62話 ある晴れた日のこと
世界が色づいてきたように思う。
徐々に暖かくなってきているのだ。畑一面の小麦やブドウは緑が鮮やかだし、花壇の花々は思い思いの色を披露している。畑の近くを散歩しているだけでもそう退屈はしない。
村人たちは暗めの外套を脱ぎ捨て、白や黄色や緑に衣替えを始めている。そんな季節なので、黒くて武骨で髑髏な"呪いの鎧"を着ている自分が場違いに思えてくるものだ。
ふと、黒くてゴツくて中指サイズの昆虫が地面を散歩しているのを見付け、妙な親近感を抱く。
「ああ、退屈で最高な日だ。アダリナ、2本目開けようぜ」
「いけません、ヒル。午後からシリノと会談なんですから。間抜けな姿を見せるつもりですか?」
自警団のリーダーであるヒルさんのやる気は、テーブルに置いてあるワイン瓶と同じで空だ。鍛え上げられた長身を椅子に深く預け、長い足を組んでいる。いつにも増して気怠げな瞳は、踏み固められただけの農道を見ている。
「2本くらいじゃ大丈夫だよ。はぁ、何が楽しくてこんな天気の良い日に、あんな不健康な犬面を見に行かなきゃならねえんだ」
「しょうがないでしょう。商会の顔役から直々の呼び出しです。応じなかったら後で何を言われるか」
健康的に日焼けした顔を歪ませて嗜めているのは、自警団員のアダリナさんだ。一向に仕事へ行こうとしない上司を、気の強そうな眼で睨んでいる。
20代くらいの、綺麗なひとだと思う。この女性とは以前一度だけ顔を合わせて、今日会うのは二度目だ。
「面倒だなあ」
「あのね」
こんな会話を集まってからずっと聞いている。
街からほど近い村だ。自警団の事務所となっている木造の平屋の庭にテーブルを出して、4人で暇を潰している。
もうひとり大柄な男性が同席している。30代後半くらいか、縦にも横にも男子高校生である僕よりずっと大きい。
見覚えがあるなと思ったら、先月の始めにヒルさんたちと馬車で移動していた時に、御者をやっていたひとだ。彼が無口なのは、喉の病気の所為だと聞いた。
名前はブルーノさんというらしい。
「ですがそろそろ準備しなければ」
「少し待たせるくらいで良いんだよ」
「だ、代表っ」
緩慢な陽気をかき乱すように、落ち着きを失った声が馬の蹄の音と共に聞こえた。
馬を急がせて現れたのは自警団のチコさんだ。
急いで下馬し、こちらへ近付いてくるラテン系の男性は黒髪を乱れさせ、青い顔をしている。普段は真面目そうで落ち着いた印象を受けるが、今の彼からはそんな余裕を感じない。
何かあったのだろうか?
影像の件が終わったのはつい先日だ。どうしても不安がよぎる。
「どうした?落ち着け」
「あ、その、フェリシアが……」
「おいまさか、今日か?」
ヒルさんの問いに対してチコさんは唾を飲み込みながら頷く。
「ブルーノ、馬車出せ。地区教会だ」
だらけていたヒルさんとブルーノさんは別人のように素早く立ち上がり、手早く馬車の支度を始めた。
「ちょっとヒル!シリノは?」
「放っとけ。こっちの方が大事だ」
緊急事態のようだ。ヒルさんは約束をすっぽかすのだろう。
アダリナさんが一瞬白目を剥くのが見えた。可哀そうに。
それより、状況が飲み込めない。
「あの、ヒル……さん?何がどういう」
「ああ、ヘイトも付いてきてくれ。フェリシア――チコの嫁さんな。産まれそうだ」
「は?」
「だから出産だ。赤ん坊が産まれそうだってよ」
馬で先導するチコさんに続いて馬車で移動する。程なく村の地区教会に到着した。
古びた石造りの建物だ。二階建てくらいの高さで、塔には小ぶりな鐘が吊られているのが見える。敷地内には家庭菜園くらいの畑と、小ぢんまりとした墓地がある。
領地にはこうした地元に密着した教会が建てられている。街の教会と比べてずっと規模は小さいが、村の人々にとって重要な場所だ。
安息日の朝に集まってお祈りをしたり、ご家庭で手に負えない怪我や病気をした時には、司祭に秘跡を施してもらったりする。
頻繁に街へ出向くのは時間的にも経済的にも現実的ではない。
落ち着かない雰囲気の礼拝堂の中、奥に向かって歩を進めると、混沌の中心へ向かっているような感覚がしてくる。
徐々に大きく聞こえてくる女性の絶叫。
大声の指示と沢山の足音。
廊下では年配の女性たちが慌ただしく動いている。
診療室の前まで来ると、痛みに耐えるような叫び声がはっきりと聞こえる。
この扉の先は出産の最中だと。
扉の先が恐い。
入ってしまっていいのだろうか?
僕はアダリナさんとブルーノさんと一緒に礼拝堂で待機していようか?
