56話 4月22日 残影
女の名は、ヘルトルディス。
黒い森を信仰の対象とするカルト教団、"神罰教会"の構成員。
教授は遺体の左手に指輪跡があるのを発見し、犯行現場を洗うと、特徴のある銀の指輪を発見した。
そこから数名の学生と捜査を続け、情報を集め、つぶさに可能性を消して、その結論に至った。
裏付けはヒルさんと共に行ない、確信したようだ。
4人目の遺体、"顔の焼かれた女"の捜査は、教授たちの手によって終わっていた。あとは、女に成り代わったドッペルの潜伏場所を襲撃し、身柄を拘束するだけ。
ヘルトルディスは昨年の10月頃には街に入っていた。そこから1月始めにティリヤ大学の近くで、ドッペルに殺害されるまで長期滞在している。その目的は不明だ。
その関連性は明らかだ。何故なら、"悪魔の住み着いた宿"の店主が、1月初めに死んだヘルトルディスの姿を、3月13日まで目撃しているから。
宿の店主が記していた宿帳によると、ヘルトルディスは街に入ってからずっとこの宿に寝泊まりし、エネーアさんが殺害された当日に姿を消している。
チコさんが捜査していた、背骨が酷く損傷した遺体の出た日付と、ヘルトルディスが宿に居なかった日付も一致した。
女の名に聞き覚えがあったのは、一度聞いていたためだろう。
仮に、ヘルトルディス=ドッペルと呼称する。
皆で不審に思っていたのは、この3月13日以降から、ドッペルの犯行と思われる遺体が出なかったことだ。街から出た様子もなく、殺人を止めたとも思えない。
ここでメサさんは、協力者がいるのでは?と推測した。
つまり、ヘルトルディス=ドッペルが殺害した遺体を、代わりに片付けている者がいるのではないか、ということだ。"バラバラ死体"の時と同じように。
普通なら考えにくい。
ヘルトルディス=ドッペルは神と人の敵である魔物だ。見た目でそれが分からなかったとしても、連続殺人鬼など匿いたくは無いだろう。
だが、女はカルト教団である"神罰教会"の構成員だった。この街に来た目的は、仲間と合流するためだったのではないか、と予想できる。
連中の詳細について分かっていることは多くはないが、過去にもっと酷いことをやっていた事例があるようだ。指導者の一声で、信者はそれこそ何だってやる、と。
夕暮れだ。
僕、ヒルさん、メサさん、教授、アントニオさん。
そして自警団員と衛兵の混成部隊が、一軒の廃教会を見ながら遠巻きに身を隠していた。
人数は12人。後詰めを含めればその4倍になる。
アイシャさんは留守なようで、同行してはいない。ここからはどうしたって荒事になるから、僕としてはこの場所に彼女が居ないことは安心していた。
「次、教会の鐘が鳴ったら作戦開始だ。準備できてるか?」
「はい」
「これで終わりにしたいね。まあ、気楽にいこう」
ヒルさんがいつもの軽い調子で話しかけてくる。彼にこの間見たような恐ろしさはない。
目標の建物は50メートルほど先。獲物に気取られないように距離を取っている。
教授は、"悪魔の住む宿"とティリヤ大学から歩いて通える距離に、神罰教会の集会所があると仮定した。ヘルトルディスが殺される前であれば、その方が都合が良いと考えたためだ。
そして範囲を絞って捜索を続けたところ、人目を避けるように黒いローブを来た男女が出入りしているこの廃教会を見つけた。
2階建で石造り。壁は朽ち、比較的頑丈な柱だけが残って、外から中が見える有様だ。建物を囲んで小ぢんまりとした墓地がある。
そもそも人気の少ない街の北側だからか、黒い影の落ちる夕暮れだからか、その佇まいは孤独で侘しく見える。
ずっと昔、このティリヤが異教徒――つまり外国――の制圧化にあった時代に改築された教会。だから領地で見る地区教会とは微妙に意匠が異なり、また異国風の情緒を感じさせた。当然というか、その時代の外国人が埋葬されている。
今の国に再征服されたあと、再開発しようとすると不慮の事故が相次いだため、埋葬された異教徒たちの呪いが渦巻いているのだ、として打ち捨てられた小さな土地である。
建物が密集する街の中にあって、誰も寄り付かず、忘れられた場所。
間も無くあの廃教会を襲撃し、内部にいる人間を捕縛する。
教授が連れてきた"優秀な監視役"からの報告では、建物内部の人数が12人だというのは分かっている。おそらく地下室があり、そこに集まっているということも。
監視がひとり、2階の柱にいる。
絶対条件は「ひとりも逃さない」こと。
ドッペルが他の生物に化けられるなら、襲撃のどさくさで逃げられてしまうから、作戦が始まったら一気呵成に攻めなくてはならない。
