65話 昔話
「Hate?コードネームか?」
「それが、本名なんですよ」
屈強な男性の青い瞳が、こちらを見ている。
30代後半くらいか。白い肌に無精ひげを生やし、硬そうなダークブロンドの髪を短いモヒカンにしている。
「そうか、失礼した。俺も"アーリマン"なんて異国の悪神の名だから、昔は色々と言われた」
彼は口角を上げてこちらを見ながら、まな板に乗る豚肉を挽肉にしている。
アーリマンは確か、ゾロアスター教における悪神の名だった。彼も自分の名前の所為で苦労したのだろうか。日本の高校生と、アメリカの元軍人と立場は全然違うのに、妙な共通点だと思う。
「マイケルさんもですか?」
茹でて柔らかくなったトマトをへらで潰しながら質問する。
そう言えば、名前いじりはこちらの世界に来てから初だ。高校に入ってからはちょこちょこあったような気がする。どうしようもないのでそのうち慣れたが。
今日はいつもの村で、先月召喚された新たな使徒であるマイケル・アーリマンさんの歓迎会をやる予定で、その準備を手伝っている。酒場のキッチンは女将さんが使っているので野外調理だ。自警団のひとたちとは別行動をしている。
ミックでいい、と呟き、ミンチを卵やパン粉と一緒に捏ねる。大量の挽肉は相当に手ごたえがあると思うのだが、太い腕は淀みなく動いている。
「口さがない連中が煩わしいのは、何処の世界でも変わらないと思っていたが――まさか別世界で使徒として崇められるとはな」
世界が変われば音の持つ意味も変わる。当たり前のことだが考えたことがなかった。名乗るとき、変に構える必要などないのだ。
彼の作業がひと段落しそうなので、フライパンにたっぷりとオリーブ油を入れ、焚火に当てて温める。
脇では包丁を持った鎧の尻尾がニンニクやらパプリカを器用に刻んでいた。鎧を着込んだまま食材に触るのは衛生的にどうかと思ったので、他の手を借りている。味も見れないので、誰かの舌も借りなければならないだろう。
尻尾がニンニクをオリーブ油に投入した。女将さんから弱火でニンニクの香りを油に移すと指示を受けているのだが、いかんせん焚火なので調節が難しい。
「ミックとヘイトって料理できたんだ」
フベルトさんが話しかけてきた。アントニオさんはフライパンを覗き込んでいる。
「自分の面倒は自分で見れないとな」
「簡単なものですけど……和えたり、汁物とかなら、多少は」
「うぅん。ヒルのヤツ、ちょっとやり過ぎじゃないか?」
眉根に皺を寄せたアントニオさんがそう言う。相手が酷い目に遭った、この間のことについてだ。加熱されたオリーブ油を見て頭をよぎったのだろう。
僕としてはせっかくの食べ物をぶちまけるなんて勿体無い、くらいの感想だった。
「はっきり言っておくが、俺は協力しないぞ」
「料理の話か?アントニオ」
「勢力争いの話だ。ミックも人に銃、向けたくないだろ?」
「フッ――そうだな。手を貸さないのには同意だが、やり過ぎとは思わない。こっちが優しくしたとき、それに感謝するほど相手方はできた人間じゃなさそうだ」
「あ、焦げちゃう……」
ニンニクがキツネ色になり始めている。フライドガーリックを作りたいのではない。
ミックさんは拵えたミートボールを僕のフライパンに投入しながら、アントニオさんと話している。
ミートボールを焼き色がつくまで焼く。テフロン加工などないので、あっという間に焦げつきそうだ。
「相手は魔物じゃなくて人間だぞ。どうやったって暴力は恨みが残る。司法を介入させて、燃え上がった問題に水をかけてもらった方が良い」
「身に降りかかる火の粉は自分で払いのけなきゃな。得てして、役人が水を汲んでくるのは、助けを求めた人間が丸焦げになった後だ」
刻んだパプリカ、潰れたトマト、古い赤ワイン、虫喰いのある香草。
「ヘイト、塩忘れないで」
「あ、フベルトさん。ありがとうございます」
貴重な塩。
この赤い混沌を、10分くらい煮たら、ミートボールのトマト煮、『アルボンディガス』が完成――
してるといいが。
乾杯は終わっている。ミックさんの挨拶も終わった。
村の酒場でやっているのだから、ひとは自然と集まってくる。気付けば大宴会になっていた。
今同じテーブルを囲んでいるのは、フェルナンドさん、メサさん、ローマンさん、そして呑み過ぎで潰れた教授だけだ。
僕が作った料理について、皆は口を揃えて『まあまあ』と言った。あまりに遠慮の無い感想に安心してしまう。
「グレイヴ・ワン、ですか……」
フェルナンドさんが杯を置いてそう呟く。その目線はテーブルを向いていた。
