60話 5月1日 影の通り道
「俺たちはドッペルのことを知らなすぎた」
雨が降っている。
小雨だ。
外套の頭巾にあたる雨音が鼓膜に響いている。
「飛べるならヤバくなった時点で逃げられただろうに、あそこまで獲物に執着を見せるとは思わなかった」
ヒルさんは曇天を見ながら続ける。
彼の言う通りだ。自分の生存を優先させるなら、僕がネグロン邸に行った時点で姿を眩ますこともできた。
もっと言えば、そうなる前にソル・ネグロンという殻を捨てることもできた。
――いずれにしろ、奴が何を考えていたのかはもう分からない。
ヒルさんとふたり、同じような雨具を着て街を散歩している。
口を開けている街の門が見える。
ここで終わったのだ。
「執着心、ですか。教授が言っていました。ドッペルは今の姿を気に入っているって」
「なるほどね。結構感情的な魔物だったのかもな。
別の姿になるのは嫌、というか面倒臭さかったのか。いざとなったら鳥になって逃げられるって自信も持ってたのか――
実際のところ、今月召喚された使徒のマイケルだったか?そいつがいなきゃ逃げられてた」
「そうですね。見事な狙撃でした」
あの時、ナイフを向けるソル=ドッペルの手首を吹き飛ばしたのは、マイケル・アーリマン。
彼の才能、"8番の武器庫"でライフル銃を発現させ、アントニオさんが観測手となり、遠方から致命傷を与えた。
体調を取り戻した彼に、教授とアントニオさんが協力を頼んでいたようだ。
優秀な監視役として、そして獲物の知らない切り札として、陰ながら支援してくれていた。
「ヒル、ヘイト様」
男性の声に呼び止められる。
最初に話を聞いた衛兵だ。あの時よりも少しだけ顔色が良くなっている。
昨年末、農村で連続殺人を起こしたドミンゴ=ドッペルはここから街へ入った。
街の悪夢はここから始まった。
「あの化け物、ちゃんと死んだな」
「ああ」
衛兵の問いにヒルさんが答える。
「ありがとう、本当に。ドミンゴの名誉を取り戻せた」
ヒルさんはひとつ、はにかんで見せる。僕は軽く会釈した。
少しだけ話し、次の場所へ向かう。
街の北西にある年季の入った宿だ。
雰囲気に馴染む陰気な客がふたり、酒を吞んでいる。
「よお、多少は景気が良くなったみたいだな」
「そうなってもらわなきゃ困る」
ヒルさんの軽い口調に、憮然として答える店主。
"悪魔の住み着いた宿"と呼ばれていた場所だ。
ここに神罰教会の構成員であるヘルトルディスが数カ月の間滞在していた。とは言っても、ティリヤ大学の近くで"顔の焼かれた女"が発見されたのが今年の始めだから、ほとんどはヘルトルディス=ドッペルとして暮らしていたことになる。
「噂は消えたかい?」
「いいや。今は、"魔物の住み着いた宿"だ。まったく冗談じゃねえ――なんか飲んでくか?奢るぜ」
「ほう、珍しいな。だが今日は顔見に来ただけだ。また今度頼むよ」
軽口を叩きあい、宿を後にする。
ヒルさんと松明を持って、廃教会の地下に造られた共同墓地を歩く。
ここで神罰教会の連中がたむろしてた。その目的は依然として不明だ。捕縛された構成員は皆口を揃えて『預言者の命を受けて来たのだ』と言っていたらしい。
「預言者に従って王都からこの街へ来たヘルトルディスは、『死んだ夫に会えた』って言っていたようだ」
「死者と会った、ですか。それはドッペルの変身した姿だったのでしょうか」
「そうだろうな。親しい人間の姿を真似て油断を誘った」
歩きながら、蓋の開いた石棺を見る。
3月13日にソル・ネグロンを殺害したヘルトルディス=ドッペルは、その遺体をここへ運び、安置されている石棺のうちのひとつに隠した。それからヘルトルディスの姿は見られていない。
一通り見て回ったが、不審なことは何もない。
この墓地の静謐さを邪魔するのは、今や僕とヒルさんだけだった。
今は昼過ぎだろうか。
早朝から降っている小雨は止む気配を見せない。
大きな庭、大きな屋敷の周辺を、沢山の役人が出入りしている。
ネグロン邸。
ここに住んでいた人間はもういない。そのはずだが、大小ふたりの手を繋いでいる人影が見える。相合傘で雨をしのぎながら屋敷の方を見ている。
