76話 6月3日 Good night and joy be with you all
ヒルは勝手な奴だった、とアダリナさんはそう言う。
今月の始めに訪れた地区教会の一室にいて、6フィートの穴ができあがるのを待っている。未明から降り始めた小雨は止む気配を見せず、雨音がどこかから入ってきていた。
「これだ!って決めたら、他人を巻き込んで引きずっていく。それに文句を言ったって聞きやしない」
「そうね。確かに、そんな男だった」とシーラさんが口元を歪めて同意した。
ふ、とアダリナさんは鼻で笑って、
「彼と出会ってからは大変だったな。私は自警団と比べて、付き合いは短いけれど」
と呟いて石でできた壁を見る。その向こうでは、雨の中スコップを振るう彼らがいる。
無事に釈放された彼らと、僕たち3人が一緒にいないのは、どこまでいっても僕たちがストレンジャーだから。それが身に染みてしまったから。
敵だったシーラさん。
ヒルを守れなかった僕。
シリノの殺害依頼をしたアダリナさん。
「シリノを殺すようヒルに頼んだのは、アダリナだったのよね……」
そうシーラさんが質問し、アダリナさんは、
「ええ、憎んでいいから」
と返す。
自警団にとって僕たちは罪人だと思ってしまった。とても、仲間面して、共に涙していいと思えなかった。悲しみに暮れる彼らの姿は、そのまま僕たちへの罰だ。
それから逃げて、石材で囲まれたこの部屋に入った。
シーラさんは感情を乗せずに言う。
「シリノは最悪の雇い主だった。死んだところで何とも思わない。気にしないで」
そう、とアダリナさんは視線を落とした。
「ヘイト様にも、謝罪をさせて下さい。私の所為でこんなことに巻き込んでしまって。本当に」
「敬称は要りませんよ。それに、謝るのはこっちで……それほど役に立てませんでしたから」
こんなこと、か。
黒い森での戦闘が終わったあとのことは、よく憶えていない。
かろうじて脳裏に残っている景色は、変身を解いて這う這うの体で赤い鎧の破片を撒く盗賊たちと、ただ立ち尽くすフェルナンドさん。
僕は虚な意識で、盗賊のボスであるヘラルドに手を借りて、ヒルを中継基地まで連れていった。
聞いた話では、夜が明けたあと、シンイーさんが戦闘跡に散らばる赤い鎧と傭兵の遺体を見つけたようだ。それもすぐに、森に飲まれてしまったと。
侵攻作戦が終わったあと、僕はヘラルド率いる盗賊と領地のはずれに来ていた。今頃街では葬式をやっているのだろうな、沢山のひとが集まっているだろうな、と考えながら火を焚いている。
今回の件に協力する代わりに、ヘラルドたちを領地から無事に出すことを、ヒルは約束していた。僕はその見送りではなく、後始末のためにここにいる。
連中に預けていた仮面と紙片を火に焚べている。禍根は残さない。どれだけこのレガロに効果があろうとも、この世に残してはいけない。
不意に、熱で歪んだ仮面と目が合って顔を上げる。
そこにはヘラルドがいて、手渡してきた仮面と紙片を火に入れる。これで最後。こいつとの因縁も終わりだ。
そう思ったとき、「お前が持ってろ」と、ヘラルドがポケットから何かを取り出した。大きな赤色の宝石が嵌ったネックレスだ。
「これ、18番の貴石……」
黒い森で死体から掠め取ったのだろう。黙って持っていってしまえばいいものを、あの傭兵が持っていた物を、よりにもよって僕に渡すとはどういう了見だ。
「要りません」
「あいつを倒したのはお前だ。お前が持ってろ」
僕が手を出さないでいると、
「他の奴にくれてやってもいい」と押し付けてくる。
盗賊団の連中は怪訝な表情を浮かべてボスを待っている。それが僕を責めているようにも見えた。受け取らなければ立ち去らない。そういう態度に仕方なく手を伸ばす。
「これでいいでしょう?早く行って下さい」
すると、ヘラルドはじっとこちらを見て、
「悪かったよ」
と言った。
頭へと一気に血が昇る。
何がだ。何に対してだ。何が言いたい。
お前に謝られる謂れはない。お前たちを捕まえて、無茶苦茶な要求をしたのはこっちだろ。
罵倒したら、罰したらどうなんだ。
バティンの貴石をヘラルドに向かって投げつける。ネックレスは腰あたりに当たって、地に落ちた。
「早く行けッ!」
