54話 遍歴の行方
大規模侵攻作戦の始まる少し前、青ざめた男はイグナシオ商会の数名と共に、商隊の護衛として街への帰路に着いていた。裏の仕事ではなく、違法性の無い正規の仕事だった。
依頼人である商人は、稼ぎ時である大規模侵攻に間に合わせようと、護衛に追加料金を提示して先を急がせた。商隊は日が沈んでからも進んでいたらしい。
そんなある日の夕暮れ時、その日も休息をほとんど取らずに進んでいた一行はとある小川に差し掛かる。
あるはずの橋が壊されていた。
男が、まずい、と思ったと同時に――
商人の肩に矢が突き刺さる。
咄嗟に警戒を発し、悲鳴を上げる商人の服を掴んで馬車の陰に引っ張り込む。矢が放たれた方向――自分たちが通って来た森に数人分の影が見える。
夜盗だ。
夜道を移動していたところを見られて、警戒が薄いと目を付けられた。夜盗は先回りして進路を塞ぐと、後方から襲撃してきたのだ。
川幅は3m程、深さも大したことはない。歩いて渡ることはできるだろう。
だが、積荷のある馬車が渡るのには苦労する。
商隊が逃走したとしても、馬車は手に入る。
ああいった手合いに命乞いは意味を為さない。口封じが最も手っ取り早い手段なのは、経験上心得ている。
雇い主を見捨てて逃げるか、命を懸けて応戦するか……
判断に迷ううちに矢がまばらに降ってきて、気まぐれに仲間を傷つけ始めた。
もう逃げられない。
こちらも矢を射るが、相手の姿は森に紛れてよく見えない。
満足に休めず、馬や護衛に疲労が残る中の襲撃だった。夜盗はそこを狙ったのだろう、すぐに劣勢になってしまう。
ここで終わりか、と久しぶりに胸の前で十字を切った、その時、
ひとりの聖騎士が現れた。
輝くようなブロンドと、跨る白馬は遠目からでも見える。
聖騎士は馬を巧みに駆り、剣と秘跡によって野党を次々と斬り伏せていく。
半数を斃された夜盗は逃走していき、それを見送った聖騎士は歩を緩めて近づいてくる。
「皆、生きているようだな。間に合って良かった。これも主の御導きであろう」
それが、ベンさんだった。
ベンさんはひとりで巡礼の旅をしていて、商隊と同じく街を目指していたらしい。その途中で、武装した怪しい集団が森を進んでいたので追跡することにした。案の定というか、夜盗の襲撃を受ける商隊を見たので、助けてくれたのだ。
ベンさんに応急処置の心得があったのも、商隊には幸運だった。
行き先が同じだったから、そこから頼れる同行者となったベンさん。不思議と男とは馬が合ったらしい。
数日後、無事に街へと着き、男は礼にとベンさんをお酒に誘った。イグナシオ商会が贔屓にしている酒場に行き、強かに酔うまで呑んだ。
お互いにとって不幸だったのはここから。
男は酔った勢いで裏の稼業を匂わせてしまった。
ベンさんは不審に思ったのか、眉根を寄せて詰めてくる。
男はしどろもどろになり、その反応でベンさんがさらに追求する。
男は焦りに駆られて声を荒げるが、それを恐れるようなベンさんではない。
「そんな仕事はもう辞めろ、これからは主に恥じない生き方をするんだ」と言われ、
徐々に、口論のようになっていった。
そして破局が訪れる。
ベンさんは突然胸を押さえて苦しみだした。
椅子から転げ落ち、床に倒れて、悲鳴のような呻き声を出す。男が狼狽えて名前を呼ぶうちに、口から赤みがかった泡を吹いて――
こと切れてしまった。
動揺した男は、酒場の店主に黙っているよう言い含めたあと、頭目であるイグナシオへ連絡した。
こんな時期に、こんな形で出た聖職者の遺体。男が毒を盛ったのだと思われても仕方がない状況。もし見つかれば国会と教会に激しく追及され、裏の稼業が明るみに出てしまう。
イグナシオが下した判断は、遺体の隠滅だった。
商会の事務所まで遺体を運び、所属する者を呼び出し、人手を確保すると――――
そして、見つからずに朽ち果てる予定だった遺体は、ふとしたきっかけでひとつ目が見つかり、それからはあっという間に探されてしまった。
それが、青ざめた男の語った事の経緯。
彼らの話を鵜呑みにするのなら、ベンさんは殺害されたのではなく内因性の急死だった。
外はすっかり暗くなっていたので、雨が降るなか急いで予約していた宿へと移動し、4人でテーブルを囲んで休息を取っている。
日が沈んでから移動するのは危険だったが、僕たちの誰も、もうあの事務所には1秒だって居たくなかったのだ。
「ベンには昔世話になってさ。久しぶりに会おうと大規模侵攻前に待ち合わせしてたんだ。だがあいつは最後まで来なくて――死体の話を聞いて、もしかしたらって思ったけど。まさか予想が当たるとはねえ」
イザベルさんは、商会の事務所から持ってきた一抱えの木箱を見て、しんみりと言い、ワインに口をつける。
「そう言えば、ベンは心臓が悪いって聞いたことがあったっけ。
自分の歳を考えて大人しくしてろ、って仲間内でよく話してて――その度にあいつはいつも言ってた、『主の教えに従い人を救い続ける。死ぬ時は私が天に呼ばれた時だ』って、笑いながら」
「篤い信仰を持っていたのだな」
穏やかな口調でチコさんが相槌を打つ。
「ああ。私みたいな生臭と違ってね。悪行は見逃せない、真面目すぎるくらいの男だったよ。
――何でまたあんな連中に関わっちまったかなあ、相性が悪いったらない」