近付くと、小柄な方は少年でティロ・ネグロンだと分かった。そしてもうひとりは、
「テルセロ?」
金髪、白い肌。
この屋敷の主、テルセロ・ネグロンは魔物を匿っていたことで連行された。
目の前まで来ると違う人物だと気付く。
「エンリケ・ネグロン。テルセロの長男だ。3月末から領主と縁のある貴族のとこで働いてた。住み込みでな」
「お初にお目にかかります。エンリケ・ネグロンと申します。この度は父が、いえ、テルセロが我らが主を裏切り、贖いのしようもありません」
そう言って、深々と頭を下げる。
若いが、テルセロによく似ている。10代後半くらい、もしかしたら僕と同い年かも知れない。
「ヘイト様には、テルセロの暴走を止めて頂いたと聞いております。感謝を」
「やめてください。僕はあなたの父親が憎くてやったんです。感謝も謝罪も筋違いだ」
自分で思ったよりも硬い声が出た。エンリケは頭を下げたまま何かを堪えるように少しだけ震える。
肉親を憎いと言われた息子は、僕の言葉をどう受け止めたのか。
「……はい」
「――入ってもいいか?」
「……どうぞ、ご案内します」
タイミングを見てヒルさんが口を開き、エンリケは短く答えた。
あの客室に通される。今月の始めにテルセロから話を聞いた客室だ。聖遺物の甲冑は無くなっている。
ティロが入って来た扉が目に入る。あの時僕の前に現れたソルは、すでにドッペルだった。
「妹が魔物に成り代わっているなど、気がつきませんでした。不甲斐ないことですが」
「誰も気付かなかったんだ。そういう魔物なんだよ」
後悔を滲ませて話すエンリケに、ヒルさんが投げやりに答える。恐ろしい目に会ったティロは、大人しく椅子に座っている。兄から離れたくないのかもしれない。
「エンリケ。お前が出向になったのは3月末――テルセロが大規模侵攻作戦から帰って来てすぐだな?」
「仰る通りです。あの夜父が帰って来たと聞き、労いに父の部屋へと向かいました。ですがその様子は尋常では無く、私の姿を見るなり『ティロと部屋に戻っていろ』と。
次の日の朝には、追い出されるように屋敷から離れました。その時は疑問に思っていたのですが……」
ヒルさんは無表情で、大きく息を吐いた。
「この屋敷の地下室から、男と女、ふたりの遺体が見つかった。どちらも背骨が酷く損傷していたそうだ。片方は"ネグロン家の剣"のブランって男だ」
「水晶を持った、索敵していた男ですね」
そうだ、とヒルさんは肯定する。エンリケは深く項垂れ、その表情は窺えなくなる。
ブランの遺体が屋敷の地下室にあったということは――
「あの撤退戦で、聖遺物の力を使ってうまく魔物を避けたふたりは、一緒にこの屋敷へ戻ってきた。そこでソルと会ったんだろうな」
黒い森からテルセロと共に帰って来たブランは、屋敷の中で魔物の反応を見た。
すぐ近くに、魔物がいると。
いるはずがない。
顔を上げると、娘がひとり立っている。
「テルセロは、そこでドッペルを仕留めるべきだった。できたはずだ。だが――」
娘を生きて返して欲しければ、言うことを聞け。
「脅迫されたんですね」
実際に見たわけではないが、その情景は浮かんでくる。
その時にはソル・ネグロンは死んでいて、遺体は共同墓地にあった。ドッペルは嘘をついたのだ。それを知らないテルセロは脅迫に屈してしまう。
「テルセロはブランを捕縛し、地下室へ監禁した。使用人のジジイがいただろ。あいつだけは事情を知っていて、しばらくブランに食事を運ばせていたが」
ヒルさんは言葉を止める。
ドッペルは2,3週間に一度、ひとを殺す。3月13日から、遺体は出ていない。
「ドッペルの生贄になった」
淡々とした言葉が隣から聞こえた。僕は拘束されているわけでもないのに、身動きひとつ取れない。
エンリケ・ネグロンが屋敷を出されたのは、庇うためだ。息子は罪には一切関与していないと証明するために遠ざけられた。おかげでエンリケは、国会から激しく尋問されるだけで済んでいる。
「今月に入ってしばらくすると、ソル=ドッペルは次の獲物を要求した。テルセロは固く口止めをして大金を積んで女を買い、屋敷に招いた」
