69話 5月20日 暗転する世界
ずぶ濡れの男が立っている。
ずぶ濡れの男がこちらを視ている。
汚れたレインコートは男のシルエットを曖昧にし、
目深に被ったフードはその表情を隠している。
「そんなに怯えるなよ。ヘイト」
男はおもむろにフードを捲った。
「骸骨……」
低い、地鳴りのような声で話しかけてきたのは、いつか見た喋る骸骨。
趣味の悪いことだ、と骸骨は呟きながら濡れたレインコートの襟をいじっている。
途端に不快になった。
魔剣を抜こうと柄に手をかけようとして、指先が空を切る。手応えに疑問を持ち、ぱっと腰を見るとあるはずの刀身がない。
「ほう、乞患か」
声の方へ向くと骸骨は僕の魔剣を持ち、骨そのままの指で緑色の刀身を撫でていた。
「この剣が持つ力を知っているか?これを打ったハルマルは『また斬られたくなる。それこそ、死ぬ程』と言っていた。
性格の悪い彼奴等らしい武器だ」
一体この骸骨は何を言っている。
何をしに夢に現れるのか。
「返してください」
「無論。返すさ。面白い物が見れるだろうからな」
瞬きをすると、骸骨は目の前にいて、腰の鞘に魔剣の刀身を滑り込ませている。虚空のような眼と眼が合うと、骸骨は笑みを浮かべて言う。
「皆が一斉に賽を振り出すぞ。こんな処で何時までも寝ていて良いのか?」
始めて辺りを見回す。質の良い個室だ。夜なのか、青白い月明かりが部屋に満ちている。それに気付くのと同時に、足の力が抜け木の床に倒れ込んでしまった。重力に抵抗する力は湧いてこない。
「それと私は骸骨ではない。我が名は、D・サブナク。偉大なる"鎧袖"の悪魔である」
瞼が下がり、視界がぼやけていく。
胡乱な意識のなか、悪魔の低い声が溶けていく。
「さあ、ヘイト。お前も賽を振り給え」
「――ト様、ヘイト様」
身体をゆすられている。重い瞼を開くと、暗い部屋に寝かされていて、目の前にいるラテン系の男性が僕の名を呼んでいた。長い黒髪でこれといった特徴はない。確か……シリノの秘書だ、ファウストさんと言ったか。会話をするのは初めてだと思う。
「良かった。うなされていらしたので、起きるやもとお声を掛けさせて頂きました」
燭台に照らされる冷たい無表情に変化はない。敵意を向けられているようでもないようだ。
「あ、あれから……」
か細い自分の声を聞いてから身体の調子が悪いことに気付き、教会の屋根から突き落とされたことを思い出した。
何日経った?ここは何処だ?何故このひとがいる?
――あの後どうなった?教会は?
皆は。
疑問の多さと体調の不確かさが混ざって言葉が出てこない。
「あれから5日経ちました」
一言で通じたのかファウストさんは説明を始める。
「ここは街の領主館です。屋根から落下したヘイト様はここへ運び込まれました。教会の騒ぎが収まっていませんでしたから」
「他に……怪我したひとは?」
「重軽傷者が40名ほど、ですが死者は出ませんでした。迅速な鎮圧がなされたためです。
暴れ出した患者たちは皆、何故自分があんな行動を取ったのか分からず混乱していました。やはり、何者かに暗示をかけられていたようです。
教会の宝物庫は荒らされ、数十の聖遺物が盗まれていました。騒ぎに乗じて侵入したのでしょう。
犯人は」
イェンマだ。
「自警団だと見られています」
「何で……」
そうなる――
「彼らが使っている拠点のひとつから盗まれた聖遺物が幾つか見つかり、その場にいたチコを逮捕しました。
衛兵は警備会社と協同で自警団の捕縛と尋問を進めています。しかし、ヒルと他数名は未だ捕らえられていません」
「冤罪です」
信じられない。チコさんが捕まった。
身体を無理矢理起こしてベッドに腰かける。左肩から先が全く動かず、右腕にもあまり力が入らない。
「"71番の仮面"で騒ぎを起こして、僕を突き落としたのは、"ネグロン家の剣"のイェンマです。自警団は関係ない」
患者たちを鎮圧する時に指示を出していたのはヒルだ。それが何故、自警団が逮捕される話になっているのか。
