68話 5月15日 光芒の中で
日暮れ前だ。礼拝堂へ戻ってきて長椅子に座り、重厚な鐘の音を聞きながら、広い教会内を一周した両足を労わっている。
教会の警備を始めて数日が経った。が、何事もない。平穏そのものだ。
教会の神父であるバースィルさんに「宝物庫を狙う輩がいるかもしれない」と忠告してみたが、彼に困り笑いを浮かべさせてしまうだけだった。
そりゃそうだろう。そんな不確定事項の多いことを話されたところで戸惑う。陰謀論の方がマシというものだ。話をしている僕たちですら自信がないのに。
この世界において教会は支配的だ。権力者だろうが金持ちだろうが正面切って対立しようとする者はいない。普通は、だが。
バースィルさんに宝物庫以外の立ち入り許可を貰った。宝物庫は選ばれたひとしか入ってはいけないらしいので、毎日エルザさんになくなっているものがないかチェックしてもらっている。
僕たちは消極的な対抗策を取っている。
アイシャさんとヒルと一緒に教会内をパトロールして、不審な物や人物がいないか見て回る。そう表現すれば聞こえは良いがほぼ散歩である。
成果と言えば、入院患者のひとりから深夜に仮面を被った人物が徘徊していた、とか言う怪談じみた話を聞けただけだ。その後、彼は頭まで布団を被り震えて眠るようになったので詳細は分からない。
数日間も3人で雑談しながら過ごしてくると、軽い会話はやり尽くしてくる。
どんな話の流れだったかアイシャさんが自分のことを話す。
「私の出身はこの街らしいのですが、物心つく前に両親はいなくなってしまって、領地のはずれにある修道院に引き取られて暮らしていました。
そこで8年くらい修行して、この教会にきたのは4年ほど前ですね」
「修道院での生活は厳しいって聞くが、逃げ出したいとは思わなかったのか?」
ヒルが何の気なしに質問した。
「そうですねえ。楽ではなかったのは確かです。でも、主を身近に感じていましたから、やめたいとは思いませんでした」
「偉いなあ」
「ふふっ、性に合っていただけかも」
天井の高い礼拝堂にアイシャさんの笑い声が溶けていった。
「ヒル、そう言えば昔は王都に住んでたって……」
王都で活動していた自警団は、12年前にクーデターがあり街に移ってきたと聞いた。ふとそのことを思い出した。
「そうそう。王都と言っても、俺が生まれたのは郊外のド田舎だっただけどな」
正面の大きな十字架を見ながら、ヒルは滔々と話し出す。
「普通の農家だ。家族は実父と、再婚相手のヒステリーな継母。その連れ子の弟。実母はある日家を出て行ってそれきりだ。酷え子供時代だった」
「あっ……」
予想外の回答に固まってしまう。それほど昔でプライベートなことを聞いたつもりはなかった。直前アイシャさんが子供の頃を話していたし、完全に僕の訊き方が悪い。自分の口下手加減にうんざりする。
「逃げ出したいとは思いませんでしたか?」
「ハハハ。それがさ、俺はアイシャと違って逃げたんだよ」
アイシャさんが茶目っ気たっぷりに相槌を打ち、ヒルが笑いながら答える。もう違うとは言えない雰囲気だ。
「継母の俺に対する扱いは最悪でさ。毎日夜遅くまで牛舎の仕事をやらされて、継母の機嫌が悪いとメシ抜きにされたり打たれたりした。親父は何か言いたげにしてたけど、結局ひとことも文句を言わなかった。また出て行かれたくなかったんじゃねえかな。
そのうち親父と継母の間に妹が産まれて、どんどん俺の扱いは悪くなった。
牛の糞に塗れながら仕事をしてたら、風呂上がりの弟に『ヒル、臭いね』って言われたことは今でも思い出せる。
弟は暖かいシャワーを浴びて、俺は便器に突っ込まれてる。不公平だ。笑えるだろ?」
「笑えません」
即答する。
「ハハハ。で、そんな生活がとっくに嫌になっていた俺は、別の村へ使いに行かされてたときに軍隊の募集を見て、そのまま買い物に使う金を持って入隊した。アイシャじゃないが、軍は性に合ったよ」
「それから、ご実家には帰っていないのですか?」
アイシャさんが過剰に同情しない優しい口調で訊く。
「1回だけ――あれを帰ったと言っていいかは微妙だが。
何年か軍で過ごして、仲間に恵まれたおかげで俺は見違えるほど強くなった。ある日のことだ。何でかは分からないが、実家を見てこようと思ったんだ。
今の自分なら大丈夫だって自信があったんだろう。もしまた舐めた真似されるなら火ィ点けてやろうとも思った。
ばっちり軍服を着て、休暇を貰って故郷へ向かった」
