6話 呪いの鎧
「にいちゃん。さっきはああ言ったが、いいのか?多分だが、これ呪われてるぜ?」
「構いません。やってください」
屋台のおじさんに聞かれて即答する。
大広場はすでに狂乱状態だ、
逃げる人、叫ぶ人、立ちすくむ人、物陰に隠れる人。
横転した馬車を中心に、混沌の渦が広がっている。
あの中に、アイシャさんは向かって行ってしまって、姿は見えない。
案内をしてくれた彼女の姿を思い出す。仕事とはいえ僕のようなみすぼらしい相手に丁寧に明るく接してくれた。
そんなアイシャさんの笑顔が――
首から上がなくなった御者の残像と重なって―ー
強い吐き気のようなものを感じてしまう。
もし、彼女が――
そう思うとこれしか方法が無いように思える。
この鎧は頑丈そうだ。戦えなくとも盾くらいにはなれればいい。
僕はどうなってもいい。
おじさんが木で出来た簡単な作りのトルソーから鎧を外してくれる。
普通の甲冑は腕や足などの部分ごとに分かれていて、ひとつひとつ身に着けていくものだが、この鎧はそうではなく、身体の各所を保護する部品がだぶついた生地ですべてつながっている。
背中にあたる部分の中央にはヒトの背骨のような留め具が付いていて、縦に裂けている。ここから身体を入れて着用していくようだ。
手袋もブーツも付いて、背中のほうが開いたレーシングスーツ、というのが近いかもしれない。
ひとりでは着れない重量なので、おじさんに手を貸してもらいながら身に着けていく。
片足ずつ入れて、両足のあとに両袖を通す。厚い生地がたるみ、各所の保護具に当たりながら四肢を通す。
はたから見たら、蛹からの羽化を逆再生しているように見えるだろうか。
四肢を通すと、背中の留め具をおじさんが留めてくれる。
身体は完全に覆われた。ずっしりと重さを感じる。これで動けず、すべてが手遅れだったら悔やんでも悔やみきれない。
重量はあるが、おじさんがテキパキと手を動かしてくれるおかげで、それほど苦労せずに着ることが出来た。
最後に頭だ。
首の後ろにつながるヘッドフォンに似た金具を頭頂部に着ける。
頭部を守る部品だからか、厚みがある。だがこれだと頭の一部しか保護できないのではないだろうか。
最後に頬当てを着ける。これも人骨――顎の骨を模しているようだ。
下顎にあてがうと、不思議と誂えたようにぴったりだ。
頬当てとヘッドフォン型の金具が、耳の後ろでガチッとはまる。
瞬間――
物凄い圧迫感が全身を襲った。
肺の空気が押し出される。苦しい……呼吸が出来ない……涙が滲んできて、呻き声が漏れてしまう。
頭頂部に着けたヘッドフォン型の金具が、スライド式のドアが開くようにして広がり、後頭部全体を覆う。
背中の留め具が、生き物の尻尾のように伸びていく、それに従って生地の余分な部分が引き締まっているようだ。
身体にかかる圧力にまったく抵抗できない。このまま全身が潰されてしまうのではないだろうか。
各所の保護部品が関節などに密着していく。あれだけ余っていた生地はすでになく、全身タイツのようになっている。
背骨の辺りに激痛が走る。無数の針で刺されているようだ。
だが、空気は肺から完全に逃げてしまっていて、もう呻き声も出せない。
呪い――
殺される――
視界が明滅する――
眼前で何かが揺れている。
しっぽだ。背中の留め具が尻尾のように伸び、先が五つに枝分かれしている。
手の骨格標本のように見えるそれが、何かを持って顔の前で揺れていたのだ。
鎧の尻尾が持っていたのは十字にスリットが入った面だ。
こちらを見ていたあの面だ。
脳にまで酸素が行かなくなったか、視界が霧に埋没していく。
真っ黒い影と、傾いた白い十字架が近づいてくる――
