55話 ターゲットインサイト
「鳩叶……?」
昼の光と夜の闇が、世界を奪い合う夕暮れ時。
手を伸ばしても届かないが、その姿は認識できる程度の距離に少女が立っている。
虫食いのジグソーパズルのような記憶を、現実が補完していく。
忘れかけていた姿が、耳鳴りと共に鮮やかさを取り戻していく。
「元気?」
顔をくしゃっとして笑う顔を覚えている。
林を背にしている少女は僕の妹――佐々木鳩叶だ。
全身が粟立っているのを感じる。
絶句とはこのことか。とても言葉を返せるものではない。
ここは異世界だ。妹がいるわけがない。
いや、僕だけではなく毎月使徒は召喚されている。であれば、誰が使徒になってもおかしくはないのか?
そんな思考が巡っているが、現実の非現実感が脳を麻痺させている。
「へーくんにね、お願いがあるの」
えへへ、と少女らしく笑いながら、こちらには近付こうとしない。
もし妹が使徒になったとしても、妹はまだ9歳だ。案内人となる教会の聖職者たちが、こんな時間に村のはずれをひとりで歩かせるはずがない。
じゃあ、何故この娘はここにいる?
はぐれたのか?
そしてたまたま僕に会って、泣くでもなく平然と会話をしている?
そして――
「私に、もう酷いことしないで」
――この吐き気の込み上げる違和感は何だ?
少女の突き放すような言動と現実が、とても受け止められられずに、
おえっ、と、えずいてしまう。
「探すのは止めにして欲しいの」
少女の表情は消えていき、こちらを値踏みするような眼になっている。顔に掛かる色濃い影と相まって、その存在が化生の類に思えてくる。
僕は鳩叶のことを優しい子だと記憶している。
彼女が食べたあとの食器を流し台に持っていくのは、褒められたいからじゃなく、それで父や母が笑顔になるのを知っているからだ。
その笑い顔を見るのが好きな女の子。
僕が知っている妹は、こんな表情をする娘じゃない。
「私の邪魔しないでよ」
声色が薄ら寒さを帯びていく。
鳩叶の一人称は"あたし"だった。洋服や小物も女の子らしい趣味だった。
鳩叶はこんな言葉遣いをしなかった。小学生なりの幼さを持った子供だった。
闇に紛れる小さな姿を、目を凝らして視る。
腕の震えが止まっていく。
「もし、まだ続けるのなら」
「お前は誰だ……」
ここにいるはずのない妹。瓜二つの顔。武器が届かない距離。違和感。
身体は自然と動き、腰のホルスターに装備した斧の柄を握る。
僕は目の前にいるものに心当たりがある。
全身の血は泡立っている。
「へーくんの大事なひとを殺す」
「"影像"ッ!!」
身体が破裂するように動いた。
ホルスターから外した斧を投げつけようと大きく振りかぶり――
――呪ってやる――
――ヘイト様、お願いします――
「――ッ!」
風を殴る音。
ざわざわと、
ぎゃあぎゃあと、
鳥が一斉に飛び立った。
回転しながら飛んだ斧は、少女を掠めて遠くの地面に突き刺さった。
少女は目を見開いている。攻撃されるなど微塵も思っていなかったように。
殺されかけたと理解した少女の表情が、徐々に幼さを失っていく。
表情筋を総動員して憎悪を籠め、こちらを視ている。
最早あれを妹だとは思えない。
燃える瞳でこちらを見据えるその姿が、自分の網膜に焼き付く。
獲物の姿が。
視線を合わせていたのは一瞬だった。
踵を返すと共に少女の姿が崩れ、四足獣のような影になって駆け出す。
「待てッ!!」
待つわけもなく、異形は林の方へ消えていく。あちらは街がある方向だ。逃げ足は驚く程に疾く、一瞬でその姿は見えなくなった。
今まで対峙していたのが化け物だと確信する。
「クソがッ」
怒っている。
妹を象ったのが障ったのか、
脅してきたのが障ったのか、
あいつが人殺しだからか、
それとも魔物だからか、
斧を投げる瞬間迷いが出て、必殺のタイミングを外し、探している敵の逃走をまんまと許した自分自身にか、
もう分からない。
ただ、怒っている。
純粋な憎悪を静脈から入れられたかのように、感情の灼熱が全身を巡っている。
地面に刺さった斧を拾ってホルスターに仕舞おうとして、革が千切れていることに気付いた。どれだけの力を込めたのだろう。