ヒルは十字架から目線を上げて、ステンドグラスを見る。
「家はあったが誰もいなかった。家具も人も牛も、空っぽだ。近所のばあさんに聞いたら、何年か前に強盗が入って遺体がよっつ出てきたって。
あの時の気持ちは、何とも言えない。
涙も呪いの言葉もひとつも出なくて、
ただ、でかい溜息がひとつ出た。
もうずっと昔の話だ。
ずっとな」
返す言葉が見つからない。こういうとき何を言えば良いのだろう。想像を絶している。
それと同時に、完璧超人のように思っていたヒルを身近な存在に感じていた。自分との共通点でもあるのだろうか。
「ヘイトは?」
「え?」
「ガキの頃はどんなだったんだ?」
「あー、えっと」
やはりというか自分の番が回ってきた。ここ数カ月、この世界で暮らすうちに、不完全ではあるが記憶は戻ってきている。
「ふたりほど大変じゃなかった、かな」
――うらやましいなあ――
「両親もいたしご飯も食べられた。打たれもしなかったし。ちょっと生活に余裕がなかったくらいで」
「それが嫌だったのか?」
「え?」
「そんな表情してる」
「表情……」
反射的に顔を触るが、ちゃんと面で隠れている。見えるはずがないのだが、ずぶりと図星をつかれた。
「あ、いや、嫌だなんて、そんな贅沢な。ひとりだけの友達にも羨ましがられるくらいで」
喋りながら自分の意志とは関係なく声が沈んでゆく。
アイシャさんやヒル、それに転校してしまった彼に比べたら――
「――僕の不幸なんて大したことありません」
「自分の不幸に自信を持ったらどうだ?ヘイト」
また図星をつかれた。しかし見透かしたような言葉に対して不快感はなく、風が吹いたかのような心地良さを感じる。
「というかお前、友達がひとりって……使徒連中とか俺たちは、アイシャはどうなるんだ?友達じゃないのか」
「ひ、ヒル?使徒様ですよ?烏滸がましくありませんか?」
「え、友達に数えて良いんですか?友達って何……友達ってどうしたらなるんでしたっけ?」
ヒルは満面の呆れ顔を浮かべている。
それからしばらく話して解散して滞在用に借りた部屋へ戻った。妙に足取りが軽かったのは、何故だろうか。
翌日。
日が昇り3人で同じように教会を歩いていると重厚な金属音が鳴り響く。いつものように教会の鐘が鳴ったのだ。街中にも響き渡っているのだろう。
少しずつパターンも分かってきた。今のは10時くらいを知らせる鐘だ。午前中らしく曇り空から漏れる陽光が、控えめに礼拝堂を照らしている。
徐々に、
徐々に――
騒がしくなっている?
「何か始まったな」
ヒルの表情が消える。
緩慢としていた空気をかき回すように、修道女や修道士が駆け足で移動している。その顔色からは困惑と焦りが窺えた。方向は、怪我人が入院している施療院の方だろうか。
目の前を通りがかろうとしたエルザさんがこちらを見付けて立ち止まった。すぐにアイシャさんが口を開く。
「エルザ、何かあったの?」
「分からない……でも、怪我人が起き出してるって」
「ヘイト、アイシャ、行こうか。エルザ、案内してくれ」
やはり騒ぎは病棟となっている施療院で起きている。廊下には混乱と怒鳴り声が満ちている。声が多すぎて聞き分けができず状況が分からない。ただ雰囲気から危機感だけが伝わってくる。
通してくれ、とヒルの声を聞きながらひとを掻き分けていく。途中、廊下にへたり込み手当を受ける大柄なブラザーを見付けた。額から血を流している。
ヒルはしゃがみ込み、目線を合わせた。
「何があった?」
「突然入院患者たちが暴れ始めて、襲われました。押さえつけようとしたのですが……人数が多く……」
「連中、何か言っているか?」
「『俺たちを殺すつもりなんだろ』と、あり得ないことです。否定したのですが、言葉が届きませんでした……私も、何が何だか」
「前兆みたいのはあったか?」
つらそうに傷口を抑えるブラザーは首を横に振る。
「前触れなくいきなり集団ヒステリーか。どうもマトモじゃないねえ――エルザ、神父に人を集めさせろ。戦えるヤツだ。アイシャは周りと応急処置の準備。ヘイト、患者共を鎮圧するぞ」
僕も含めた3人が返事をする。
「ヘイト様、ヒル。彼らは怪我人です。このまま暴れていれば傷口が開いてしまいます。どうか、彼らを救ってください」
「はい。あとは任せてください」
原因不明だが、入院患者たちが暴動を起こしているのは分かった。何やら不穏なものを感じる。シリノが関わっているのか?