と思っていたらヒルさんがあっさり開けてしまった。
歯を食いしばっている女性が見えた。長く豊かな黒髪が脂汗で顔に貼り付いている。あれがフェリシアさんだろう。
緩いシーツのような服を着るフェリシアさんは何かに跨るような姿勢で椅子に座り、天井から吊られた布に捕まっている。
その身体を何人かの産婆が支えて大声で励ましている。
「こんだけ産婆がいんのか。俺の出番は無いかな」
ヒルさんは水瓶でざぶざぶと手を洗い、司祭のおじいさんから"解毒の秘跡"を受けて消毒を済ます。
「ヒルさんって、取り上げ……助産も出来るんですか?」
「えぇと。確か千人くらいはやってる。生死は別にして」
「冗談でしょう?」
ハハハと笑いながらヒルさんはフェリシアさんの方へと向かった。
すれ違うようにおばあさんがひとり近付いてくる。
「チコ、あんた嫁放っておいてどこ行ってたんだい!?」
口調は質問と言うより詰問だ。
犯罪者の恫喝を相手に眉ひとつ動かさなかったチコさんが縮み上がっている。
「あ、いや。代表を連れてこようと……」
「そんなの別のヤツに行かせりゃいいだろッ!!まったく。陣痛の間隔が短い、もう頭出そうだよ」
「頭……」
「頭……
あっ!チコさんしっかり!」
呆然としたチコさんと僕の声が重なり、咄嗟に力が抜けた身体を支える。
「フェリシア、もうちょっとだ。頑張れ」
「ああ……ヒル。来てくれたのね……シリノと約束……あったんじゃないの?」
「どうでもいいさ。こっちの方が大事だ」
ヒルさんが姿を見せるとフェリシアさんの表情が少しだけ和らいだ。信頼されているのだ。
「ひ、ヒル。フェリシアは……俺はどうすれば……」
「チコぉ。お前は父親なんだぞ。顔面引き締めてフェリシアの傍に居ろ」
フェリシアさんは呆れた笑顔を浮かべ、狼狽するチコさんを見ている。
「ひ、ヒルさーん。ぼ、僕は何したらいいでしょうか?お湯沸かすとか……」
「あー。もう沸いてる」
「じゃあ、ええと」
「ハハ、そう焦るな。大丈夫だ。そうだな、今は穢れ無き誕生と母子の無事を祈っててくれ」
ヒルさんの目配せを受けた司祭が、僕に本を渡してくる。古いが、しっかり手入れされている、どこか威厳を感じる本だ。
適当にページを開くと、敷き詰められた異国の文字が見えた。見知らぬ文字列だが不思議と読める。これも異世界から来た使徒が持たされる準才能のおかげか。
「――『すると、カラスが朝と夕毎に彼の所にパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ』――」
というか女性としては男性が取り上げるってどうなのだろう。
恥ずかしかったりしないのだろうか。
いや、緊急事態だしそんな考えは妊婦さんに失礼だろうか。
この世界は概ね中世くらいの時代に見えるし、性に関しておおらかだったりするのだろうか。
ああ、そもそも現代においても産婦人科に男性医師は大勢いるか。
部屋の混乱が感染るようで、そんなことばかりぐるぐると考えてしまい、読んでいる内容が頭に入らない。
「――『主に呼ばわって、わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください。と言った』――」
怒号のような指示と。
妊婦の悲鳴と。
それを励ます夫の声。
その中で本を読んでいる僕。
滅茶苦茶頑張っている皆の前で、邪魔にならないように棒立ちで本を読んでるだなんて。
呪いの鎧を着ていることでいくら死ななくても、こんな時は役立たずだ。
どのくらい時間が経っただろうか。
おぎゃあ、おぎゃあ、という声が響き渡り、
「可愛い女の子ね」
と、誰かが言った。
春の陽気が戻ってきた。
部屋には和やかな雰囲気が漂っていて、各々の祝福や感謝や労いが、輪唱のようになっている。
ベッドに寝かされたフェリシアさんの傍に、赤ん坊を抱いたチコさんが屈んでいる。
何も問題はなかったようだ。ほっとしてしまう。
「ヘイト様、抱っこしてくださいませんか」
と憔悴した表情のフェリシアさんが声をかけてきた。
「ああ、いや、でも、やったことない」
赤ん坊を抱っこした記憶は無い。落っことしでもしたら大変だ。嫌すぎる。
「祝福してやってくれ」
ヒルさんに言われて、
「ヘイト様、よろしければ」
涙を浮かべたチコさんが赤ん坊を近づけてくる。
椅子に座り、黒く武骨で厚い布地に覆われた両腕を伸ばす。細心の注意を払いつつ、清潔な布に包まれた小さな命を受け取ると、その重さに震え出しそうになる。
「アカチャン……」
うっすらと黒髪が生え、しわしわで赤みがかった肌の赤ちゃんはわんわん泣いている。
皆はその様子を見て微笑んでいる。
誰かもう代わってほしいのだが……
「使徒様、これを」
司祭さんが杯に入ったオリーブオイルを差し出してきた。わけが分からずまごまごしていると、耳打ちでこの世界でのやり方を教えてもらえた。
チコさんに支えてもらいながら右腕で赤ちゃんを抱き。呪いの鎧に覆われた左腕、その薬指にオイルを付け、額に小さな十字を切るように塗り付ける。
これで合っているのか?
「我らが主の遣わした使徒様直々の福音だ。めでたいねえ。きっと健やかに育つな」
ヒルさんがはにかみながらそう言う。
フェリシアさんとチコさんの赤ちゃんを見る目は慈しみに満ちている。
この子は間違いなく祝福されて生まれてきたのだ。
赤ちゃんと目を合わせ、教えてもらった聖典の一部を口にしながら、自然と湧いてきた祈りを捧げる。
過酷だが美しいこの世界で、元気に育ちますように。
「我が信仰を、新たな旅人への贈り物に」