「イェンマと71番の仮面は、1週間ほど前から行方が分からず、指名手配が出ております。どうやら自警団との繋がりがあったようです」
「そんな……」
それも嘘だ。
ファウストさんはこちらを真っ直ぐに見て、眼を逸らすことはない。
「このままなら、彼らの極刑は免れないでしょう」
「極刑って。それ死刑ってことですか!?」
フェリシアさんは、チコさんは子供が産まれたばかりだ。
とても話の内容を信じられない。これも質の悪い悪夢だと言われた方が真実味がある。
「ヘイト様――」
眼を合わせたままファウストさんは言い淀んだ。何となく、何処かでこの眼を見たような気がする。
「彼、らを救えるのはヘイト様だけです」
ファウストさんは視線を切って立ち上がり、まくし立てるように言葉を継ぐ。
「シリノから話があるそうです。明日連れて参ります。それでは失礼いたしました」
瘦せ型の秘書は、丁寧に礼をして部屋を出ていった。
日が昇った。
歩けないというほどではないが、両腕の自由がきかないからか、かなり歩きづらい。部屋の隅には自分の装備が置いてある。魔剣もだ。イェンマに取られてはいなかったか。
扉をノックする音が聞こえて、こちらの返答を待たずにシリノが入ってきた。傭兵のアーヴァインとファウストさんを連れている。
「ヘイト様、失礼致します」
シリノは勝ち誇ったような機嫌の良い顔をしている。
「流石は"不死の使徒"、あやかりたいものですなあ。お元気そうで何よりです」
「ええ。おかげさまで。イェンマはあなたの友達でしょう?」
ははっ、とシリノは笑う。醜い笑顔だ。
「困ったものです。イェンマは我々の所有する聖遺物を盗み出し、自警団と共謀して教会の宝物庫に侵入しました。今は指名手配中となっています」
ああそうですか、と吐き捨てる。
イェンマは、あの仮面をシリノのとっておきだと言っていた。どんな雇用契約をしているかは知らないが、持ち逃げはしない。姿を隠しているだけだと思う。
敵の策略に嵌められている。
「ヘイト様、ご協力を願えませんか?」
シリノは笑みを引っ込め、値踏みするような眼で見てきた。
「ヘイト様は、かつて王都で暗躍した赤い鎧の集団をご存知でしょうか?」
「グレイヴ・ワン。あなた方の警備会社が名乗っている名前です」
「ええ。自警団に揺さぶりをかけるためその名を付けました。では、グレイヴ・ワンを率いていたリーダーの名は?」
知らない。首を横に振る。
「メフィスト、だそうです。
12年前、メフィストとその仲間たちは、クーデターを手引きしたあとに王都を離れた。そして今、奴らは名を変えてこのティリヤに溶け込んでいる。その名は、自警団」
「は?」
こいつは何を言っている。突飛な話だ。
自警団が、ヒルが、王都を火の海に沈めた犯罪組織などであるはずがない。どうせまた嘘だ。
「王都から離れたひとなど大勢いたでしょう。自警団はその内の一部に過ぎないのではないですか?同一視するには無理があります」
「根拠ならございます。
このアーヴァインは前王親衛隊のひとりでした。あのクーデターの日に目撃した男をティリヤでも見たそうなのです。その男は自警団として活動しています」
「その男はグレイヴ・ワンとして王都にいたんですか?関係ある――」
シリノは僕の言葉を遮って続ける。
「そして、先月捕縛された神罰教会の構成員が尋問中にこう漏らしたそうです。『預言者が、メフィストに会ったらよろしく伝えて』と言っていた、と。預言者とやらはこの街にグレイヴ・ワンのリーダーがいると思っている。これも奇妙な偶然でしょうか」
シリノは語気を強める。
「自警団は、いえ、グレイヴ・ワンは、王都に続きこのティリヤまでも陥れようとしている。私はそれを防ぎたい。
ヘイト様には情報を集めて頂きたいのです。自警団とグレイヴ・ワンが同一組織だという証拠を」
ああ、そうか、こいつは。
グレイヴ・ワンに強い恨みがある。
自分を王都から追い出した元凶だから。
シリノの目的は王都へ帰ることだけではない。自分を追い落とした者へ復讐がしたいのだ。