少し先に進むと、ふたりのブラザーが木の長テーブルを立たせてバリケードにしている。患者を押さえつけているのだ。
ブラザーのひとりが衝撃に負けて尻餅をついた。テーブルの隙間からひとりが突破してくる。
体勢を崩したブラザーを庇うように前へ出ると、必死に力を籠めて掴みかかり、殴りかかってきた。
「落ち着いてください!」
「お、お前も俺たちを殺すつもりなのか!?」
聞いた通りだ。眼前にきた顔には恐怖が刻み込まれ、左腕に巻いた包帯は血が滲んで真っ赤になっている。とても演技には見えない。
「やられる前に――やってやる!!」
「くっ!」
シンプルな白の入院着の襟元を掴んで引き上げ、足払いをかける。倒れた患者の表情に苦痛が刻まれた。
「攻撃できない……」
隣のヒルが放った強烈なフックがひとり倒す。
「この混乱だ。無力化していかないと他の連中に踏まれる。集中して怪我のないところに一発叩きこんだ方が余計な怪我させなくて済むぞ」
廊下には20名ほどの患者がいて、すでに蹲っている人影も見える。動けなくなった重傷者か、巻き込まれてしまった聖職者か。彼らを助けるためには――
『我々は弱く、殺されれば死ぬのです。刃を向けられたのなら、立ち向かわなくてはなりません』と言ったチコさんを思い出し、一気に迷いを呑み下す。
「行けるか?」
「はい」
厚い雲の隙間から、日の光が射し込み始める。
晴れ間の中、施療院の廊下でヒルと並んで歩を進める。
振りかかる椅子を左腕で防ぎ、右腕でボディブローを食らわせて、怯んだ胸倉を掴んで脇へ転がす。
ヒルは接近するひとりを前蹴りで倒し、ふたり目の突き出したガラス片を左手で捌き、右手で裏拳を入れる。
まばらに殴りかかってくる患者たちに反撃を加え、倒した怪我人を脇か後ろに流しながら戦う。一度でも倒せば、あとは後ろの聖職者たちが取り押さえてくれる。
ふたりが向かってくる。
頬を打ち、姿勢を低くして足取りで倒す。その瞬間に頭上を回し蹴りが飛んでふたり目が倒れた。転がったふたりを跨いでまた歩を進める。
鎧の防御力のおかげか、数カ月間戦ってきた経験か。相手が怪我人で強いとは言えないからか。
隣で戦っているのがヒルだという安心感からか。
怪我人に対し、申し訳ないという気持ちはあるが、
何故だろう。
普段の自信のなさを感じない。
負ける気がしない。
次の4人。武器を持っている。
一歩前に出て真正面から立ち向かう。相手の攻撃を全て受けつつ奥側のふたりへ身を捻じ込む。脛を蹴り上げ、肩に掌底を突き刺し、怯んだ顎に膝を食らわせる。
振り向くと、もうふたりがヒルによって気絶させられたところだった。自然と彼がこちらの動きに合わせてくれると思ったのだ。
目が合うと彼は口元に笑みをつくり、僕は何度か頷いた。
次だ。
前を向くと病室からひとりよろよろと出てくる。仮面の男を見たと言っていた患者だ。こちらを見ると、困ったような表情で、
「屋根の上で待つ。鐘楼を登ってこい」
とだけ言って廊下に倒れる。
「……患者たちは何か暗示をかけられてるのかもな」
「操られている?」
ああ、と答えながらも、ヒルは襲いくる患者たちをのしていく。
すでに趨勢は決している。エルザさんが応援を連れてくれば鎮圧できる。後は教会の屋根で誰が待っているのか。
「行ってきます」
「……分かった。こっちのカタがついたら加勢に行く」
鐘楼の階段を駆け登る。4階分くらい登っただろうか、石壁に造られたアーチから外を見る。オレンジ色の緩やかで広大な三角形の屋根。その向こうに広がるティリヤの入り組んだ街並み。
そして、そこに佇むひとりの人影。
屋根の方へ歩を進めると、こちらの気配に気付いたのか人影が振り向いた。
「招待状は受け取ってくれたかい?」
数メートル先の男は仮面を被っている。右半分が老人、もう半分が幼女を象った仮面だ。小柄な身体を銅色の革鎧で包み、右手でククリを弄びながら言う。
