っているうちに、今日も高校に到着してしまった。早すぎるくらいの登校だから、他の生徒の姿はまばらだ。でかくて中身のない校舎を前にして、ため息をひとつ吐いてから靴箱へ向かう。
教室には直行せず、図書室へと向かう。
この時間だと確実にクラスメートはいない。いたとしても、ひとりかふたりだ。僕がぽつんと座っていたら目立つ。
だから席が半分埋まるくらいの時間まで図書室に籠もる。いつものことだ。
窓の外には燦燦と太陽が輝いていて、セミの鳴き声がどこからか届いている。瞼を突き刺すような光と、騒がしいだみ声にげんなりする。
最近、めっきり眠れなくなった。そのくせ朝起きようとすると身体が怠くてしょうがない。かと言って、授業中でも居眠りなどできない。小心者だから、というのもあるが、単純に眠れない。
隣の席の男子が世界史の分厚い教科書を楯にしながらぐっすり寝ていて、ちょっとうらやましい。
「じゃあ、カノッサの屈辱のとこ……佐々木、教科書読んでー」
は、はい……とささやくような返事をする。
「え、えっと……『ローマ教皇とハインリヒ4世が聖職者の叙任権を巡って対立し、教皇側が勝利した。1077年、破門されたハインリヒ4世は教皇に許しを求め、北イタリアのカノッサ城外で雪中に3日間佇み、謝罪した』」
「よし、ここテストに出すからな……あと佐々木、当てられたら返事しろよー」
「は、はい」
したのに。
声が小さかったのだろう。
先生は気に留めず授業を続ける。別に怒っているわけではない。体育会系で、礼儀とかがきっちりしているだけだ。
ちょっとした注意だ。他のクラスメートもよく言われているし、教室に変化がないのは分かっている。だが、誰かがこっちを見て笑っている気がして気恥ずかしくなる。
外を睨むと、窓に自分の顔が映ったので顔を背けた。
古いアパートの扉を開け、脱いだローファーを揃えていると、
「ただいま……あれ?」
狭い玄関に大きめの靴が揃えて置いてある。僕のではないし、父の趣味でもない、使い込まれたスニーカー。
リビングの方向からは母と、聞き覚えのない若い男の笑い声が聞こえる。
誰か来ている?お客さんは珍しいな。
気後れしつつ、自分の家の玄関に突っ立っていてもしょうがないので、重い足を進める。
覗き込むようにリビングを見ると、
「お!久しぶりい。元気だったか?」
「……!ケイちゃん?」
阿呆みたいに、見慣れた部屋にいる見慣れない男の子を見る。
いや、もう男の子とは言えない。呆気にとられるくらいに見違えた。
同じような身長だったのが僕よりすっかり高くなっている。どこかの高校の制服に包まれている細身の体格は、スポーツマン然としていて健康的だ。
「本当に久しぶり……」
ぼけっと予想外のお客さんの顔を見る。5年ぶりくらいだろうか。
「ああ。変わんねえな、ヘイトは」
「ははっ。ケイちゃんは、何だか変わったね」
そんなことねえだろ、と幼少の頃に見た面影を残す笑顔で言う。
少し雰囲気が柔らかくなっている。丸くなった、というか。狂犬が飼い犬になった、というか。触れたら牙を立てられるような凶暴さは消え去っていた。
「慧くんね。竝人のこと憶えててくれて――」
母が笑顔を浮かべて楽しそうに説明してくれる。何かの偶然かと思ったがそうではなく、彼は用事があってわざわざ会いに来てくれた。
用事というのは、
「もうすぐ夏休みだろ?ちょっと遠いけど、遊びにこないか?」
というものだった。
ケイちゃんが今暮らしているお宅へ遊びのお誘い。期間は1週間を考えているらしい。そんな長い期間お世話になっていいものだろうか?それに、
「1週間ホテル暮らしするお金、ないよ?」
すっとぼけてそう言う。
本当は一泊だって不可能だ。が、母の前でそれを言うわけにはいかない。
「話聞いてたか?ウチだって言ってんだろ。あと金の心配すんな。俺も金ねえし」
ケイちゃんは短めの茶髪が生えた後頭部をボリボリ掻いて、
「クソ田舎の農家だから食い物には困らないしな……野菜ばっかだけど。まあ、替えのパンツだけ持ってくればいい」
そういうことで、僕はケイちゃんの家にお世話になることになった。
空白だった1か月近い夏休みの期間に、降って湧いた予定。