憎しみに憑りつかれて、被害妄想を邪魔なヒルたちにぶつけようとしている。
「気分が悪い。帰ります」
「……そうですか、承知しました。セフェリノ様には私から言っておきます。宿まで送りましょう」
「結構です」
シリノたちを脇目に魔剣を杖にして部屋から出る。扉を開けたところでシリノの声が掛かった。
「ヘイト様、悪魔に笑われませんよう」
「ええ。そちらも」
まだ日は高い。領主館を出て街の外へ向かい歩を進めた。
街を出てからかなり歩いた。教会に寄ってアイシャさんの様子を見ようとも思ったが、目的地へ向かうことにした。
日暮れはもう目の前だ。暗くなる農道を杖をつきながらゆっくりと歩く。もう少しで到着のはずだ。
頭の中がグチャグチャになっている。
おかしな夢。ファウストさんの説明。シリノの妄執。
自警団の組織力、武力、手腕。人々からの信頼。
――クーデターという演劇の舞台が整えられたような――
敵に立ち向かう時の、彼らのやり方。もし、彼らに悪意があったら。
――如何してこうなったのだ?教えてくれ――
フェルナンドさんが傷ひとつ付けられなかった、赤い鎧を着る比類なき槍使い。
――ああ、不公平だと思ってるよ――
『不公平だ。笑えるだろ?』
植え付けられた疑惑が頭で芽を出している。
だったら、彼らに直接聞けばいい。
それに彼らの身が心配だ。
到着する頃にはすっかり夜になっていた。
今月の始めに皆と集まっていた自警団の事務所だ。荒らされている。ここにも捜査の手が入ったのか。
壁に手を着きながら裏手に回る。
屋根のある薪置き場だ。
月明かりを頼りに、山と積まれた薪をどかすと木の扉が現れる。ここには地下室があると聞いていた。
バランスを崩さないように梯子を下りていく。扉の隙間から、ろうそくの灯りが隙間から漏れていた。
扉を押し開ける。
「ああ、ヘイト。良かった」
「ヒル。皆――」
ホッとする。テーブルに着くヒルとブルーノさん、それに立っている何人かの姿が見える。少し疲労が窺えるが、怪我などはなさそうだ。
「チコさんたちが捕まったって」
「ああ、まんまと嵌められた。手が早くて逃げられなかった。フェリシアと娘は無事だ」
「大丈夫なの?」
「捕まっているのは国会の施設だし、裁判をするのは領主だ。セフェリノもシリノのことは面倒に思っている。直ぐにはどうこうならない、時間の問題だがな」
ブルーノさんが椅子を出してくれる。
「屋根から落ちたって聞いたよ。死んではないとは思ったんだが、教会に遣いを出しても見つからなかった。今まで何処にいたんだ?」
「領主館で寝かされてた。起きたのは今朝になっちゃって。ごめん」
大丈夫だ、とヒルは微笑みながら言って、部屋が沈黙に包まれる。
聞きたいことは聞かなければ、言いたいことは言わなければきっと後悔する。
「今朝、シリノに会って言われたんだ。ヒルたちが王都のクーデターを引き起こしたって。そんなわけないのにね」
できるだけ軽い調子で話し始めたが、終わりの方は言葉が沈んでしまった。
ヒルはちょっとだけ驚いた様子を見せ、すぐ元に戻る。
「ああ、俺たちはクーデターと関係ない」
そうだ。あれはやはりシリノの被害妄想だ。視線を下げてテーブルを見る。
「自警団がティリヤを陥れるなんてことも、有り得ない」
「もちろん」
「ファウストさんがスパイとかも……」
ボソッと呟いた台詞に、返答は、なかった。
ハッとして顔を上げると、ヒルはぽかんとした表情を浮かべている。
何で僕はそんなことを言ったのか。
「あ、いや。違くて。今のは、ええと。ファウストって本に、メフィストフェレスって悪魔が……」
この世界に住む彼は元の世界の本など知らない。
ヒルは溜息をひとつ吐いて、周りへ言った。
「やめろ、武器を下ろせ」
周りの雰囲気が変わっている。
振り返ると、周りを赤い鎧の集団に囲まれていて、刃の切っ先は僕の方へ向いている。
背筋が凍る。思考が停止する。
「そん、な……」
ヒルはいつものように気だるな表情に、笑みを浮かべて言った。
「少し歩こうか、ヘイト」