53話 招かれざる客の狂言
雨が降り続いている。
日が落ちる時間ではないにも関わらず、空を覆う雨雲は濃い影と大粒の雨を街に落としていた。そう時間はかからずに、太陽は地平線の下に沈む。日が落ちて辺りが完全な闇に包まれれば、人は息を潜めて朝日が昇るのを待つしかない。
そんな街の中、狭い通りを進むひとりの男がいた。
鼠色のローブは雨露と血糊でずぶ濡れになり、髭面を歪めて酷く息を切らしている。男が息も絶え絶えなのは、先を急いでいることの他にもうひとつ理由がある。
重い甲冑を背負っているのだ。
首から紅い液体を夥しく垂れ流し、脇腹から剣が突き立てられている、中身の入った甲冑だ。
街の治安を守る衛兵が着用するような鎧を負い、がちゃがちゃと金属音を立てながら移動している。
甲冑は抵抗することなく、ぐったりと男の背に覆いかぶさっている。
男の汚れた風貌を見れば、少なくない者がこう思うだろう。「男が衛兵を殺した」のだと。
男はとある建物の前で足を止め、野卑た呼びかけと共に木製のドアを激しくノックした。
「イグナシオ!居るか!?」
間を置かず開かれる扉。それがすぐに閉じられてしまうことは自明だ。開けた男が訝しんでいる隙に押し入るように部屋へと入る。
丸椅子の無い、場末のバーに似た間取りだ。
カウンターの向こうで立ち上がった商人風の男は、闖入者の姿を見て目を見張る。
「お前……ヘラルドか?捕まったはずじゃあ……」
そして男が背負っているものを視界に入れると、部下に扉を閉めるように目で合図した。「来い」とだけ言い放ち、奥の扉を開けて入るように促す。
職業柄か、男の背負っているものがどれだけ危険かすぐに察したのだ。
通された部屋は細長く、両端と中央に大きなテーブルがある。まるで飲食店の厨房のようだ。男は部屋に入ると背負った甲冑を忌々し気にテーブルへと投げ出す。うつ伏せに置かれた甲冑は、糸が切れたかのように動かない。
目つきの悪いふたりの男が非常事態を嗅ぎ取って動き始めた。カウンターの部屋に居た4人も同じようにしているだろう。
「久しぶりだなあ、イグナシオ。元気だったか?」
気安い挨拶とは裏腹に、男は親の仇に会ったような獰猛な笑みを浮かべている。イグナシオと呼ばれた商人は整えられた黒髪を手でぐしゃぐしゃにして、顔に苦渋を刻んでいた。
「お前が自警団に掴まって蜂盗賊団は終わったと聞いた。生きていたとはな」
「終わってなんかいない。残った仲間と合流して他の奴らも逃がす。そうしたら俺たちを嵌めた連中を皆殺しにして、またやり直す。そのために――手を貸してくれ」
押され気味の商人とは対照的に、男は目を爛々と輝かせ、野望と憎悪を籠めた言葉を吐いた。
「協力できない」と、
商人は明瞭に言う。
「おいおい。ウチの下っ端を脅迫して、深夜に黒い森まで棄てに行かせたこと俺は忘れてねえぞ。お前の無理は随分聞いてやった!俺たちに借りがあるはずだ!!」
「静かに、落ち着いてくれ」
徐々に狂気を剝き出しにし、息を荒くして怒鳴りつける男に対面し、商人はどう宥めたら男が帰るか思考を巡らせている。
周りの男たちは、やり取りの行方を剣呑な眼差しで見守っている。商人の指示があれば、詰め寄っている男はたちまち地獄に送られてしまう。
「とにかく。無理だ。お前は知らないのだろうが、今は時期が悪い」
常識的にも聞こえる商人の言葉を聞くと、男は唇を歪ませ、少し笑った。その性格の悪い笑みを見て商人の表情が凍り付く。
「いや、お前は協力する」
「何を……」
「こいつはただの衛兵じゃない。教会で洗礼の秘跡を受けた、歴とした聖職者だよ」
「ああっ!クソッ!!」
男はポケットから赤く染まった十字架のネックレスを取り出す。商人は、その十字架が自らに降りかかる猛毒かのように身を捩った。最悪の時期に、最悪の相手が、最悪の死体を持ってきた。その現実は商人にとってまさしく毒である。
「こいつを――!」
「俺を殺しても死体がふたつになるだけだ!苦労も二倍になるだろうぜ!!」
言いかけた「殺せ」という言葉を飲み込んで、商人は奥歯を砕けるほどに噛みしめる。その表情には怒気が漲っていた。
部屋にいる用心棒のひとりは青ざめ、もうひとりは判断に迷って目を泳がせている。
「時期が悪いんだろ。この街でそんなのを抱えこむつもりか?」
「――――――」
男は勝ち誇ったように、薄ら笑いを浮かべて商人の眼を正面から見返して商人を脅す。
「生きている俺を街の外に出せば、それで終わりだ」
「――――」
「金目の物を隠してある。上手く行ったら、報酬は弾む」
「――」
「さあ、どうする?」
「――った」
「ああ?」
「死体はこちらで処理する!この件はタダでは済まさんぞ!!」
男の雰囲気が一変した。ひとつ大きなため息を吐くと、表情筋を緩めて面倒くさそうな表情を浮かべ、やる気のなさそうな目でテーブルに横たわる甲冑を見る。
そして、
「おい、聞いたか?」
と言った。
――――もう、喋っていいだろうか?
