77話 回顧
子供の頃の話だ。
佐々木家は4人家族。頑張り屋の父と、優しい母、明るい妹、あと僕。それだけ。
母は専業主婦で僕の面倒をよく見てくれていた。
ふたりでいるときに母から文句を聞いたことはない。父が仕事に行っている間、ひとりで家事と育児をやっていた。僕が手伝いをし始めたのは、数少ないおもちゃで遊ぶより、一緒にネギだのを刻んだりするのが好きだったから。
父は真面目なひとだ。休日以外で会社を休んでいる所は見たことがない。しかし、やっている仕事は身体が資本で、働いた分だけお金が貰える契約だったようだ。
ある時から、父と母はピリピリしていたように思う。
今思えば原因は、妹を授かったのと父が体調を崩したタイミングが重なってしまったこと。
発覚した時に限って言えば、父も母もふたり目の子供ができることをとても喜んでいたのを憶えている。僕は妹ができることより、喜ぶふたりを見ることができて嬉しかった。
父は母と僕を養うだけでも精一杯だったのだろうが、母のお腹に新しい生命が宿ったことにより頑張りすぎてしまい、体を壊してしまった。仕事を辞めることはなかったが、長い時間働けなくなった。
そんな中でも妹が無事産まれて、当然、佐々木家に入ってくるお金は減り、なんだかんだとお金は出ていく。
ある時から、食事がわずかに少なくなった。そのことで父と母はあまりに申し訳なさそうにするものだから、僕は決まって「大丈夫、美味しいよ」と言っていた。
そのあたりから深く考えずに、"大丈夫"と言うようになった気がする。
夜な夜な、僕と妹が寝た後にふたりで話しているのを知っていた。大して広くないアパートだ。小声の会話も凍ったような雰囲気もわずかだが伝わってくる。
「……活保護とか……」
「それは、ちょっと……しでもお前が……」
「鳩叶が生ま……もまだひとりじゃ……」
「……義父さんには……連絡……」
子供が寝ていることを分かっていたし、心優しいふたりだから、互いに声を荒げたり、たまらずに席を立つこともなかった。
だが、ふたりとも愛するひとに思いが上手く伝えられないことで、悲痛な顔を浮かべていた。
ふたりの言葉は平行線をたどり、交わることはなかった。
実の親に対して思うことではないが、ふたりはそれほど勉強が得意ではなかったのかもしれない。"ヘイト"と子供に名付けるくらいには。
だからと言って善良なふたりに対して見下したり、軽蔑するような感情はなかった。本当に。
――そうして、徐々に家族から笑顔が少なくなっていった。狭いアパートだ。ふたりの険悪な様子はどこにいても感じ取れてしまう。僕はどうにも家にいるのが居心地よくなかった。
感じていたのは小さな閉塞感でも、それが毎日となると、子供なりにこたえた。
そこで僕がどうしたかというと、逃げたのだ。
小学校の図書室。
元々本は好きだったし、きっかけこそ忘れたがずっと図書係だった。家で過ごす時間が少なくなるように、いられるだけそこで本を読んだ。父と母には友達と遊んでくると言って。
良いことはあった。好きなだけ本は読めるし、図書室に来る生徒は少ない。何より毎日遅くまで図書室にいる僕に、司書の先生がこっそり果物やお菓子をくれたのがありがたかった。
そんな生活は2年ほどしか続かなかった。
父の体調は少しずつ良くなっていたが、まだ無理はできない。母も空いた時間に働くようになった。それで家の状況が良くなってきたかは知らないし、少なくとも雰囲気が良くなったように感じられなかった。
家族の会話はそう多くなかったように思う。昔はよく見ることができていた笑顔は、あまり見られなくなっていた。
逃避先は、そう長くは使えない。僕は幼い妹の面倒を見ることが多くなってきたのだ。
図書室で自分の本と、妹に読み聞かせるための絵本を見繕って、できるだけ早く家に帰る。閉塞感のある家へ帰り、次の日に学校へ行くまで父と母の無表情を見る。
学校に行ったらまた、図書室へ行って、家に帰る。
