49話 4月5日 悪魔の住み着いた宿
街の北西にある、狭い路地だ。
4人横並びでは歩けないくらいの道幅しかない。馬車が通れないので、降りてから徒歩で移動しなくてはならなかった。
まだ昼間だというのに、両側から迫り来るように建てられた建物のせいで薄暗く、また、通りに満ちている雰囲気も暗い。汚れた石畳に座り込んでガラクタを売る者や、当て所なく歩く子供のグループとすれちがう。その誰もが清潔な服を着ているとは言えない。
大通りの方はひとで賑わっていると言うのにここは閑散としている。同じ街の中とは思えない。
そんな場所で、僕たちは一軒の建物を見上げていた。
「ここが、悪魔の住み着いた宿、ですか?」
その3階建ての木造建築は、少々趣のある――
いや、とても年季を感じる――
少々傷んだ――
……とってもボロい。
何度も補修した跡のある木の壁は、全体的に湿っているような黒色で、地面に近いところは苔が生えたような緑色。鉄釘が使われている周辺は赤茶色に錆び付いている。
元は何色だったのだろう。
悪魔だけではなく、他にも色々な化け物が住んでいそうだ。
ヒルさんは鼻で笑いながら愉快そうに言う。
「ああ。ここが今回の目的地だ。ちゃんと営業してる宿屋だよ。こんなでもこの辺じゃ上等なんだぞ?」
「へ、へえ」
「昔からこの区画は流れ者が多い。あとは大怪我して働けなくなった奴とかな。特に行くアテもない連中が集まって、黒い森周辺での作業とか日雇いの仕事で糊口を凌いでたりする。そんなだから得体の知れない人間が多くて、犯罪者が身を隠すのにうってつけってワケだ。
――アイシャ、あんまり離れるなよ」
さも当然といった口調で説明してくれたヒルさんは、来た道を振り向いて声をかける。
いつの間にか少し離れた場所にいたアイシャさんは子供達に銅貨を渡していた。ちょっと目を離した間に8人くらいが集まっている。
あと、今日は手枷の外されたボス氏も一緒にいる。逃げようと思えば逃げられそうだがそんな素振りは見せない。
「あ、ヒルじゃん。金くれよ」
男の子がひとり、近づいてきて話しかけてきた。
「おい、ちゃんとした挨拶くらい憶えろ。金は後で仕事と一緒にくれてやるよ」
「仕事はいらねえ。金だけくれよ……」
すげなくあしらわれている。知り合いのようだ。
「じゃあそっちは?高そうな鎧着てんな、金持ちなんだろ。ちょっとでいいから恵んでくれよ」
「あ、ごめんなさい。お金持ってきてなくて」
僕は所得のほとんどをローマンさんに管理してもらっている。衣食住にほとんどお金を使わないこともあって、普段から財布自体持ち歩いていない。
「んだよ、シケてんな。貧乏人に施さねえヤツは天国行けねえぞ」
とてもじゃないが、ひとに物をねだる態度には見えなかった。睨め付けるような表情でこちらを見ている。
将来は立派なチンピラになることだろう。
「シスターから貰ったろ。ホラ、あっち行けクソガキ」
しっしっ、と追い払われた男の子は舌打ちをひとつ残して去っていく。
その図太さ、ちょっと見習いたい。
「まあこんな感じだ。気楽に行こう」
ヒルさんはそう言って建物へと近づき、片開きのドアを押す。
「いらっしゃ――ああ、ヒルか」
まるで、酷く軋んだ蝶番が呼び鈴になっているかのように、扉が開くなり声が掛かった。
入って右側のカウンターから、おじさんが身を乗り出している。この宿の店主だろうか、通りの人たちよりは良い物を着ていて、少々丸っこい。
店内は薄暗いが、節約のためか明かりは点いていない。どこからか射しこむ日の光が、丸テーブルや椅子の輪郭をつくっている。
この領地で経営している宿屋の多くがそうであるように、ここも1階は酒場になっているようだ。15人くらいが入れば満席になりそうな広さだ。だが、今は誰もいない。
「よお、オヤジ。調子どうだ?」
「最高だよ」
ヒルさんが挨拶するとおじさんはカウンターに頬杖をついたまま、嫌悪感を隠そうともせずに皮肉を吐き捨てた。気の置けない会話を聞きつつ、僕たちは並んでカウンター席に腰掛ける。
「で?そいつらは?サーカスでも始めんのか?」
「それもいいかもな。こいつらは俺のツレだ。
――まあ、ゆっくり話を聞かせてくれよ」
ヒルさんは軽い調子で言葉を返すと共に、カウンターに沢山の銀貨が入った小箱を置く。おじさんは素早く銀貨を回収すると、「何飲むんだ?」と注文を取り始めた。眉間の皺こそ変わらないが、明らかに態度が軟化している。
まさに現金である。
ヒルさんとボス氏にはビールを、アイシャさんにはワインを注いでくれる。
僕は断っておいた。
くいっと木のコップを傾けたヒルさんは、一息ついてから口を開いた。
「で?悪魔が住み着いたって?」
「やめてくれよ。街の連中が好き勝手話してるだけだ。悪い噂が広まった所為で客は出て行っちまった」
「それでこのザマか。他の宿は満室だっていうのにねえ。で、実際のところどんな状況だったんだ?」
「はあ……客室で死体が出たのが3週間前くらい。ジジイがベッドの上でくたばってた」
「そりゃ大変だ。でもこの辺じゃそれくらい珍しくないだろ?強盗とかで」
その言葉を聞いて、おじさんは物凄いため息を吐いた。髭だらけの顔面を全部使って不快感を表している。
「その日の朝から客の女が『隣の部屋が臭え!』言って喚いてやがった。確かに、1階にも臭ってきてたよ。仕方無くその部屋に行ったら鍵がかかってたんだが、いくらノックしても反応が無え。だから合鍵を使ってドアを開けたら――」
「開けたら――?」
一同、固唾を飲んで次の言葉を待つ。
「腐ってやがった……」
「あ?」
「腹から上が腐ってたんだよ!信じられるか!?