「ヘイト、お前が会ったイグナシオ商会の男は来ておらんのか?」
「はい。ええと、作戦が終わるくらいの時間に合わせて、チコさんが連れてきてくれるはずです」
「そうか……」
教授が顔を寄せて質問してくる。彼はあの商会での男の証言が、ずっと気になっているようだ。ここ数日は急ぎ襲撃の準備を進めていたから、終ぞ会う機会を作れなかった。
「そろそろだ」
ヒルさんの固い声が、明瞭に聞こえた。
――
低く、厳かな鐘の音が鳴り響く。
――――
余韻の波が、黒く落ちた影に溶けていく。
――――――
感情は凪ぎ、集中力が景色に輪郭を与えていく。
建物の2階に、規則的に動く小さな灯りが見えた。
アントニオさんから突入開始の合図だ。
彼は先行し、"川の怪物"で姿を隠しつつ、気付かれずに見張りを黙らせる算段だ。
教授とふたりを連絡係として残し、廃教会に向かい、10人で放たれた矢のように走る。
崩れた壁から建物の中へと入ると、穴の空いた天井から男を縛り上げるアントニオさんが見えた。「全員地下室だ。講壇を退かせば扉がある」と教えてくれる。
アントニオさんに従ってボロボロの講壇を蹴り倒し、見つけた扉を開けると地下へと続く梯子があった。待ち伏せの可能性があるが、騒ぎを聞きつけて梯子を外されることを考えたら急ぐしかない。
「行ってきます!」
言い切って穴に飛び込む。
鬼が出るか蛇が出るか。
何があろうと僕は死なない。
ここは作戦の成功が第一だ。
壁を腕で削るようにしてブレーキをかけるが、あまり減速できず5メートルほど落ちる。足に落下の衝撃がかかり、片膝と両手を地面に着けた。倒れ込まないようにするのがやっとだ。
身体にかかる衝撃を振り解くように顔を上げると――
「"戦士"の悪魔よ!契約を履行する!!」
怒声と戦棍が腹を抉った。
吹き飛ばされ、背中が梯子にぶつかる衝撃を感じる。
揺らぐ視界の中、黒いローブを着、フードを被る大男が、
「ここは任せて早く逃げろ!!」と後ろに向かって叫んでいる。
それを見た時、脳が赤く染まった。
ひとりも逃さない。
ひとりも逃さない。
ドッペルを、自分の敵を、ここまできて逃すわけには行かない。
「逃がッ、すかあぁッ!!」
全力で咆哮し、突撃する。
大男は突進に合わせてメイスを下段に構える。
カウンター狙いだ。関係無い。
斧を抜いて相手の武器にぶつけ合わせる――
振り上げられた相手のメイスは、猛牛の突き上げのような剛力で僕の斧を弾き飛ばした。
僕の両腕は弾かれた勢いで高く挙がっている。大きく空いた腹に一撃を加えようと、大男は横薙ぎの構えをとった。
その一瞬。鎧の尻尾が腰のナイフを抜き放ち、接近する相手の手首をカウンターで切り裂く。
鮮血が迸り、大男は呻く。
勢いの落ちたメイスを気合いで耐え、相手の左腕を両足に挟みつつ背後から飛びかかり――
「おッ、らあァ――!」
相手の巨体を巻き込むように前へ回転しアームロックを掛ける。
魔法で強化された相手の腕力を抑え込むように、こちらも全力で相手の肘を逆方向に逸らす。
それなりの広さを持つ、何本ものろうそくが照らす地下の共同墓地に、大男の絶叫が響き渡った。
技を極める僕の傍を、自警団員が通り過ぎて奥へと走って行く。ひとりの人影が立ち止まり、長い棍で大男の顎を攫うと、男の力がスッと抜けた。
「ようし、良くやったヘイト。無事か?」
差し伸ばされた手を掴むと、頼もしい力強さで腕を引かれる。
「ああ、ヒルさん。大丈夫です」
「良かった。"戦士"の魔法使いか、厄介な奴がいたもんだ」
そう言いながら、自警団員が走って行った方向を見た。
「……他の皆は大丈夫ですかね?」
「神罰教会の中にも戦える奴はいるだろうが、そんなに多くは無いはずだ。それに比べてこっちは腕の立つのを揃えた。問題無い。
――あとは」
ヒルさんは地下に灯るろうそくや松明を見る。
「抜け道、ですか」
これだけの炎を確保する空気が、どこからか流れ込んでいる。この廃教会から見つからずに抜け出せる秘密の通路がある、とそう聞いていた。戦時中の建物には珍しくないという。
「モロに食らったの、見えたぞ。歩けるか?」
「大丈夫です。行きましょう」
土を固めたような壁が曲がりくねって続いていた。壁には四角く窪みが掘られていて、古い石棺が並んで安置されている。
気絶した大男は衛兵に任せ、不気味な通路を、ヒルさんとふたり並んで歩き始めた。
「ヒル!終わったぞ!」
「怪我人は?」
「軽傷がふたりだけだ」