あのならず者風の警備会社が名乗っている名前だ。話題として挙げたが、すでに街中に知られており、当然ふたりも知っていた。
「かつて王都で、神罰教会を母体とする地下組織が、諸侯の懐柔や破壊工作をしているとの情報が入ってきていました」
「謎の地下組織……」
どこかで聞いた言葉を思い出す。
「王都で何があったんだ?」
ローマンさんが穏やかな声色で聞く。
「はい。12年前のことです――」
メサさんが引き継いだ。
始めて聞く、王都で起きたクーデターの話だ。
「当時、現王は一介の伯爵でしたが、前王に特別扱いをされていました。軍事の才に溢れ、武人としての在り方にも信頼があったからです。前王が兵を動かす際は必ず助言を求めていました。
前王は、現王の智慧を借りて敵を退けていきました。順調に。
ただ、前王の切っ先は常に主の敵たる魔物の方を向いていました。現王はしきりに苦言を呈していたようです。
北方諸国の結束が強くなり、海の向こうにある国から援助されているのを知っていたからでしょう。黒い森はセフェリノ様に一任し、軍の主力は敵対国へ向けるべきだと主張していました。
前王がその意見を受け入れることはありませんでした。最後までです。
――ある時期から、王都は変わり始めたと言います。
飢饉、疫病、治安の悪化、北方諸国による侵略の噂、前王派諸侯の失脚と暗殺。
異教徒たちが都に蔓延り、偽りの神の名を叫びながら、処刑台に送られる。
前王の意見を支持していた諸侯は現王の意見を支持するようになり、治世は乱れ、求心力は失われていきました。
弱体化した前王の政権を倒さなければ、この国に未来は無い。誰かが行動を起こさなくてはならない。
まるで現王のために、クーデターという演劇の舞台が整えられたような、そんな状況だったと言います」
『何故だ、何故――
如何してこうなったのだ?教えてくれ、フェルナンド――』
「突然、王都に巨大な魔獣が現れました。何匹も、止めだと言わんばかりに。
蹂躙され、燃え盛る王都を目にしたときの、前王の御言葉が忘れられません」
メサさんは口を閉じた。彼女の口振りは物語を読み上げるようだったが、フェルナンドさんのそれは違う。
彼は、当事者だ。
「私たち親衛隊は王家に伝わる聖遺物を手に出陣しましたが――力及ばず、撤退になりました。
前王にはもう、戦う力が残っていないことを、私たちが証明してしまった」
テーブルの上で祈るように手を組み、懺悔するように言葉を紡ぐ。
「私は前王の最後の命令を帯び、王都から離れました。大軍を率いた現王が現れ、魔獣を討伐していくのを遠目から眺めていた、その時です――」
組んだ大きな掌に、力が込められていく。
『フェルナンド・イエルロ。王の宝剣か』
「王都から離れようとする、赤い鎧に身を包んだ集団と出会いました。紋章を掲げず、どこの諸侯の騎士にも当てはまらない装備。
何より首領と思われる男の鎧は、この世の物とは思えないほど精巧に作られていた――不思議と、その集団がグレイヴ・ワンだと悟ったのです」
『こんなはずじゃなかったんだけどな』
「赤い鎧の男は、崩れていく都を一瞥し、言いました。
理性を失った私は、その男に斬りかかり――
その槍に敗北しました。鎧にかすり傷を付けることすら叶わなかった」
「君ほどの実力者が?」
ローマンさんが静かに問う。僕も同じ疑問を持った。フェルナンドさんが完敗なら、誰が勝てると言うのだろう。
「斬り込みもフェイントも全て読まれ、返されました。まるで手の内を全て明かして勝負をするようだったのを覚えています。
才のある者が、百年以上訓練に明け暮れたような動き。強さの厚みが違った」
『ああ、不公平だと思ってるよ』
「あの男は私たちを見逃しました。何故だったのかは――分かりません。
その後、現王は混乱の原因たる前王の関係者を追放し、王座に着きました。そして今の王政になります」
「メサちゃんって、そのとき何歳だったのぉ?」
「フフッ、6歳ですわ」
ニコニコと楽しそうなアントニオさんがフェルナンドさんと肩を組んだ。もう片方の手にはワインボトルが握られている。
「いっこ上……だと……」
愕然とする。常に落ち着いた態度を崩さぬ、淑女然とするメサさんだ。もっと年上だと思っていた。
「暗いぞフェルナンド?今は祝いの席だ!」
そう言いながらアントニオさんは、フェルナンドさんのコップにワインを注ぐ。テーブルに漂っていた重い空気が、ふっと消え去ったようだ。
「アントニオ様の仰る通りですね、失礼いたしました。このお話は止めに致しましょう」
フェルナンドさんは柔らかい笑みを取り戻す。それ以降、グレイヴ・ワンの話は出なかった。