43話 3月28日 空の椅子
「嘘だ……」
炎が遠ざかっていくのを横目で見ていた。
平衡感覚が大きくぐらついたのは、神馬の子が襲歩で走っているからか、僕の身体から力が抜けているからか。振り降ろされないように、手綱を握るフベルトさんの甲冑に掴まる。
どれくらい揺られていただろうか。森の中を駆けて、視界が広がった。
グラ二が歩を緩めていく。
大量の篝火が焚かれる野営地は、物々しい雰囲気に包まれていた。武装した人々は柵の手前で待機して、魔物の襲撃に備えている。
"聖なる泉"だ。
帰ってこられた……
辺りの喧騒が耳鳴りとなり、頭のなかを反響する。怪我人を担架で運ぶひと、馬の口取りをして厩舎へ連れて行くひと、雨でべちゃべちゃの地面に仰向けになり、荒い呼吸をしているひと。
グラ二から降りると足から力がすっと抜け、体重を支えられなくなった。
雨を浴びながら両手両膝を地面について、駆けて来た道の入り口に首を向ける。しかし、道の入り口は影で塗りつぶされていて何も見えない。
誰も帰ってこない。
最後に見たラロさんの横顔が、頭から離れない。
妙に明るく見えた葉巻の火種と、それに照らされる力の抜けた笑み。
もしかしたら、と。
自分がもう少し頑張っていれば、人狼を倒すことを諦めていなければ――
そんな考えが頭蓋の中に充満して、渦巻いていた。
その時、
「使徒様が負傷している!」
という声が耳に届いた。
不意に湧いた困惑を振り払うように、困惑の答えを探すために、頭を上げて辺りを見回す。
誰の声だ。
誰のことだ。
「聖職者をここへ!早く!」
馬の上で、めいっぱい声を張り上げている人影が見える。豪華な甲冑に身を包む大きな身体。あんな姿はふたりといない、フェルナンドさんだ。第三防衛線の指揮を執っていたと聞いたが、ついぞ会えなかった。
もしかしたら、と思い、呻き声を出しながら、膝に手をついて重い身体を起こして近付いていく。
担架持ってこい!、とか、死なないヤツは後回しにしろ!とか、騒いでいる方へ歩を進める。
木こりの持つ松明に照らされたのは、
出血と火傷だらけの痩身、血の気が失せた刺青だらけの顔。
担架に乗せられるボロボロのラロさんだった。
フェルナンドさんがラロさんを抱えて戻って来てくれたのだ。
青ざめた表情は才能の使い過ぎによるものだろう。それに身体中傷だらけだ。意識は失っていて、浅い呼吸をしている。どう見ても危険な状態だ。
生きている、という安堵と、
死にそうだ、という不安が、
同時に押し寄せる。
すぐに数名の聖職者が駆け寄って来て、癒しの秘跡を使い始めた。担架に乗せられたラロさんが野戦病院の方に運ばれていく。
「フェルナンドさん……」
自分でも何を言ったら分からないまま声を出すと、あまりの動揺に震えた声が出た。
「ああ、ヘイト様。よくご無事で……」
フェルナンドさんは疲れた笑顔をこちらに向け、しみじみとそう言った。
「フェルナンドさんも、よく……ご無事で……」
「私もそう思います。あの状況で生き残れるとは――」
フェルナンドさんは重そうな兜を脱ぎ、小脇に抱えながら続ける。
「防衛線から離れていくフベルト様のグラニを確認したあと、逃げた馬を捕まえて走る途中、大きな炎を見ました。
ラロ様が残ったのだと――
馬を急がせ、白い甲冑を着た騎士とシェイブを相手取るラロ様を見つけ、奴等に一撃加えて何とか戻って来たのです」
「ほ、本当ですか……?」
あの状況でそこまで動けたのかと、とても信じられずそう言ってしまう。
「はは……私の実力とは思えません。この剣が、守ってくれたのでしょう」
フェルナンドさんは背負っている特大剣を抜いた。今回の作戦で彼が振るっていたものだ。刀身は青空のような色をしている。柄、鍔、刀身の長さは美しく均整がとれ、大きな十字架のように見える。
「"信仰の剣"。ドミニク様のレガロです。『自分は戦えないが、その代わりに持っていきなさい。必ず戻って来て返すように』と、私を信じて預けてくださいました」
「ドミニクさんが……」
修道服を着て人のよさそうな笑顔を浮かべる、今月召喚された使徒の姿を思い出す。