目を伏せ、ワインを呷る。後半は何かに対する愚痴のような……独り言のようになっていた。
相性が悪い、か。
もしかしたら、イザベルさんがアイシャさんを連れてこなかったのは、ベンさんと同じような敬虔さを持っているからかも知れない。
「あ、そういうワケで。私は死体が誰か心当たりがあったんだ。
――ごめん。始めから知ってたのに言わなくてさ。あんたらを利用したみたいになっちまった」
イザベルさんは明るく謝罪の言葉を述べる。
最初に事務所に入った時も彼女は聖騎士の話をした。イグナシオはうまくとぼけたが、あれは疑いを持って聞いたのだ。
「構わないさ。イザベルのおかげでこの件を終わらせることができた。代表にも結果を報告できる」
チコさんは微笑を浮かべながら応えた。そして、数回の瞬きと共に表情を引き締める。
「それに――"影像"の話を聞くことができたしな」
そう、僕たちがイグナシオ商会へと向かった目的は"バラバラ死体"とドッペルの関与について調査することだ。死体の損壊については人為的なものだし、ベンさんは誰かに殺害されたわけではない。
この件自体とドッペルの関わりは無いのだ。
だが、僕たちは青ざめた男から予想外の情報を得ることになった。
男は、命の恩人であり友人にもなった聖騎士の遺体を自らの手で解体した。
強烈な罪悪感をずっと封じ込めていたのだろう。口を開くと、振ったシャンパンのようにとめどなく言葉を吐き出した。合間合間に謝罪と後悔を挟みながら。
証言はベンさんが亡くなったあとの場面では終わらず、遺体を何時、誰が、何処に、どうやって捨てたかなど、事件の全てを洗いざらい語った。
その途中、
"顔を焼かれた女"を見た、と言ったのだ。
すぐにチコさんが反応し、詳しく話すように言うと、男は思い出しながらぽつぽつと話す。
「深夜だった。俺は左腕を置いてきた帰りで、裏路地を歩いてた。大学の近くだったと思う。
進む方から人の声がして、咄嗟に隠れたんだ。
黒いローブを着た男と女が、話してた。男は後ろ姿で、女の方は笑顔だった。
夜出歩くのは禁止されてるから、逢瀬だとしても、変だなと思ったんだ。
一本道だったから、俺はそいつらが退かないと進めなくて。それでしばらく見てた。
ふたりが抱擁したんだ。そしたら、あぁ。
男が、ナイフで女を刺しやがった。
ハグしたまま、女の口を自分の肩に押し付けて悲鳴を殺して、何度も――ああ、クソッ。
――女が死んだあと、男は近くの篝火から薪を取って、女の顔を焼いた」
「それから?」
「男が振り向いて、無性に怖くなって、逃げた。すみません、俺は――」
「いい。それより何故通報しなかった?魔物が街に潜んでいるという布告は出ているだろう」
チコさんが問うと、男はイグナシオをちらと見て、
「すみません」と言った。
「商会が探られると思って黙っていたか……」
「はい……」
チコさんの問いに対する肯定は今にも消え入りそうだ。
街を騒がせている事件に関する重要な証言だ。通報すれば、間違いなく根掘り葉掘り聞かれるだろう。最悪、聖職者の遺体を損壊して街に遺棄した自分たちの犯罪がバレてしまう。それを恐れて黙っていた。
テーブルの上で減っているのはろうそくばかりで、料理はあまり減っていない。
これまでの3つの事件にドッペルが関わっていないとなると、"顔を焼かれた女"はかなり怪しくなる。つまりドッペルは今、"顔を焼かれた女"に成り代わっている可能性が高い。
「ヘイト様。あの男、女の顔を見たと言っていました。後日、教授とヒルに会わせなくてはなりません」
「そうですね。あそこにはもう行きたくはないですけど」
あの事務所の地下室には、亜麻に包まれ木箱に収められた頭部が残っていた。遺棄する前に遺体の捜索が始まってしまったので、手放せなかったのだと。
テーブルに置いてある木箱がそれだ。視界に入る度にやるせなくなる。
スプーンとフォークが動いているのはボス氏だけだ。
「私はパス。右腕と右足を探して、まとめて弔ってやらなきゃ」
「そうか。イザベル、今回は助かったよ。ありがとう」
木箱をぺしぺしと叩くイザベルさんに、チコさんが礼を言う。
そうして、イザベルさんの話すベンさんとの思い出を皆で聞きながら、長い夜を過ごした。
僕たちは多分、獲物の後ろ姿を見ることができたのだろう。
もうすぐだ。きっともう少しでドッペルを捕まえられる。
残る遺体はあとひとりだ。
「へーくん」
少女に呼び止められる。
幼い声を聞いて、身体が震え、強張った。
脳が痺れるのを感じながら振り向く。
何故だ。
朧げな記憶に残っている靄のかかった顔。
その靄が晴れ、きちんとした輪郭を持った少女が、林を背にして立っている。
8つ年下の、この辺りの者とは人種の違う顔立ち。長く、流れるような黒髪。日本人の中でも色白の、ほっそりとした身体。それを包む安価で着古した洋服。
夢ではない。
現実だ。
夜が明けて、皆と別れたのを憶えている。
連絡が来るまで少し待つことになるからと、一度村に戻って、所用を済ませた夕暮れ時。
少女の顔の半分を、真っ黒い影が塗りつぶしているが、誰かは分かる。
分かってしまう。
今の僕の顔はきっと、あの青ざめた男に似ている。
居るはずがないのに。
現実に居る。
何故だ。
「鳩叶……?」
僕は、今まで忘れていた、佐々木鳩叶の、
妹の名を呼んだ。