ヘラルドは面倒そうに表情を歪めると、何も言わず、仲間を連れて去ってゆく。背中が見えなくなったあと、仕方なくネックレスを拾い上げると、赤い宝石は土に塗れても輝きを失わず、静かに光っていた。
惨めだ。
とても。
盗賊が去って翌日、シリノが死んだ。
自宅で息絶えているところをメイドが見つけたそうだ。ベッドの上に仰向けになり、心臓をナイフで一突きにされていた。近くには遺書、ではなく告発書が見つかった。
曰く、聖遺物を集めるために村々を陥れたこと。
曰く、教会から聖遺物を強奪したのはシリノ一派であること。
曰く、その罪を自警団へ被せるため、彼らの事務所に聖遺物を置いたこと。
曰く、ドッペルの事件で、テルセロ・ネグロンに協力し、証人の脅迫と証拠の隠蔽を図ったこと。
余罪の数々とその証拠が詳しく書かれた大量の文書。最後の1ページには、これらの罪に耐えられなくなり、主人を罰し、告発する。とファウストさんの署名があった。
関係者は犯人の追跡と告発文の裏付けに奔走し、事実確認をおこなったことで自警団は解放された。
犯人はファウストさんで間違いないが、捕まることはない。
そんな人物は、元々存在しないから。
アダリナさんが仮面を着ける。
どこからか雨音が聞こえる。もう随分時間が経ったから、穴も掘り終わる。
「何時から?」
「初めから」
シーラさんが問い、目の前にいるファウストさんが答えた。
「私がファウストになってシリノに近付いたのは、あいつに復讐するためだったから」
ファウストさんの姿で、アダリナさんの口調で続ける。
ずっと、シリノのことを恨んでいたそうだ。
12年前のクーデターを機にシリノは失脚の道を辿り始め、やがてのっぴきならなくなったとき、妻と3人の娘を売った。
そんなことができるのかは分からない。可能かどうかを置いておいたとして、許されることではない。
妻とふたりの娘は、まだ小さかった末娘を守ろうと懸命だった。自由のない、酷い環境だったようだ。そんな無理が長く続くわけもなく、家族は流行り病に罹り、薬を買うお金はなく、体力も気力も使い果たしていて――
末娘を、アダリナさんを遺して死んでしまった。
「それから生活はもっと酷くなった。惨めだった……」
仮面を外して机に置きながら、アダリナさんは言う。
「シリノへ復讐することだけを考えて何とか生きてきた。それで、あいつのことを調べて行くうちに、ティリヤへ流れることと、あいつがクーデターの主犯を調査していた資料を見つけたの。そこでメフィストフェレスの名前も知った」
やがて、アダリナさんはヒルと接触することができた。
シリノという男を、絶望の末に殺して欲しい、とそう依頼した。
「侵攻作戦が終わって、傭兵が死んだことを知らされたあいつは呆然としてた。テルセロも捕まったし、隠した聖遺物を動かす手段もない。自警団もやがて釈放され、自分は破滅するって分かったのでしょうね。最後に聞いてみたの」
アダリナさんは深いため息を吐き、
「『家族のことをどう思っていますか?』って。どう答えても殺すことは決めていたけど、子供の頃に知らなかったことも、あるんじゃないかと思った」
僕とシーラさんは言葉の続きを待つ。
『大した金にならなかった』
「私は、これでやっと終わらせられるって、何だか安心しちゃった」
アダリナさんは、目を俯かせたまま、あっけからんとそう言う。
部屋の扉が開き、この教会の司祭が入ってくる。準備が整ったようだ。
「時間ね。ヘイト、お願いできる?」
「本当に良いんですか?」
「ずっと持っているわけにはいかないし、私にはできなかったから」
何となく彼女の気持ちが汲めた僕は、机の上に置かれた仮面を石の床へ丁寧に置く。斧を持ち、力の入らない身体で何とかバランスをとりながら振り上げる。フラフラとする僕を、見兼ねたシーラさんが支えてくれた。
躊躇いながら刃を振り下ろすと、仮面は割れてしまった。
「ありがとう。ヘイト」
アダリナさんの瞳に涙が溜まっていき、嗚咽と共に、零れた。
「ありがとう……」
両手で顔を覆い、言葉にならない声で礼を言う彼女のそばにいてもらうよう、シーラさんに頼み、部屋の外へ向かう。
この先は、これ以上は酷だ。
司祭に伴われて、雨が降る外へと、ふらつく身体を向かわせる。