クッソ、と考える前に呪詛が出る。また物を壊してしまった。それも怒りに薪を焚べる。
どうすることもできない、あいつも、自分も、
どうすることもできず、怒りを抱えたまま帰路に着いた。
「おお、ヘイト。帰ったか」
テーブルに着いている教授の声を無視して、階段へと向かい自分の部屋を目指す。
談笑する気にはなれない。今はひとりになりたい。
そう思い、ドアノブを捻ると、
「あら、ヘイト様――どうされました?」
そうだ。メサさんがいるんだった。
彼女は机をろうそくで照らしながら書き物をしていたようだ。手を止めて挨拶してくる。
何も思い通りにいかない。メサさんに聞こえないように小さく舌打ちをした。
「何でもありません」
「ふむ」
突き放すような固い声が出た、それを聞いたメサさんはきょとんとした表情を見せる。
少しぞんざいだっただろうか、とこんな時でも思ってしまうのが、小心者だと自覚させる。
「――ヘイト様」
「何ですか」
話しかけないで欲しい、目を合わせたくない。
何を言われても機嫌が悪くなるような気がするから。
「怒っている姿も素敵ですわ」
「……へ?」
メサさんはにっこりと笑い、親しみを込めてそう言った。
思ってもみなかった台詞を投げかけられて、呆気に取られてしまう。
「何があったか存じませんが、話してみてはいかがでしょう。口に出せば考えも纏まるものです」
こちらの言葉を待たず、優しい声色で諭すように言う。
僕は一回ぐっと目を瞑ると、メサさんの方を向いてベッドに腰かけ、項垂れる。
怒気が抜けたあとに身体を包んだのは、自己嫌悪と脱力感だった。
「実は――」
メサさんにとって僕の怒りなど、小さな子供が駄々をこねているのと変わらないのだろう。
彼女のおかげで毒気を抜かれてしまった僕は、先程のことを話した。
「なるほど、ドッペルが行動を起こしてきましたか」
「ええ……」
ぼそぼそと脈絡なく話すうちに気持ちが静まってくる。的確に相槌を打ってくるメサさんを相手にすると、不思議と話しやすかった。
上手に宥められてしまったことに、気恥ずかしさを覚える。
「教授がまだお酒を呑まれているはずです。少し話をしてみましょう」
そう言ってベッドから立ち上がったメサさんに続いて、下の階へと向かう。
階段を降りる途中で教授がこちらに気付いた。
その視線から逃れるように、足元を注意する振りをして、目を逸らす。
さっき無視してしまったことに気後れしている。
テーブルの傍まで来てしまい、何から話そうか迷っていたら、
「教授、お話があります。今後の方針に関わることです」
メサさんが口火を切ってくれた。
「分かった。聞こう」
何かを察したような教授はコップを置いてそう言った。
メサさんは僕から聞いた話を教授に報告した。
"バラバラ死体"のことと、妹に化けたドッペルが目の前に現れたこと、事実と考察を分けて、順序良くまとめてくれている。
おかげで、僕が口を挟む余地はほとんど無かった。
途中、"バラバラ死体"を調べているうちに"顔の焼かれた女"の目撃者が見つかった件で、教授の表情が今までにないくらい険しくなったのが気になった。
すぐに表情は戻り、「その男とは一度話さんとな――続けてくれ」と言っただけだったが。
「まず、ヘイト。脅迫に屈しなかったのは上出来だ」
報告を聞き終わった教授は、真剣な表情でそう言った。
怒られずに済み、ほっとしてしまう。
「相手は人ではない、魔物だ。話が通じる相手ではない。一度言うことを聞いてしまえば、学習されて付け込まれるのは目に見えている。
それにだ。たとえお前がドッペルの言うことを大人しく聞いて捜査を止めても、ドッペルはこちらの言うことを聞かん。凶行は続く」
「はい」
そんなつもりは一切無かった。感情任せに動いただけだ。
「なあ、ヘイト。儂が思うに、お前の分かれ道は今だ」
「分かれ道、ですか」
どういう意味だろうか。教授は親指と人差し指を立てて、こちらの目を真っ直ぐに見ている。
「数日後の侵攻作戦の準備に入るか、それともこのままドッペルの捜査を続けるか、だ」
「ああ、そうだった、今月の侵攻作戦……参加しないなんて選択肢があるんですか?」
僕が問いを発すると、教授は親指を立てる。
ひとつ目の選択肢、だ。