「あ、はい。バッチリです」
僕はテーブルに横たわったまま、ボス氏に向かって返事をする。
イザベルさんの考えたこの狂言依頼。顔を見られていないボス氏が、厄介な死体に化けた僕を持ち込み、状況的な圧力をかけて吐かせる。
まんまと商人――イグナシオは使徒である僕の目の前で『死体は処理する』と言った。それが聖職者だと分かっていて、だ。
失敗した時の予備プランは、イグナシオ商会の下っ端を拉致してあらゆる手――主に暴力――を使って吐かせるというものだった。その手を使うことにならなくて良かったと思う。
テーブルから身を起こし、血糊――トマトとワインの混合物――の付いた兜と甲冑を脱ぎ始める。呪いの鎧の上から衛兵の甲冑を着るのはゴワゴワしたし思いのほか重かった。そんな僕を背負って長々と歩かされたボス氏はさぞ疲れただろう。
同情する。
イグナシオは突然動き出した死体、もとい僕の方を見て呆気に取られている。完全に死体だと思われていたようだ。
「さて、イグナシオよ。どうする?この黒いのは使徒様だが、剣を抜くか?」
ボス氏に問われたイグナシオは俯き、拳を固めてわなわなと震えている。騙されたことに気付いたのだろう。多分、こういう時は――
「上等だアッ!!全員ぶっ殺してやるッ!!」
やはりというか、イグナシオは獣のような怒声を上げた。
作戦は次の段階へ移行。ボス氏は合図の笛を咥えて思い切り吹く。雨音だけが響く静かな夜を甲高い音が切り裂いた。
間を置かずに外から激しい物音が聞こえる。ドアを蹴破ったチコさんとイザベルさんが建物へと突入してきたのだ。カウンターの部屋に居る用心棒を抑える手はずになっている。
僕は自分に刺さっていたショートソードと、腕に着けていた木製の盾をボス氏に渡してテーブルから降りた。
さあ、鉄火場だ。
心の中で呟き、腹を決める。
部屋の扉近くにいる2人の男はブロードソードとメイスを抜いている。イグナシオを相手取るボス氏に近付けさせないように、どうにかしてこの2人を抑えなければ。
脱いだヘルムを投げつけて牽制し、脱ぎきれていない二重の鎧でどすどすと近付く。相手が振る武器を避けず、身体に掛かるふたつの衝撃を押しのけるように、メイスの男へ体当たりをする。
僕と鎧の重さ、それに走るスピードを乗せた体当たりは、男を壁まで仰け反らせるのに十分な威力を発揮した。
もうひとりは剣を上段に構えている。
防具を付けていない脛の辺りを蹴り上げ、呻き声をあげて前屈みになった男の頭を、前から脇に抱えてホールドする。
ヘッドロックされた男は我武者羅にブロードソードを振るうが、狭い室内だ。ほとんど家具や壁に当たっているし、僕に当たったとしても意味は無い。
あとひとり――
体勢を立て直した男が放つメイスの一撃を耐え、空いている手で一発ビンタを食らわせ、武器を持った手首を掴んで捻り上げた。
「貴方方の負けです。観念してお縄についてください」
拘束したふたりはもがいているが、呪いの鎧か"基礎体力向上"のおかげか、筋力で負けるようなことはない。動かれると重傷を負わせそうだから、大人しくして欲しい。
人を攻撃したくはなかった。だがボス氏やイザベルさん、それにチコさんが命を賭けている中で僕だけ観戦している方が嫌だ。
ボス氏の方を見ると、丁度バックラーで殴りつけられるイグナシオが目に入った。腰を抜かしたイグナシオの鼻っ柱に、ショートソードの柄頭が叩きつけられる。
イグナシオは鼻を抑えて激しく悶えた。
「おっ。ヘイトの方も片付いたみたいだな」
扉を開けて顔を出したのは、レイピアを持つ機嫌の良さそうなイザベルさんだ。
「おお、相手もほぼ無傷とは……ヒルも言っておりましたが、流石はヘイト様です」
次いでマチェーテを鞘にしまったチコさんが入ってきて、慣れた様子で抑えているふたりをロープで縛り上げる。
「あ、はい。おふたりもご無事で何よりです」
「ああ、ひと段落だな、じゃあ尋問と行こう」
雨音に呻き声が混じる部屋で、イザベルさんがそう言った。
奥の部屋にイグナシオを含む7人の男が集められた。全員後ろ手に縛られて木の床に座らされている。傷の多い少ないはあれど、死にそうな者はいない。
「イグナシオ商会は、街に出た"バラバラ死体"に関係しているな?」
チコさんはイグナシオへ固い声色で投げかける。鼻血を垂れ流す男は目線を伏せたまま問いを無視した。
チコ、と意味ありげに名前を呼んだイザベルさんが、チコさんと目を合わせる。彼はひとつ頷いた。イザベルさんは顔を真っ青にした男の前でしゃがみ込み、目線の高さを合わせる。
メイスを持っていた男だ。イザベルさんの目線を怖がるように顔を背ける。
「ベンハミン・トルレス」
イザベルさんが凛とした声で人名を口にすると、男はビクッと身を震わせた。何か心当たりがあるのだろう。とても嫌な心当たりが。
イグナシオは部下の反応を横目で見て、何かを堪えるかのように目を瞑って俯いた。
イザベルさんは静かに語り掛ける。
「我らが主は、お前たちの行いを全てご存じだ。罪を抱えたその魂は決して天に行くことは無いだろう。だが、寛大たる我らが主は、罪を雪ぐ機会を与え給うた。
――こちらの御方は主の遣いたる使徒である。自らの口で罪を告白し、ヘイト様を通して主へと許しを請いなさい」
青ざめた男の怯えた眼が、僕と地面の間で行った来たする。ひとしきり逡巡すると、彼は震える口を開いた。
「ベンハミンは――」
そうして、事の経緯が語られた。