75話 その墓に入る者は ―Ⅰ―
「……助かったよ。ヘイト」
肺を絞り上げるように呻き声をあげて、赤い鎧は地に手を着き、薙ぎ倒す槍を杖にしてゆっくりと立ち上がる。
話してはいるがその目線は倒れ伏す僕ではなく、真っ直ぐ前に向いていた。
赤い鎧が見据える先に、同じように"クエレブレの逆鱗"を杖にしたアーヴァインが立ち上がろうとしている。
すでに息絶えている傭兵たち、苦痛に対する怨嗟の声を出す赤い鎧の集団には目をくれず、比類なき槍を持つふたりの男は、お互いの敵を瞳に映している。
僕も倒れてはいられない、だが、身体に残った力を総動員しても、仰向けからうつ伏せになるのが精一杯だ。
立ち会うふたりは深く長い呼吸を繰り返して息を整え、距離を詰めていき、アーヴァインが間合いに飛び込んだ。
狙いはロンゴミニアドに対する武器破壊――
ではない。直前で軌道を変えた魔槍の切っ先が、赤い鎧に向かう。
命を抉り出さんと繰り出された豪速の一突きを、メフィストは半身で一歩踏み込み、槍の柄を相手の柄にぶつけて穂を逸らす。
カウンターをと疾った黄金には、いなした時の衝撃が残っていたのか。素直な軌道で斬り付けるロンゴミニアドをアーヴァインは躱し、クエレブレの逆鱗で二撃目、三撃目を放つ。
穂が赤い鎧の肩掠めて、砕けた。メフィストは棒術のように柄を振るってアーヴァインの手足を打つと、ふたりは互いに距離をとる。
アーヴァインは先程と同じ堂に入った中段構えを、メフィストは切っ先を後ろに向ける上段のような構えを取った。
破壊の力を纏った槍、貫けぬ物の無い槍、お互いの穂が触れた途端に戦況は変わる。
幹の立ち並ぶ森の中、森林火災が起きている状況、視界も足元も悪い戦場で、ふたりは高い次元で槍を操っている。
それをただ見ることしかできないことに歯噛みする。呪いの鎧の重量が何倍にもなったかのようだ。動けないことがもどかしい。ゆっくりと握った拳が土を噛む。
ふたりは見つめ合って呼吸を整える――
円を描きつつ距離が詰まり――
間合いに入った――
相手の能力など気にも留めず、目にも止まらぬ速さで放たれた槍が交差する。鋭い突きを放つアーヴァインを、メフィストは棒術のように迎え撃つ。
柄の部分を使った激しい攻防が巻き起こるが、穂が触れることはない。
起き上がったところであの戦いにはついていけないだろう。だが、寝転がっているわけにはいかない。
冷静になれ、もう動かない、と喚く理性を、獣性と義務感で黙らせ、拳と肘を地面に着いて土に塗れた身体を起こそうとする。
視界は真っ赤に染まっている。
重い金属音が響いた。
軋む首を上げると、赤い鎧の右手甲が砕けている。再度クエレブレの逆鱗が掠めたのだ。メフィストは臆さず反撃し、アーヴァインは数歩退がる。
破壊されたのは鎧だけで怪我はないようだ。"代行者の仮面"であればすぐ鎧を復旧できるのではないか。そう思うが、メフィストはそんな素振りを見せない。
アーヴァインが仕掛けた。数合のうち、いなしきれない攻撃が赤い鎧の一部を砕いた。メフィストは間合いを取るが、どこか動きの精彩を欠いているように見える。
ここでアーヴァインは追撃せず、突然魔槍で自らの革鎧を破壊し上半身の肌を晒した。防御を捨てた、だけではない。
クエレブレの逆鱗を振ったことにより体温が上がっている。高熱にうなされているのだ。肩を上下させ、眉間に皺を寄せながら、怨敵を見ている。
そして弱っているのはメフィストも同じだ。
砕けた鎧は彼のレガロ。それがダメージを負うということは、彼自身にも負荷がかかっている。だから鎧は、直さないのではなく直せない。
魔槍の呪いと、レガロの反動。
終わりは刻一刻と迫っている。
武器を激しくぶつけ合う音が、森に鳴り響いている。
重心を低く取り重い一撃を繰り返すアーヴァイン。対して、翻弄するように動きながら槍全体を使うメフィスト。
持てる全ての技術と共に、信念と主張をぶつけ合うような、感情をぶつけ合うような戦いが続く。
やがて、運命の時は、先触れなく訪れた。
アーヴァインが刃を避けようと退いた先に、木の根がある。これまでであれば問題なかっただろう。だがアーヴァインは高熱に侵されている上に、メフィストにより四肢への攻撃を何度も食らっていた。
アーヴァインの足にきた。踏ん張りが効かない。
赤い馬以外が相手であれば問題のなかったであろう、小さな隙。
メフィストが飛び込んだ。アーヴァインの目が見開かれる。
意思に反して力が乗らない。重心がぶれ、切っ先が下がる。
重心を崩してなお繰り出される、重い一撃。
一瞬を逃すまいとする、流星のような一撃。
お互いの切っ先が届いたのは同時だった。
時間が止まったかのように、ふたりは突いた姿勢のまま動かない。どちらが勝ったのか、疑問と祈りで頭がいっぱいになっている。
ロンゴミニアドは、アーヴァインの肺に、
そしてクエレブレの逆鱗は、メフィストの左腕を、
無限に思える数秒の硬直のあと、アーヴァインは膝から崩れ落ちる。
アーヴァインは最後の最期まで、赤い鎧を睨んでいた。
メフィストはふらつきながら、こちらに歩みを進める。ロンゴミニアドを地面に突き刺して、膝立ちの僕に向かって右手を伸ばした。
左腕の傷は酷く、垂れ下がって動いていない。
「――帰ろうか」
やっと終わったのだ。僕も右手を伸ばす。
赤い鎧の破片を撒いて、盗賊は潜伏させて、中継基地へと帰る。
明日になれば、魔物が証拠を隠滅した戦場跡を、シンイーさんが見つけてくれる。
グレイヴ・ワンは死んだのだ。
僕の右手が、彼の手に触れる――
「アーヴァイン……」
不意に、聞き覚えのある声が届く。
赤い鎧はゆっくりと振り向く。その視線の先で、ひとりの甲冑が、仰向けのアーヴァインの腕を、祈らせるように組ませている。
甲冑はこちらに表情を見せないまま、傍の兜を被り立ち上がった。
何故、こんなところに……
2mを超える巨体に、豪奢な甲冑。
十字架のようにも見える、青い刀身の特大剣。"信仰の剣"。
メフィストはどこか楽し気に、
「ハッ。フェルナンド・イエルロ……王の宝剣か」
そう言う。
復讐の相手と合間見えた英雄は赤い鎧に、己の因縁に切っ先を向ける。そして、
「王都の民の仇……先に逝った仲間たちの仇……そして我が盟友、アーヴァインの仇!!