「はい。柄を握ったとき身体に力が漲るのを感じました……もしこのレガロを失えば、ドミニク様の身体に負担がかかる。もしお預かりしていなければ、私も最期まで戦っていたやも知れません」
フェルナンドさんは、そう言って照れ笑いのような表情を浮かべる。
「ヘイト様。私はラロ様の傍にこの剣を置いてきます。あの方の快方を願って」
僕に対して丁寧に礼をすると、フェルナンドさんは野営病院のテントに向かっていった。
さっきより、野営地が良く見える。
普段見せないような、脱力した姿で椅子に腰かけるディマス騎士団。互いの無事を喜び、涙を浮かべて抱擁を交わす木こり達。地べたに座り込み、ご婦人が配っているサンドイッチを頬張る傭兵たち。
大きな怪我をせずに済んだ、見たような顔ぶれが着替えも後回しにして、至る所で休憩していた。
沢山の人が戻ってこられたようだ。
僕は泉が見える湖畔に向けて歩き、狭い砂浜に腰を下ろす。優しい夜風に撫でられる鏡のような泉を眺めた。
いつの間にか雨は止んでいて、泉の水面には欠けた月が浮いている。
やがて、野営地は静かになっていった。
一晩中泉を眺めていたが、泉の影響か、魔物が襲撃してくることは無かった。
つい、責めるような口調で言ってしまう。
「なんであの時残ったんですか?」
「うん?」
ラロさんが座る椅子は、大理石のような高級感のある白い石材でできている。肘置きも背もたれもあって、どこかの国の王様が座るような椅子だ。
つい昨日意識を取り戻したラロさんは、顔色こそ最悪だが、こちらを挑発するようにニヤついている。
あれから数日が経った。
撤退戦に参加した生き残りは、優先的に黒い森から撤収させてもらった。だから、あのあと野営地の人たちがどうしていたのかは聞いた話になる。
決して予定通りとは言えないが、大規模侵攻作戦は撤収段階に入り、"聖なる泉"に設置した野営地の片付けが始まった。
この段階に入って魔物の攻勢は勢いを増したようだ。だがこれは、大規模侵攻の経験者曰く、例年通りに戻った、というのが正しいようだ。
僕たちがまんまと釣られた時点で、シンイーさんが領主まで連絡を飛ばしていた。そのおかげで街が組織した増援と合流でき、それからは比較的安全に撤収を進められたと聞いている。
そのシンイーさんは、雨が降るなかずっと鳳凰を飛ばしていたので、疲労で体調を崩してしまったようだ。彼女は丸一日以上、各場所の連絡を繋ぎ続けてくれていた。
シンイーさんがいなかったら、僕たちは全滅していたかもしれない。一番の功労者と言っても過言ではないだろう。
全滅こそ避けられたが、ディマス騎士団、木こり達、傭兵。それぞれ相当な被害が出た。
最も酷い被害がでたのはネグロン家の剣で、戦闘部隊で生き残ったのはふたりだけ。野営地で待機していた10人と合わせても半分以下になってしまった。
街の権力者の関心事は、専ら作戦行動をしていた魔物のことと、その首謀者だったが――
あの白鎧が何者なのか、誰も分からなかった。
僕を含めた数人が街の西に来ている。
暖かな陽光、鳥のさえずり、木の葉の鮮やかな緑に包まれている。
大理石のような石材でできた大きな椅子。それを囲うように長さの揃った芝生があり、周りの木は丁寧に整えられている。
森の中に作られた、円形に整備されている庭園、といった景観だ。
ここは"聖域"と呼ばれている場所で、こちらの世界で暮らす聖職者たちにとって、重要な場所のひとつだ。
何故、この場所が聖域と呼ばれているか。
それは、ここで使徒の召喚と送還が行われるからだ。
僕がこの世界に来た時もあの椅子に座っていた。あの時は混乱していたから、聖域と呼ばれていることを知ったのは最近だったが。
今日のような日は、こうして親交の深かった者たちが集まり、送還される使徒の見送りをする。
感謝を込めた、最後のお別れだ。
「死の舞灯、ほとんど使い切っちまった。あんまり残してやれなくて悪いな」
「いいえ、貴方が生きて、送還を迎えられるだけで、私どもは十分です」
「そうか――レイナ、世話になった」
「こちらこそ……なんとお礼を申し上げればよいか……」
この1年間ラロさんの案内人をやっていた若い修道女は、言葉が詰まって涙ぐんでいる。