うやうやしく面が顔を覆い隠した。
それを最後にやっとすべての苦痛から解放された。
脱力し、両膝をついてしまう。
にいちゃん!大丈夫か!と声が聞こえる。
おじさんはずっと声をかけてくれていたようだ。
だいじょうぶ、となんとかかすれた声を出すことができた。
スリットから自分の手を見てみる。輪郭は出来たが、意外と視界は悪くない。
指先を動かしてみる。体の動きは全く阻害されない。
着るときはあんなにずっしりと感じていた重量が、今は嘘のように軽い。
長い時間苦しんでいたように思っていたが、時間はそんなに経っていないようだ。
広場の狂乱の様子はあまり変わっていない。
何とか動けそうだ。
アイシャさんが心配だ、早く行かないと。
騒ぎは目と鼻の先だ。
逃げていく人々を避け、混沌の中心へ駆ける。
火事場の馬鹿力というやつか、今までの自分より早く走れている気がする。
普段なら絶対やらないが、人を押しのけながら前に進む。
人ごみを、抜けられた――
見えたのは、口が縦に割れた、犬のような、化け物。
そいつが、アイシャさんに馬乗りになり、腕に嚙みついて――
アイシャさんから、人のものとは思えない絶叫が聞こえた。
理性がブチ切れる音がした。
こちらも絶叫をあげ、化け物に突進する。
一瞬で化け物に肉薄し、拳を捻じ込む。
化け物の身体にめり込んだ手から、何かが千切れるような感触が伝わる。
人生で何かを殴ったことなどなかったが、今はどうでもいい。
すべてがどうでもよく感じる。
ただ、今は、
お前を――
化け物は呻いて口を離し、こちらを見る。
僕を敵と認識したように見える、上等だ、
お前を――
化け物が突進してくる。
速い、反応が遅れ、左腕で牙を受ける。
化け物は物凄い力で牙を立てるが、
興奮しているせいか痛みは無い。
構うものか、
お前を――
左腕を噛ませたまま、強引に懐に引っ張り、右腕で上から化け物の首をホールドする。
ヘッドロックのような体勢になる。そのまま渾身の力で締め上げていく。
化け物は抜け出そうとするが、解放してやる気はない。
牙が離れた左腕で右手首をつかみ、さらに力を入れる。徐々に腕が、金属のような保護具が、化け物の首に食い込んでいく。
血だまりに横たわるアイシャさんの、蒼白になった顔が、視界の端に見えた。
――殺してやる。
視界が明滅し、あたまが殺意一色に染まる。
腕の力をさらに込める。堅い鎧が肉にめりこむ。
なにかが折れる音がした。なにかが千切れる音がした。
いや、まだだ、まだ。
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる――
「にいちゃん、もういいんだ。ありがとう、悪かったな」
屋台のおじさんに肩を叩かれ、我に返る。
脊椎だけが胴とつながった化け物の首が、ころんと腕から転げ落ちて、
それきり動かなくなる。
逃げなかった人々が遠巻きに僕を見ている。
僕は化け物の血を浴びている。
静かだった。
視界が明滅している。
アイシャさんは?
彼女の方には数人のシスターが集まっていた。
治癒の秘跡だったか……助かるといいが……
もし、助からなかったら――
彼女の笑顔を思い出す。
視界が、暗くなる時間が長くなっている。
視界がぐらぐらと揺れている。
僕の手は魔物の血で真っ赤に染まっている。
他に怪我した人は?
世界が大きく揺れる。地震だろうか?
「にいちゃん?にいちゃん!」
おじさんの声が遠くで聞こえる。
視界の半分が地面で埋め尽くされる。
――ああ、揺れていたのは、僕か。
身体がひどくだるい。起き上がれない。指一本動かせない。
視界が暗くなる。
おじさんの声がはるか遠くに聞こえる。
僕は血でずぶ濡れになっている。