「"71番の仮面"だ。シーラは知らないぜ?俺たちの雇い主はどんなに金に困っても、これだけは手放さなかった。とっておきってヤツだ」
男は仮面を剥がした。
肩まで伸びた黒髪、クマのある目元、意地が悪そうな東洋系の顔立ち。
"ネグロン家の剣"のひとり、名はイェンマ。患者が見た仮面の男とはこいつのことだったのか?見たところ盗品の類は持っていない。
「……何が狙いですか?」
イェンマは薄ら笑いを浮かべ――
首を斬られた。
反射的に首に手を当てる。鎧のおかげで傷はない。
明らかに間合いの外にいたイェンマが、一瞬で肉薄し一撃を加えてきた。"18番の貴石"を身に付けることで、こいつは尋常じゃない速度で動ける。注意していたのに全く反応できなかった。
「あんたかヒル、どっちか殺してこいってさあ」
陽光に照らされたククリが鈍い光沢を放つ。
こちらの打撃は全く当たらない。逆にイェンマの斬撃は的確に鎧の隙間に当たった。相手は聖遺物の能力頼みではなく、戦う技量を持ち合わせている。
膝裏に強烈な蹴りを食らってバランスを崩す。広い景色と遠い地面が見えた。この高さから落ちればタダじゃ済まない。
足腰に力を入れ腕を振るうが、すでに敵は影も残さず、こちらの延髄に斬撃を加えてくる。
的確だがダメージは感じない。膠着状態にになればこちらが有利だ。ヒルや聖職者たちを待てばいい。
……本当にそれで良いのか?
正拳突きから真後ろに向けた裏拳に移行する。手甲が相手の腕を掠めた。イェンマの表情に驚きが混じる。
「へえ、読んできたか」
「次は当てます」
イェンマは野獣のような笑みを浮かべた。姿が見えなくなり、身体に振りかかる衝撃の間隔が格段に短くなる。
このままだと勝ち目はないが負けの目もない。しかし、それでは駄目だ。
イェンマは患者たちが暴れ出したタイミングで姿を現した。夜に目撃された仮面の男も、話の出所はあの病室の近くだった。こいつは今回の件に関わりがある。
血眼になる患者たち、蹲り血を流す聖職者、ヒルに迫った刃、必死に応急処置をするアイシャさん。
こいつは危険だ。ひとを平気で傷つけられる人間だ。
こんなヤツを皆と会わせたくない。
空を覆う雲は少なくなり、射し込む光が増えている。世界が明るくなる。
腹を蹴られた衝撃で大きく3歩退さがり、距離を取る。腰の鞘を引き寄せ、柄を握る。
「お前の剣なんて当たらねえぞ?」
イェンマはこちらを馬鹿にした口調で言い放った。
こいつは今日、ここで――
「これ、魔剣なんですよ。僕に勝てたら差し上げます」
言いながら緑色の刀身をゆっくりと引き抜く。相手の目を真っすぐに見る。空からの光が、僕を照らしている。
「ありがてえ、遠慮な――」
刀身が反射した光が、イェンマの眼に入り顔を顰めさせた。
――僕が倒す。
鎧の尻尾がピンと張った。負けじと足腰に気合を入れる。
話しながら敵の死角から接近させた尻尾が、相手の目が眩んだ瞬間に腰のベルトを掴んだのだ。
「逃がさないッ……!」
尻尾を思い切り引っ張って、イェンマをこちらに向かってよろけさせると同時に駆けだした。近付く顔が驚愕で染まる。
「ぐハっ、ぁ」
体重の乗ったラリアットが銅色の革鎧を捉えた。衝撃で尻尾が外れ、右腕に強い手ごたえを感じる。良いのが入った。
イェンマの小柄な身体が浮く。
まずい、バランスを崩したイェンマは屋根の縁まで転がる。
「危なっ……」
走って咄嗟に手を伸ばし――
指先が空を切った。
イェンマの姿は視界から消えている。
この高さから落ちたら――
背筋の寒さを感じた瞬間、とんっ、と背中を押される。
なすすべもなく、身体が前へと進む。
一瞬、広がる視界の中に、
屋根の上でしっかりと立つイェンマの嘲笑う顔が見えて、
世界が暗転した。