アントニオさんが探していた女性。
ペトロナさんだ。
彼女がどうなったか――
「最悪です」
口から勝手に言葉が漏れる。
今後のことを話していたようだが、頭に入っては来なかった。
ヒルさんとエンリケの会話をしばらく聞いて、ネグロン邸から出る。
屋敷から出ても雨は止んでいなかった。
日暮れは刻々と迫っている。
「アイシャから聞いたが、やっぱり懺悔室でニルダの話を聞いて、ひとりでネグロン家に行ったみたいだ。その日テルセロは侵攻作戦に行っていて、出迎えたのはソル=ドッペルだった」
「それは……」
ドッペルは訪ねて来たのがアイシャさんだと知って、その記憶を多少は知ったはずだ。一歩間違えば、二度と彼女には会えなかったかもしれない。
「使用人のジジイが『主人が帰ってきたら判断する』ってアイシャを庇った。地下室に監禁することにはなったが、とりあえず危害を加えられたりはしなかった」
「……ティロ・ネグロンが体調を崩した時、アイシャさんが看病したそうです。そのお礼みたいな感じですかね」
「それもあるだろうが、ビビったんじゃねえかな。身元のよく分からない傭兵や娼婦だけならともかく、聖職者まで殺すのはまずいって」
「そう、ですか」
聖職者への危害は重罪だと聞いている。
アイシャさんを守ったものが、恩や縁ではなく利害だったと言われて、やるせなくなってしまう。それを納得してしまうことも、命を貴賤で判断したことも、後味の悪さを感じた。
「なあ、ヘイト」
「なんですか?」
一転して軽い調子に戻ったヒルさんの言葉に意表を突かれる。
「これから自警団で働いてみないか?」
「それは、どういう意味で……」
「ドッペルは死んだが、街には問題が残されてる。頭の無い御者を殺ったのは誰なのか、魔法使いのカジョが誰を狙ってたか、神罰教会の目的に、ニルダを脅迫していた男。
魔物と戦うのも良いが、それはほどほどにしてもらって――手を借りたい。
チコも褒めてたが、ヘイトは良い働きをしてくれた。今後も一緒にやれれば楽しくやれるんじゃねえかと思ってな」
今月僕は、ドッペルの捜索に注力し、侵攻作戦に参加しなかった。
これまでは魔物と戦うことが多かった。ヒルさんは、今回のように街の安全に貢献するという選択肢を提示してくれている。
彼の誘い文句は魅力的だ。建前上かもしれないが、ヒルさんは僕を買ってくれている。それが嬉しく思える。
「少し考えます。良いですか?」
「もちろん。ま、前向きに頼むよ――それともうひとつ」
「はい」
「何時になったら『ヒル』って、変な敬称付けないで呼んでくれるんだ?」
「え?」
「今月の始めにアイシャとお前に言っただろ?」
「ああ」
馬車で事件の話を聞いていた時、ヒルさんに対して丁寧に質問するアイシャさんに、そんなことを言っていた気がする。
あれは僕にも言っていたのか。
「できれば、このままで」
「じゃあ、お前のこともヘイト様って呼ばなくちゃな」
「ああ、それはちょっと。えぇと、ヒル……さん」
何かに耐えられなくなり敬称を付けてしまった。さらっと呼び捨てにしてしまえば良いものを。
自分のコミュニケーション能力にうんざりしてしまう。
「ま、どっちも早めに返答してくれ。ヘイト様よ」
ハハハと、ヒルさんは笑った。
今日はいつもの村に戻るつもりだったので、ヒルさんに軽く挨拶をして馬車で街から出る。
日が暮れる寸前に酒場に着く。珍しく他の皆はいない。
ほぼ僕たち専用のテーブルとなっている席に着くと、机の上に飾っていたアーモンドの枝がすっかり枯れていることに気が付く。
何時からこうなっていたのだろうか。頬杖をついて、侘しさを醸し出す花瓶を眺める。
先生だったらどうしていただろう。
あの曇りのない日本刀で、しがらみも邪魔する者も全て一刀両断して、後腐れなく解決していただろうか。
しばしの間、違った結末を夢想する。
「詮無いな」
自然と独り言が出た。
木刀は何処へ仕舞っただろうか。
僕の部屋の引っ越しを勝手にやったメサさんに聞いてみよう。
無性に素振りが、稽古をしたくなる。
これから、自警団で働くかは分からない。
だが、ヒルさんに稽古の相手を頼んでみようかと、
そう思った。