この因縁、今こそ晴らさせてもらう!メフィストフェレスッ!!」
目の前の光景が信じられない。
甲冑を身に纏っての戦いとは思えなかった。フェルナンドさんは、猛獣が全身の発条を使うように敵へ飛び掛かり、嵐のような連撃を放っている。
メフィストは機敏に幹の裏に身を隠し――木の幹ごと、スパーダ・デラ・フェーデが切り伏せた。
人間の胴回りくらいには太い木を一刀両断し、なお勢いの有り余る斬撃。
木が倒れる音が森に響き渡る。
剣と槍が立ち会っている音とはとても思えない。
十字架を模した青い刀身の特大剣は、この黒い森にあって場違いと思えるほどに清廉だ。巨躯から振るわれる攻撃はあらゆる障害を切り伏せている。
あれに当たったらダメだ。絶対に。
ロンゴミニアドの黄金が流れ、スパーダ・デラ・フェーデを大きく砕いた。巨躯の英雄はすぐに距離を取る。そして、その場で血を払うように剣を振ると、青空を映したような刀身から一切の傷が消えている。
このままじゃまずい。早く立ち上がらなければ。ふたりが戦うことはない。
「ヘイト様。今お助けいたします。お待ちを」
両者の立ち位置が入れ替わって、フェルナンドさんは短く言った。
何か誤解がある。
致命的な誤解が。
満身創痍のメフィストが槍を振るい、相手の甲冑を剥がして手傷を与えている。甲冑は所々が壊れ、滴った血液が染めているが、英雄の動きが曇ることはない。
息もつかせぬ連撃をメフィストは避け続け、右腕一本だけで立ち向かっている。
声が出ない。無理に出そうとしてひどく咳き込んだ。
何をやっている。早く動け。そう焦るのに、自分の身体は止まろうとしている。
砕いてもすぐに直ってしまう信仰の剣に、メフィストは終始押されている。
メフィストが変身を解けばいい。
見知った姿へと戻れば、きっとフェルナンドさんは攻撃を止めてくれる。
そうしたら、事情を話せば、きっと分かってくれる。
そう思うのに、メフィストは全身全霊で攻撃を避け、ロンゴミニアドを振るう。
立て、
早く、
動いて、
割って入れ。
そのための鎧だろうが。
自分の身体に強く命令する。無理矢理に身体を立たせると、立ちくらみのように視界がぼやけ、感覚が遠ざかる。
「強くなったな」
「当然だ。貴様の槍捌きを、片時も忘れたことはなかった」
「そうかい。なら来な。勝負だ。我が運命よ」
「待って……」
吐息と共に掠れた声が出た。
膝は笑っている。
それを押さえつけるように手を着き、
英雄が咆哮をあげた。
ロンゴミニアドの突きは、英雄の兜を砕き、頬を裂いた。
スパーダ・デラ・フェーデがロンゴミニアドの柄を割る。
メフィストは2,3歩後ずさり、右手に残った柄を棍のように構え――
青色の刀身が、赤い鎧の胸を貫いた。
――それを着て戦ってるのはお前なんだ。立派だと思うよ――
――キツいものを見るかも知れない。それでも続けるか?――
――ヘイト、元気そうで何より。良い夜だな――
――ああ、退屈で最高な日だ――
――友達だろ?ヘイト――
赤い鎧は支えを失ったように両膝を地面に着けて、仮面を取る。
「待ってっ!――ヒル!!」
止めを刺そうとする剣の動きが痙攣したように止まった。
倒れゆく身体を背中から抱き留める。
そうすれば、魂の解放を防げるとでも。
「噓吐き」
何故そう言ったのか、自分でも分からない。
「ごめんな……ヘイト……」
ひどく咳き込みながら、言葉を吐き出すのを見て、何かを堪え、痛いほどに奥歯を食いしばった。
「やり直すって、言ったじゃないですか」
分かっていた。彼はここで終わりにするつもりだった。だから、何とかして防ぎたかったのに。
彼の身体が、重く、呪いの鎧に沈み込んでいる。
血に塗れた青空のような剣は、英雄の手を離れて地に伏している。
ヒルは。
ハッ、と引き攣ったような笑い声を漏らす。
彼の手から仮面がするりと離れる。
「そりゃあ……不公平だ……」