前の日の夜にそのジジイに酒を出してるし、あの日はままだまだ寒かった!夜のうちに死んだとしてもあんな風になるワケが無え!!
臭いが染みついちまって、ベッドは使いもんにならねえし、部屋にも客を入れられねえ!」
宿屋のおじさんは凄い剣幕で叫び出した。自分が経営している宿でそんな死体が出て、商売も上手くいかなくなってしまったら、余裕がなくなるのも無理はない。
「あー、なるほどな。鍵がかかってた部屋で、尋常じゃない死に様だったのか。そりゃあ悪魔の所業と思われても仕方ないなあ」
「仕方ないじゃ済まねえよ……こっちは商売上がったりだ……それに……」
「何だ?」
「――疑われてるのは俺なんだよ。客室の合鍵は俺しか持ってなかったから」
「そりゃ災難だな。
うぅん―ーできるかどうかは良いとして、殺る理由がお前にあるかね」
「俺もそう言ったよ。死んだジジイとは初対面で恨みなんかねえし、もし殺したとしてもさっさと街から出てるってな。だが衛兵共は話聞きやしねえし、監視までつけてやがる。税の無駄だ。クソッタレ共が」
そう悪態を吐くおじさんを見ていると、可哀そうになってきた。
「その日この宿に泊まってた客は?」
「ああ、ちょっと待て」
おじさんはノートのような物をカウンターから取り出してページを捲り始めた。客が個人情報を記す宿帳というやつだろうか。
「死んだジジイはエネーアって名前だ。書いてある住所はこの街の中じゃねえな。身なりは悪かったが金払いは悪くなかった。『この3週間くらいで稼がせて貰った』って酔っ払った時に大声で話してたよ。
エネーアの他に客は4組。
カジョ。こいつも住所はこの街じゃない。牛みてえに、鼻に銀のピアスを着けた陰鬱な男だ。エネーアのと同じ階に部屋があった。
コローとペラジー。住所はこの領地の農村だ。片耳にピアスを着けた男女。同じピアスだったから、夫婦じゃねえかな。エネーアの隣の部屋で、騒いだのもこのペラジーだ。
レオカディオ。こいつもこの街の人間じゃない。金色の十字架のネックレスを着けたデカイ男だ。武器を持ってたし、傭兵だと思う。こいつがいたのは真上の部屋になる。
ヘルトルディス。最近この街に引っ越して来たようだ。左手の薬指に指輪を着けた若い女。こいつだけはその夜いなかった」
おじさんは開いたページを指でなぞりながら喋っている。
「さすが、金目の物はしっかり見てるな」
「もちろんだ。宿賃が払えなかった時に身ぐるみ剥がさなきゃならん」
さも当然といったように言うのでちょっと面食らってしまった。この辺りに住む人々は皆たくましいな。
「ありがとさん。じゃ、その部屋を見せて貰ってもいいか?」
「客もいねえし、好きにしてくれ。2階に登ってすぐの部屋だ。俺は行かない」
おじさんは不貞腐れながら鍵束を渡してきた。もう見たくもないのだろう。テコでも動かなそうだ。
カウンターから離れ、1階の奥にある階段を登っていく。こちらも足を運ぶ度に軋む、底が抜けないか心配になった。
「臭えな」
と階段を登っている途中でボス氏がそう呟く。死臭か。
踊り場から2階の廊下へと移動する。建物の壁に沿って3つのドアが並んでいた。フロアごとに3部屋、全部で6つの客室があるようだ。ひとつは空き部屋だったのだろうか。
目的の部屋は2階の角部屋だ。ドアの前まで来ると、隣のアイシャさんが顰めっ面になった。このドアの先で、ひとが死んでいた……
「エネーアが死んでたのはこの部屋だな――うん、確かに鍵はかかってる」
ヒルさんはドアノブを捻って確認し、鍵束から何本かを試してドアを開けた。
当然だが、部屋には悪魔などいなかった。
8畳くらいの埃っぽい部屋がひとつ。正面には木枠の窓が見える。家具は箪笥と頑丈そうな金庫。木のフレームだけが残ったベッドくらい。体液で汚れたマットやシーツは片付けてしまったのだろう。
「エネーアはこのベッドの上に仰向けになって死んでいた。
検死の結果だが。年配で細身、黒い短髪の男性。安価で汚れた服を着ていた。頭部から腹部までが酷く腐敗していて、人相の判別ができないくらいだった。損傷が激しいからか、死因となる外傷は見つけられなかった。
死ぬ直前に悶え苦しんだのか、両手は首の辺りにあった。未知の毒物を用いたのかも、とのことだ」
ヒルさんの報告を聞いて、アイシャさんが口を開く。
「毒殺、ですか。あのドア、鍵は頑丈でした。下に少し隙間があるくらいですね。窓は子供くらいなら通れそうですが……」
閉まっている窓に近付いて動かしてみる。
窓と言ってもガラスで出来ているわけではない。木の蓋のようなものだ。これを押し開けて、つっかえ棒で開けておく。アイシャさんの言う通り開口部はそれほど大きくない。
窓からは一本向こうの通りが見える。2階だからそれなりに高い。頑張ればよじ登れるだろうか?