ヒルさんは無表情で何度か頷く。報告をする自警団員たちが、縄を打たれた10人を壁際に並べて取り囲んでいた。皆目を光らせて妙な動きがないか見張っている。
通路の先には鉄でできた格子状の扉が見える。抜け道の出入り口のようだが、魔法の鉄柵ががっちり塞いでいて、とても開閉できる状態ではない。隙間からメサさんの顔が見えて、目が合う。
別働隊の数名が、あらかじめ抜け道を調べて塞いでおいたのだ。あちらも問題なく仕事を終わらることができた。
ヒルさんは並んだ黒のローブを一瞥して呟く。
「さてと、どいつがヘルトルディスかな」
ヒルさんは震えている女性の前に屈み、ぞんざいにフードを捲る。
現れた40代くらいの女性の白い顔は青ざめ、怯えた眼で取り囲む男たちを見回した。相当慌てたのか、長い茶髪はほつれている。
「ヘルトルディスって女が出入りしていたはずだ。知らないか?」
ヒルさんは声を荒げたりしないが、低く、迫力のあるその音は、そばで聞いているだけで気後れしてしまう。正面からぶつけられたらどれだけ恐いか。
「し、知らない――」
「30代くらいの、褐色の肌で黒髪の女だ。思い出させてやろうか?」
「――神意を知らぬ愚者共がッ!呪われろッ!」
ヒルさんが脅すと、隣の男が眼を血走らせて叫び、感情に任せて喚き始めた。
ヒルさんが屈んだまま顎で指示を出すと、自警団員のひとりが顔面に向かって棍棒を振り抜く。
鈍い音と、ひっ、という悲鳴が同時に響いた。
死んでなければ良いが……
喚いた男が倒れて痙攣するのを一瞥すると、ヒルさんは女に向き直った。女はしゃっくりするように身体を震わせると、時間をかけて口を開く。
「い、いなくなったの……」
「あ?」
「ちょっと前から、顔を出さなくなって……」
ヒルさんはひとつ唸って、質問を続ける。
「何時からだ?よく思い出せ。正確に答えろ」
「え……あ、3月の……13日から私の家に泊まって、15日が最後に、あの子を見た……」
ヒルさんはおもむろに立ち上がり、
「全員の顔を検めろ」と短く指示を出す。
自警団員がフードを剥がしていくと――
30代くらい、褐色の肌、黒い髪を持つ女性は、ひとりもいなかった。
ひとりひとりに、尋問を続けている。
誰も条件に合う人間がいない。別の姿に化けているのか?
そうしてしばらくすると、廃教会の方からイグナシオ商会の男を連れたチコさんと教授が歩いてきた。
洞窟のような場所に座らされている縛られた男女、それを取り囲む物々しい戦闘員。その光景に男は眼を白黒させている。
教授が質問する。
「お前が見た女が、この中にいるか?」
男は各々の顔を確認すると、かぶりを振った。
「――犯行を目撃したのは、1月の始めか?」
男はきょとんとして言った。
「いや、ちがう。前にも言ったが……3月半ばだ」
「え……」
口から勝手に声が出た。
どういうことだ。"顔の焼かれた女"が見つかったのは今年の始めだ。しかし、男は3月半ばだと言う。
視界の端で、ヒルさんが目頭に手を当てている。
「何かの間違いでは?」
男は先程より大きくかぶりを振って――
「勘違いなんかするはずない。ベンが死んで、大規模侵攻が始まってから、しばらく事務所に置いていた左腕を捨てに行った。間違いない……ええと3月の、15日だ」
教授の顔に疲労が刻まれていく。
「もうひとつ訊く。お前が見た女は、黒髪で褐色の肌だったか?」
「それも違う。金髪で、肌の色は白だ。幾ら暗くても、そのくらいは分かる――一体、何の話をしてるんだ?」
ヒルさんと教授のため息が重なった。
「何が……どうなって……」
僕の問いに答える教授の声は珍しく苛立っている。
「いいか?ヘルトルディスの遺体が出たのは今年の始め。
で、この男が犯行を目撃したのは3月15日だ。
だから、ドッペルに殺された"顔の焼かれた女"はふたりいるんだよ」
「は――」
一瞬思考が停止し、すぐに動き出す。
「じゃあ、ドッペルは――もう」
「別の人間になっている。それも、1カ月前にな」
教授の言葉に、力が抜ける。
膝に手を突き、項垂れるのを止められない。
ヒルさんは女に質問する。
「ヘルトルディスがいなくなる前に、大きな荷物を持ってこなかったか?」
「はい……」
女は完全に諦めたようだ。自警団員に連行されて、僕たちをどこかへ案内する。歩いてきた道を戻り、石棺のひとつの前で立ち止まった。
何人かで重い石の蓋を持ち上げ、中身が確認できるまでずらすと――
中には、砕けた人骨とゴルフバッグのような麻袋が入っていた。
黒いシミが滲み出ている。
「5人目の遺体、か」
教授のため息と共に出た声が、薄暗い共同墓地に反響した。