何をするにも無気力だったはずなのに、何を持っていけばいいのだろう、と前向きに考えている。
いつも感じていた億劫さは、この時ばかりは鳴りを潜めていた。
抜けるような青空を見ながら、電車を乗り換えること3回。
乗り換えの度に乗客の姿は少なくなり、編成車両の数も少なくなる。そして、窓の外を流れていく風景には植物の緑が多くなる。自分が住んでいるところも大したことない地方都市だが、どんどん田舎に進んでいると感じる。
暇つぶしにと持ってきた小説には手をつけられなかった。電車を乗り間違えないようにメモとにらめっこして、アナウンスに集中していたからだ。
やっと目的の駅に着いた。ホームに降りて、特大のため息を漏らす。
駅舎の規模が大きいわりに無人駅だ。ここで本当に合っているのか、何だか心配になってくる。
駅の外に出て、椅子に座って退屈そうにアイスを食べている青年を見つけて、ちょっと安心した。白いTシャツの短い袖を捲って、黒いハーフパンツを履いている。バスケットボールでも持っていたら良く似合うだろう。
「よ、遠かっただろ?ご苦労さん」
「うん。疲れた……あ、待った?」
「いや、今来たとこ、って……ありがちな会話させんな」
くっくっ、とケイちゃんは笑う。不思議なものだ。僕の家に来たとき、彼は約束するだけして帰ってしまったから、まともな会話をするのは久しぶりだ。もうちょっと他人行儀になると思ったのに。
あの頃と変わらない。
ケイちゃんと他愛のない近況報告をしながら歩く。
「あれから何も変わらないかな。この間17歳になったくらい」
「年は誰でもとるだろ。俺も17だ」
「そうだよね。今は誰と住んでるの?」
「まあ4人家族だ。頑固な伯父貴と、ケチな叔母さん。あと蓮って小学生」
今の彼の家――烏頭尾家に住むひとは、昔気質の伯父さん、倹約家の叔母さん、ふたりの子供である蓮くん。
オジキにはよく殴られる。金の使わない遊びを憶えろってのが叔母さんの口癖。蓮は山猿みたいだ。と、うっとおし気な口調と裏腹に、家族のことを話すケイちゃんは楽しそうに見える。
「そうなんだ。良かった」
「ヘイト、話聞いてた?」
少し汗ばむくらい歩き烏頭尾家に着いた。
金属のサッシ、摺りガラスの、昔ながらの引き戸。ケイちゃんはそれとガタガタと格闘して開ける。
「ただいま!」
古い大きな平屋だ。不快さのない古い木の匂いがする。ザ・田舎のお宅という感じで、少し興味が湧いてきた。
「けー兄ーおかえりー」
すぐに大声を出しながら少年が駆け寄ってきた。靴を脱ごうとするケイちゃんの邪魔をするように足へとまとわりついて、ケイちゃんは面倒くさそうに少年の頭をぐしゃぐしゃと撫でている。
「はいはいただいま。こいつはヘイトだ、挨拶しな」
「あ、よろしく。ヘイトです」
「はじめまして!烏頭尾蓮です!」
「蓮は何歳だ?」
「7歳!」
「あ、僕は17歳です」
蓮くんは全力の笑顔で自分の年齢を教えてくれる。妹のふたつ下か。
これねーけー兄ーが作ったのー、と何かを見せてくる。針の付いた魚の模型、だろうか。
「折角作った疑似餌なんだから失くすなよ?あ、ヘイトにも妹いたよな?」
「あ、うん」
「へー兄ー、妹可愛い?」
「ええ、まあ、可愛いですよ、座敷童みたいで」
「それ褒めてんの?」
玄関先で間抜けな会話をしていると、
「ああ!あなたが竝人くん?」
エプロンを着けた30代くらいのご婦人が、人懐っこい笑みを浮かべながら歩いてきた。
叔母さんだ、とケイちゃんが言う。
「は、はい。佐々木竝人です。この度はお招きいただきありがとうございます」
「陽子です。よろしくねえ」
「陽子は何歳だ?」
「ぶっ飛ばされたいの?」
仲が良い。
「もうちょっと礼儀正しくなればねえ、あんた竝人くんを見習ったら?」
と言われたケイちゃんは鼻で笑う。
ああ、これが普通の家族の空気感なのか。
ケイちゃんは5、6年前にこの家族の一員になった。しかしそれを感じさせない。気安い仲、気の置けない関係。お互いにどこか距離をつくっていて、顔色を見ているような佐々木家とは大違い。
自分の靴を揃えながら、横目で脱ぎ捨てられたケイちゃんと蓮くんの靴を見た。