「俺がもしドッペルだったら、ネズミとかに変身して部屋に入るかな」
「遺体を腐敗させる毒物さえ手に入れば、犯行は可能なんですね」
ヒルさんの言葉に納得して相槌を打つ。
「ちゃんと掃除をやっているとは言えないですね。あ、でも、ここだけ埃が無い……ロープでも置いてたのかな……」
しゃがんでベッドの近くを見ているアイシャさんがそう言う。ベッドの下には埃が積もっていた。何かが置かれていたところだけ、埃が無い。
「鍵も金庫も随分頑丈だな」
盗賊のボス氏は、箪笥に置かれている金庫をいじっていた。あの金庫、この部屋にある他の調度よりも品質が良さそうだ。
「この宿の売りはそこだ。目立たない場所に安く部屋を借りたいが、防犯はしっかりしたところが良いって人間が好む」
「なるほどね」
「――なあ、エネーアはどんな人間だと思う?」
ヒルさんは調べる手を止め、真っすぐボス氏を見てそう問いを発した。
「……さあな。黒い森で死体でも漁ってたんだろ」
「魔物に殺されたヤツの持ち物を盗んでたと。なんでそう思う?」
「墓荒らし共にとっちゃ、大規模侵攻は格好の稼ぎ時になる。
土地を貰えなかった貴族の末息子が、餞別に剣と防具とアクセサリを受け取ってティリヤまで流れてきて、死んじまったってのはよくある。そうゆう遺失物を戦闘のどさくさに紛れて探すんだよ。
――同じようにして小金を稼ぐヤツを何人も知ってるってだけだ」
「ふむ」
僕も黒い森で道具を失くした経験は多い。売れる物は幾らでも転がっているだろう。周りは魔物だらけで命懸けにはなるが、効率良く稼げるのかもしれない。
……だが。それは冒涜だと感じてしまい、自分はそんなことしたくないと思ってしまう。
この鎧を着てからというもの、お金がかかっていないから、言えるのかもしれないが……
「道徳心の欠片も無いですね」
「へっ、流石は使徒様だ。そんなモンは嗜好品だよ。貧乏人は持っちゃいねえ」
僕の言葉を聞いたボス氏は、ほくそ笑んでそう言った。
やはり、一緒に行動はしているが、このひととは仲良くできないだろう。
決して軽蔑ではない。ただ分かり合えないと、諦めてしまう。
「この部屋で調べられるのはことのくらいか。他の客室も見て、今日は解散しよう。その日に泊ってた客の情報を集めないとな」
ヒルさんがそう提案し、僕たちは他の部屋を調べてから宿屋を後にすることにした。
宿を出るとき、おじさんに幾つか質問したのだが――
おじさんは死体を見つけたとき、臭いを嗅いですぐに窓を開けたようだ。つまり窓は閉まっていたことになる。
金庫の鍵は死体の近くにあったらしく、開けてみたところ、結構な量の金品が残っていたらしい。それは証拠品として衛兵に持って行かれてしまったようだ。
エネーアさんがロープを持っていたかどうかは、良く憶えていないと言っていた。
――――エネーアさんが亡くなる前の晩に、生きているところを宿屋のおじさんが見ている。部屋は内側から鍵が掛かっていたし、狭い窓も閉まっていた。
密室殺人というものに、実際に巡り合うとは思ってもみなかった。
「まったく面倒な話だ。関係者はほとんど余所者みたいだし、足跡を追えるか微妙だ。これは時間が掛かるなあ」
死体の臭いを全然気にしなかったヒルさんは、あまりの面倒臭さに、渋面で後頭部を掻いた。