これからずっとその繰り返しなのだと――
そんなある日、朝から小雨が降っていた日の夕暮れ。
「へーくん、へーくん」
と妹に呼ばれて振り向くと、笑顔で紙を持つ妹が手を振っていた。なんだろうと目を凝らして、それが何なのかを理解した瞬間に身体が固まった。
妹が図書室から借りてきた絵本を破いて、クレヨンで絵を描いてしまっていた。母に手伝いを頼まれ少し目を離した間に。
どうしよう。借り物なのに。目を離したからだ。という動揺と後悔でつい怒鳴ってしまった。何を口走ってしまったかは憶えていないが、切羽詰まった僕のことだから強い言葉を使ったのだろう。まだ幼い妹に対して。
当然というか、妹は泣いた。号泣だ。
幼いなりに僕が喜ぶと思ってしたことなのだろう。申し訳ないことをしたと今でも思う。
動揺したのは僕だけではなかった。
普段物静かな僕が声を荒げたものだから、父も母もびっくりしてしまって僕を叱った。これも当然の流れだ。
なまじ僕がいい子のふりをしていたから、父や母も叱り慣れていない。
僕は自分自身が悪いことを知っていたが、黙って俯くことしかできなかった。
家の中は混沌としていた。笑ってしまうくらいうまくいかない。
確か、そう。
父に。
役立たず、と言わせてしまったのだ。
その時、目があった父の表情をよく憶えている。
自分で言ったことに対して、驚いているような表情。
僕は家から出た。小雨が降り続けるなかを、両手で破れた絵本を抱えて歩く。本が濡れないように。
とにかく先生に謝らないと、と考えていた。謝る相手は他にいると思う。現実逃避だったのだろう。
後ろを振り向いても誰も追いかけてきていなかった。追いかけてきて欲しくなかったし、また怒られるのは恐かったから、むしろ良かった。
そう。このあたりからだ。僕が漠然と――
妹ができてから両親はピリピリしている。限られた時間とお金をやりくりして僕と妹を育てないといけない義務感を感じていた。
僕がふたりにできることはほとんどなく、これ以上両親がストレスを抱えないように良い子を演じるくらいのことしかできなかった。
妹が産まれるまでは、そうではなかったはずだ。余裕はなくとも3人仲良く暮らしていけていた。
そう。雨のなか、破れた絵本を抱えて歩いていた時だ。
妹がいて、4人で駄目なら。
このあたりからだ。僕が漠然と、
消えたい、と思うようになったのは。
僕が消えてなくなれば、きっと。
幸か不幸か、図書室は開いていて、司書の先生もまだ帰っていなかった。突然扉が開いてずぶ濡れの男児が謝ってきたのだから、先生も驚いただろう。
ストーブを点け、僕を座らせると、ちょっと待っているように声をかけて席を立ち、しばらくすると、タオルと体育着を持ってきてくれた。
着替えたあと、先生は絵本のことを快く許してくれた。少し事情も聴かれたが、深く追及はしなかった。僕が言い淀んだからだろう。
先生はいつものように果物やお菓子を出してくれたが、手を出す気にはなれず、ゆらゆらと揺れるストーブの火を見ていた。
空気を揺らすのは、ストーブの音だけ。
ベテランの先生だったから、こういうことには慣れているのかもしれない。沈黙の中、狼狽える様子もなくこちらを構うこともしないのが、とてもありがたかった。
どれだけ時間が経ったのか、冷えた身体がすっかり戻った頃に、父が迎えにきたと教えられた。
僕は狼狽した、会いたくなかった。
また、怒られてしまうのかと。
先生としては親を呼ぶのは当然の対応だ、詳しく話さない自分も悪い。
変な気を回されて、警察とかを呼ばれないだけマシだったと思う。
先生に手を引かれ、廊下を歩く。
行きたくない。会いたくない。
処刑台に連れられる罪人の気分だった。
大きく口を開けたような昇降口に辿り着くと、
ずぶ濡れの男が立っていて、
悲しそうな目でこちらを見ていた。
一歩一歩こちらに近付く度に、
恐怖が身体を支配して、動けなくなる。
そして、父は僕の目の前に来ると、
「――ごめんなあ、竝人」
と言った。