『日本の南の海上にある熱帯低気圧が発達中です。気象庁は、この熱帯低気圧が発達して台風になると発表しました。今後、東日本にかなり接近する恐れがあります――』
「台風が来る前で良かったなあ」
「雨合羽持ってきたけど、使わなさそうねえ」
大輔さんと陽子さんが、車のラジオを聞いてそんな会話をしている。ハンドルを握っているのは、40代くらいで、ケイちゃんより全体的に二回りくらい体格の大きな、彼の伯父さんだ。
僕たち全員を乗せたワンボックスカーを運転してくれている。
「竝人くん。お茶とか、好きに飲んでくれよ」
「あ、はい。と、遠いんですか?」
「いや、ぜんぜん。すぐだ」
聞けば、目的地であるキャンプ場までは車で数分だそうだ。徒歩でも行ける距離だが、わざわざ車を出してくれたのは荷物を運ぶため。
聞いたとおりすぐに到着した。川沿いに僕たちと荷物を降ろした大輔さんは、車を置いてくると言ってどこかへ向かった。
意味もなく伸びをする。
照りつけるような陽光、鳥の歌声、濃密な木々の香りがする。
今日もいい天気で、遠くの青い空に入道雲が良く映えている。真夏のこんな日はうだるような暑さになりそうだが、川が近いからか、木陰にいるからか、思っていたよりも過ごしやすい。
「ここでキャンプするの?」
「いや、バーベキューだけ。砂利が多くて寝心地が最悪だから、テントを張るのは近くのキャンプ場だ」
「それに暴れ川だしねえ」
質問に答えながら、ケイちゃんと陽子さんは手際よくバーベキューセットを展開していく。
蓮くんは真っ先に釣竿を取り出した。ケイちゃんは準備の手を止めて蓮くんに虫よけスプレーを吹き付ける。
「何でテンカラ持って来なかったんだ?」
「けー兄が作ったルアーで、イワナ釣るんだ」
「釣りは後でって言ったろ。あと、もっと下流の方に行かねえと釣れないからな」
「なんでー?」
「ガキ共がじゃぶじゃぶ遊ぶから、逃げちまうの」
「えー」
魚が釣れない、と言われながらも、蓮くんは諦めきれないのか竿を持って清流の方へ向かっていった。
「だから釣れねえっての。まあいいや。俺たちは薪割りでもやろう」
「うん……いいの?蓮くん放っておいて。危ないんじゃ」
「大丈夫大丈夫。あいつ山猿だから。流されないだろ」
猿も木から落ちるし、河童は川で流される。
猿は温泉に浸かるが、水のなかは泳げるのだろうか。猿が川に落ちたら順当に溺れるような気がする。
ケイちゃんに教わりながら斧と鉈で薪を割り、火を熾してコンロへと移す。合流した大輔さんは串打ち奉行と化し、続々と食べ物を拵えていた。
丁度お昼になる頃には串焼きに火が通り、見た目と薫りからすでに美味しいと主張している肉を口に運ぶ。
「竝人くん、うまいか?」
「あ、はい。味がします」
「あっはっは。そりゃ良かった」
「とぼけた会話だなあ」
僕と大輔さんの胡乱な会話を聞いてケイちゃんは呆れている。
魚を釣って、串で焼いて食べるという野望を持っていた蓮くんは、憮然とした顔で肉を食べていた。
「蓮、もう戻るぞ」
「けー兄……」
「何だよ」
「……えっと、やっぱり、何でもない」
落ち着かない様子の蓮くんは辺りをキョロキョロしている。
午後の3時くらいになっただろうか。
まだまだ日は高いが、少しだけやる予定だった渓流釣りを取り止めて、キャンプ場に移動しなければならない。大輔さんがビールを飲みすぎてフラフラしているからだ。
「これじゃあオジキは役に立たねえなあ」とケイちゃんが呟いている。テントを張るための作業員がひとり減ってしまったわけで、その分時間はかかってしまう。
後は、大輔さんと荷物をキャンプ場へ運び、ケイちゃんに教えてもらいながら慣れない手付きで寝床を設営して、夕飯をいただいて寝袋に収まった。
そんな行き当たりばったりで雑な休暇を、好意的に受け入れるくらいには、僕はこのキャンプを楽しんでいた。
流されるように過ごした1日はとても充実していて、薪割りやバーベキューを振り返っていると、うつらうつらとしてきて、いつの間にか――――――
「うらやましいなあ」と、
夕焼けに染まる通学路で、捨て犬のような少年が、狂犬のような少年に向かってそう言う、
そんな夢を見ていた。