「無論だ。戦うかどうかは使徒の自由。それに今回は、商会から使徒に参加を自粛するよう要請が来ている」
「自由参加は分かりました。けど、後半は意味が分かりません」
「うむ。ドッペルの捜査にご助力を、とのことで、これは建前だ。
その実、"ネグロン家の剣"の戦力評価をやりたい、という本心がある。シリノが一枚嚙んでいそうだが……
兎に角、今月参加する使徒はローマン、フベルト、シンイーのみだ。だが、お前ひとりくらいなら捻じ込める」
先月の大規模侵攻で半数以下になってしまった、テルセロ・ネグロンの率いる、"ネグロン家の剣"。聖遺物や魔剣で武装した傭兵集団。
テルセロは実績作りに奔走している。その影響だろうか。
「アルマ・デ・ネグロンを主力に据えたいから、使徒は邪魔ってことですか」
教授は首肯した。
そして一度お酒で口を湿らし、再度話し始める。
「ドッペルを取り巻く状況は変化している。
3月半ばくらいから、ドッペルの犯行と思われる遺体が出なくなった。聞いているか?」
「い、いえ」
「背骨の辺り――厳密には、脳幹と、背骨の骨髄が喰われている遺体だ。これまでは2,3週間に一度は出ていて、チコが中心となって捜査していた。チコが"バラバラ死体"の件で合流したのは、そういった遺体が出なくなって手が空いたからだ」
「な、なるほど。ドッペルが殺人をやめていると?」
「どうかなあ。そう簡単にやめるとは考えにくい。ローマンとフベルトから、農村では遺体が出ていないと聞いているし、何らかの原因で姿を消したのかとも思ったが――」
「僕の前に姿を現した」
そうだ、と教授は短く言って考え込む。
ドッペルはまだ街に潜んでいる。しかし、これまで発見されていたような遺体は出なくなった。それが何を意味しているのだろう。
「何より、これまで闇に紛れていたドッペルが動いたことが、状況が変化した証拠だ。我々が明後日の方向を探しているのなら、ドッペルが特に何かする必要は無い。
おそらく、奴は焦っている」
「ドッペルが?」
「ああ、今の姿を気に入っておるのだ。別の姿になるのは惜しいが、捜査の手が身近に及んでいるのを感じている。その危機感が行動を起こさせた」
「僕たちは確実に近付いている……」
「ああ。そして――」
教授は人差し指を立てる。もうひとつの選択肢だ。
「お前がドッペルを探し続けるなら、ここからはチキンゲームになる。ドッペルが他の誰かを手にかける前に、奴の尻尾を掴む。臆した方の負けだ」
「……」
ドッペルは、僕の大事なひとを殺すと言った。
相手は魔物だ。人を殺すのに容赦は無い。僕が敵対を続けたら、何をしでかすか分からない。
僕は死なないが、僕の知り合ったひとの誰かは狙われるかもしれない。
それは嫌だ。
僕がいなくても、教授やヒルさん、アントニオさんやチコさんたちがいずれ真実を見つけてくれる――
「降りるなら今だ」
――そうか。
今まで僕は、どこか他人事だった。
逝ったひとも、遺されたひとも、みんな他人。
彼らの感情など理解していなかった。隣人が魔物かもしれないという恐怖が分かっていなかったのだ。身近なひとが傷つくという、至極単純な恐ろしさを、ぼんやりとした感じていなかった。
相手は話の通じない魔物だ。僕がどう動こうと、ドッペルはひとを殺し続ける。
増えていく被害者の中に、自分の知っているひとが、いつか入るかも知れない。今更その事実が変わるわけではない。
あの気の触れた化け物を殺さないことには、何ひとつ変わらない。
網膜に焼き付いた姿を思い出す。
憎悪を向ける少女の姿を。
ドッペルは、これまで街の敵だった。
ドッペルは、これまで他の誰かの敵だった。
だが、
やっと、ドッペルは僕の敵になったのだ。
「やります」
教授はにっと笑う。
「そうか。前にも言ったが、お前だけはどう騙そうが殺せず、そしてドッペルではない。それは奴に対する銀の弾丸になるだろう」
腹は決まった。
次にどうするか決めなくては。
残る遺体は、あとひとり。
「じゃあ、あとは"顔の焼かれた女"、だけですね」
「ああ、その件だが。もう終わった」
「へ?」
「ああ、だが、確かめたいことができてしまったなあ」
教授はしかめっ面になり、大きく息を吐いた。