椅子から立ち上がれないラロさんに、レイナさんは身を屈めて抱擁を交わし、両の頬にキスをした。
ラロさんはレイナさんを慰めるように会話を続けている。
こちらの世界に点在する聖域には、この国どころか遠方の国からも巡礼者が旅をしてくる。
使徒の送還となると、そんな巡礼者たちも一目見たいと思うだろうし、最後にお礼を言っておきたい人も大勢いるだろう。だが、そんな人々を全員招待してしまうと収拾がつかないから、人払いをかけるようだ。
個人的な挨拶を除けば、送還祭が街の人々と使徒のお別れの場になる。
「ヒル、怪我平気か?」
「ああ、平気だよ。あの白いの強かったなあ。ま、こっちも一発食らわせてやったけど」
ヒルさんは片腕を包帯のような物で固めている。白鎧との戦闘で負傷してしまったようだ。
「ふぅん。無理してんじゃねえのか?」
「ラロに言われたくないねえ。そんなになるまで頑張りやがって。お前らしくもない」
「最後くらいカッコつけないとな」
ラロさんは鼻で笑いながら飄々と答えた。ふたりは和やかに会話を続けている。
集まっているのは、ラロさんとその案内人であるレイナさん。ヒルさん、聖職者が何人か。そして僕。
全員と挨拶を終えたラロさんが、ゆっくりとこちらに目線を向けた。
ラロさんに対しては、逃げる素振りも見せずひとりあの場所に残ったことが、ずっと気になって納得できていない。
それに僕がラストってどうなんだ。こういうときは大事なひとを最後にするもんじゃないのか。
そんな思いがあって、これで最後なのだからこんな話題避けようかと考えていたのだが、口が勝手に動いてしまった。
「なんであの時残ったんですか?」
「うん?」
ラロさんは僕の言葉を聞いて肩眉を上げた。こちらを試すような眼差しを向けている。
「お前にだけは言われたくねえな」
「むぅ」
それを言われてしまうともう答えられない。僕も相当危険なことをしている自覚は、一応ある。それでも聞きたかったのだ。
「……人間の頭には引き金がある」
「?」
ラロさんはニヤニヤと笑みを浮かべながら、片手を銃のハンドサインにして、自分のこめかみをトントンと叩く。
「その引き金を引いた時、人間は一線を超えれるようになる。大抵の奴は硬くできてて、力が要る。いざって時にもそうそう引けない」
「頭の中の、引き金……」
「ああ。だが、俺みたいな奴の引き金は軽い。何回も使ってるうちに、ガタついて、緩んで、どうしようもなくなってる」
なんとなく、当たっているかは分からないが、良心みたいなものの例えだろうか。
「なあ、ヘイト」
「なんですか?」
「お前のも相当軽い」
「はっ!?」
「間違いない。お前はそのうち仲間のためとか、組織のためとか、そんなバカみたいな理由で引き金を引く。そんで超えちゃいけねえ一線を超えちまうんだ」
「えぇ」
何と言うか、心外だ。そんなに野蛮な人間に見えているのだろうか。
ラロさんは手をひらひらと振り、こっちこい、とジェスチャーをする。
椅子に座るラロさんに近付くと、彼は両手を伸ばし、僕の顔を覆っている面を両手で掴んだ。強い力で引き寄せられて、ブラウンの瞳が真正面に来る。
「だが、一度超えたら、もう戻れない。引き金を引かなくて済みそうなら、引くな。慣れてきたら終わりだ」
頬に何かが当たった。顔に着いている面の内側だ。
訝しんでいると、ラロさんは僕の頭を押し出すようにして両手を離した。
2,3歩、たたらを踏むように後ろへ下がる。
ラロさんは集まった皆を見回すと、何度も見たニヤリとした笑みを浮かべて、
「じゃあな、お前ら。楽しかったよ」
と言った。
瞬きをひとつすると、ラロさんの姿は消えている。
華々しい演出など無く、ぱっと、いなくなっていた。
誰もいなくなった、石でできた椅子を見る。
結局僕の質問には、はっきり答えてくれなかった。
皆、空になった椅子を見て、ゆっくりと馬車の方へ向かって歩き始めた。別れを噛み締めているのか、口を開く者はいない。
もう会うことはないのだろう。
ひとかけらの寂しさを感じて、
空を仰ぐと、雲ひとつない晴天が広がっていた。
もう一度、空の椅子を見る。
あと数日で、
次は――