まだ僕の役目は終わっていない。
「――『私が明日の今頃までに、あなたの命を、あの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が私を幾重にも罰してくださるように』――」
雨を吸って緩んだ土の上で、皆は穴の中に置いた棺に向かい祈りを捧げていて、僕は本を読んでいる。隣に立つブルーノさんが本を濡らさないよう、木と布でできた傘を差しだしてくれた。
礼を言おうとして目線を上げると、傘を差しているはずの彼の頬に雫が伝っているのを見て、歯を食いしばっているのを見て、それきり紙に目線を落としている。
皆泣いている。立っていられない者もいる。
僕は一滴も涙が出ない。
虚しいばかりだ。
「――『それを聞いた彼は恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃れて、南端の地に行き着いた。そして従者をそこに残し』――」
今考えると、あの裁判でヒルは『赤い鎧の集団を捕まえるか倒してくる』と言った。彼自身の生死については問うていなかったのだ。
結果、赤い鎧の集団は、シリノの手駒と相打ちで壊滅したことになる。残された仲間たちは、これまでの過去を捨て去り、ただの自警団として暮らしていけるようになった。禍根は黒い森で絶たれたのだ。
「――『彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた』――」
シリノは手駒を失い、与えていた聖遺物と呪物を失った。やがて数々の罪が明るみに出て、地位も失うことを悟ったのだろう。王都に帰ることも自分の敵を破滅させることもできなくなったシリノは、きっと絶望したはずだ。
絶望したシリノに大した抵抗はできなかったと思う。アダリナさんが手を下すのは容易だった。彼女の復讐はヒルによって果たされた。
「――『彼は、一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った』――」
侵攻作戦の直前、シリノとフェルナンドさんが話しているのをアダリナさんが見ていたそうだ。すでに前線にいた僕たちが知る由もなかったが、ヒルはフェルナンドさんの参戦を予想していたのだろうか。
僕たちは皆、ヒルの掌の上にいたのだろうか。
だが、ヒルとフェルナンドさんが立ち会ったとき、ヒルは運命を受け入れているようにも、必死で抗っているようにも見えた。
自警団の数人が、穴に向かって土をかける。その動作はゆっくりとしていて、強い動揺と躊躇いが見えた。別れを惜しんでいる。当たり前だ。簡単に別れられるものではない。
ヒルがどれほどの長い時間を生きてきたのかは分からない。自警団員の出自を考えると、彼らが産まれるときにはこの世界にいて、実の父や兄のように思われながら共に暮らし、慕われてきたとしても、別におかしくない。
「――『主よ、もう十分です。
わたしの命を取ってください。
わたしは先祖にまさる者ではありません』――」
ヒルは老化と病気を悪魔に奪われていた。誰よりも強く賢かった。
衰えや疫病、怪我や事故、どんなに激しい戦いも、殺してくれることはなかった。
そんな人間は、どうやって死ねばいいのだろう。
永遠を迫られたとき、人間は何を見るのだろう。
彼はきっと、自分の命の始末を、自分でつけるという選択をしなければならなかった。どこまでも自分本位に選択し、どこかで区切りをつけなければならなかった。
それも簡単にはいかない。
自分を頼ってくれている隣人たちがいる。自分を信頼してくれている仲間たちがいる。
でも、これからずっと生き続けるのか。
ぱっと何かが殺してくれるのを待つのか。
それは呪いと何が違うのか。
彼はこれが最良だと思った。
過去の因縁を晴らし、アダリナさんの復讐を果たし、街の敵を一掃して、仲間たちを救い――
自らの願いを叶えた。
穴が埋まる。真っ黒な土が棺を覆ってしまった。
雨が降っている。誰もこの場を動けない。慟哭が反響している。
ヒルはやっぱり凄い。
彼はいくつもの呪いを引き連れて、墓ひとつへと入ったのだから。
少しだけ、声が震える。
「我が信仰を、去り行く者への餞に」